著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.144-117, 2009

「日常的には行わない反対(逆さま)の行為」の民俗学的意味について考察した民俗学者・常光徹は、井戸に関する次のエピソードを紹介している。岩手県では、バカ(ものもらい)ができたときは、小豆三粒で目をこすり、後ろ向きになって井戸に落としながら「あったらバカ落とした」と唱えて、後ろを振り返らずに帰る。~(中略)~魔を移したり封じ込めたものを、辻・川・井戸で捨てるのは、そこがこうしたものを捨てるに適した場所、つまり日常の生活空間とは異なる世界との出入り口(境界)と認識されていたからだろう(1)。 この事例でのポイントは、意図的に「後ろ向き」の姿勢をとるということである。常光は、こうした行為が行われる場合、その「背後に異界や妖異など非日常的な世界やモノが想像されている」場合が多いこと、そして例えば「後ろ手」には「異界や妖異との関わりを拒否しつつ一方でそれらに働きかけるという二面性」が看取できるとしている(2)。井戸は彼岸たる地中へ深く差し込まれた筒であり、まさに彼岸と此岸を往還しうる=ウツりうる「出入り口」、すなわちすぐれて境界的な「回路」である。能の夢幻能によく見られるシテの造型は、まさにこうした両義的時空を、往来できる存在として設定されている。たとえば、世阿弥作の夢幻能《井筒》の場合、前シテの登場歌は、後ろ向きで謡われる。まさにその理由は、能舞台中央に置かれる作り物の井筒が象徴する、この謡曲の主題である「井筒」が極めて境界的な場だからと考えられよう。 「井筒」が筒によって囲われた穴空間であることは言を俟たない。評論家・松岡正剛は、日本文化の特質のひとつとして「囲い」を挙げる(3)。もとは幕や屏風を立て廻すことを意味した「囲い」はのちに茶道で茶室を意味する語としても使われるようになるが、その特質は「仮設的」であるにもかかわらず、その内側に別世界が出現させられるという点にある。例えば、古代では、神籬や榊(境木)や注連縄(標縄)によってある特定の場を「囲う」ことによって区切られた空間は「しろ」と呼ばれ、屋根のある「しろ」=「やしろ」が神「社」が始まりである。この「しろ」に「代」の字を充てたことから、「しろ」という語が、「何か重要なものの代わりを担っているもの」あるいは「何かの代理の力をもったものやスペースやそのスペースを象徴するもの」を示していることがわかる(4)。

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