著者
木村 直弘
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.115-136, 2015-03-10

宮崎駿と並ぶ日本アニメ映画界の「レジェンド」で1998年には紫綬褒章を受章し,2015年には『かぐや姫の物語』で第87回アカデミー賞長編アニメーション部門にもノミネートされるなど今日国際的な評価を得ている高畑勲監督(1935年生)は,2014年10月,NHKテレビのインタビュー(1)で,宮澤賢治作品をアニメ化することについて問われた際,「僕にとっては,畏れ多い」と答えている。以前,5年の月日を費やしてアニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を自主制作したこともある高畑に賢治作品への畏敬の念が本当にあったかどうかについてはさて措き(2),賢治作品について高畑がこのようなイメージをもつに至ったのは,1939年,賢治没後初めて出版された子ども向け童話集『風の又三郎』(坪田譲治解説,小穴隆一画,羽田書店)を読んだという彼の最初の賢治体験に依るところが大きい。羽田書店は,この前年,賢治の盛岡高等農林学校時代の後輩でその思想に多いに影響を受け農村劇活動などを実践した松田甚次郎の『土に叫ぶ』を刊行し,ベストセラーになった。同店はその余勢を駆って,松田編の『宮澤賢治名作選』を1939年3月に刊行,これが賢治の童話作家としての名声が広まる大きなきっかけとなったことはよく知られている。このいわば大人向けの選集の好評を受け,さらに同年12月に子ども向けとして刊行されたのが童話6編を収めた前掲『風の又三郎』で,当時文部省推薦図書指定を受け,これも多くの子どもたちに読まれた。さらに,翌1940年10月には,日活によって映画化された『風の又三郎』(監督:島耕二)が公開され,「はじめての児童映画の誕生」ともてはやされ「文部省推薦映画」となり,映画文部大臣賞を受賞,宮澤賢治の名は人口に膾炙することになる。同年,小学校三年生の時に故郷岡崎で観たこの映画や小学校六年生の時に読んだ〈銀河鉄道の夜〉の「すごくメタリックに光る,キラキラした印象」(3)をもとに,名実ともに「一大交響楽」(4)を作曲したのが,高畑より3歳年上のもう一人の「勲」,すなわち,数多くの映画音楽やテレビ番組の音楽を手がけ,またシンセサイザー音楽で世界的に評価されている作曲家・冨田勲(賢治没年の前年である1932年生)である。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.14, pp.115-136, 2015

宮崎駿と並ぶ日本アニメ映画界の「レジェンド」で1998年には紫綬褒章を受章し,2015年には『かぐや姫の物語』で第87回アカデミー賞長編アニメーション部門にもノミネートされるなど今日国際的な評価を得ている高畑勲監督(1935年生)は,2014年10月,NHKテレビのインタビュー(1)で,宮澤賢治作品をアニメ化することについて問われた際,「僕にとっては,畏れ多い」と答えている。以前,5年の月日を費やしてアニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を自主制作したこともある高畑に賢治作品への畏敬の念が本当にあったかどうかについてはさて措き(2),賢治作品について高畑がこのようなイメージをもつに至ったのは,1939年,賢治没後初めて出版された子ども向け童話集『風の又三郎』(坪田譲治解説,小穴隆一画,羽田書店)を読んだという彼の最初の賢治体験に依るところが大きい。羽田書店は,この前年,賢治の盛岡高等農林学校時代の後輩でその思想に多いに影響を受け農村劇活動などを実践した松田甚次郎の『土に叫ぶ』を刊行し,ベストセラーになった。同店はその余勢を駆って,松田編の『宮澤賢治名作選』を1939年3月に刊行,これが賢治の童話作家としての名声が広まる大きなきっかけとなったことはよく知られている。このいわば大人向けの選集の好評を受け,さらに同年12月に子ども向けとして刊行されたのが童話6編を収めた前掲『風の又三郎』で,当時文部省推薦図書指定を受け,これも多くの子どもたちに読まれた。さらに,翌1940年10月には,日活によって映画化された『風の又三郎』(監督:島耕二)が公開され,「はじめての児童映画の誕生」ともてはやされ「文部省推薦映画」となり,映画文部大臣賞を受賞,宮澤賢治の名は人口に膾炙することになる。同年,小学校三年生の時に故郷岡崎で観たこの映画や小学校六年生の時に読んだ〈銀河鉄道の夜〉の「すごくメタリックに光る,キラキラした印象」(3)をもとに,名実ともに「一大交響楽」(4)を作曲したのが,高畑より3歳年上のもう一人の「勲」,すなわち,数多くの映画音楽やテレビ番組の音楽を手がけ,またシンセサイザー音楽で世界的に評価されている作曲家・冨田勲(賢治没年の前年である1932年生)である。

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著者
木村 直弘 N. Kimura
雑誌
人文論究 (ISSN:02866773)
巻号頁・発行日
vol.39, no.1, pp.45-56, 1989-06-25
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.15, pp.131-160, 2016-03

2015年春,再び「世界のTOMITA」がクローズ・アップされた。4月23日から5月30日の約一ヶ月間に世界25カ国から42の芸術団体や104のバンド他が北京を訪れ,室内,野外,合わせて計150ステージが上演される第15回北京国際芸術祭「相約北京」(「北京で会いましょう」の意。中国文化省,国家報道出版ラジオ映画総局,北京市人民政府による共同主催の,春季開催としてはアジア最大級の国際アート・フェスティヴァル)に,冨田勲作曲の《イーハトーヴ交響曲》が,日本から唯一招待されたプログラムとして,5月20日に北京世紀劇院で河合尚市指揮による中国中央音楽院のオーケストラ「EOS交響文献楽団」と岩手県人を中心とした合唱団「混声合唱団IHATOV FRIENDS」およびCGアーティストKAGAYAによって中国初演され,会場を埋めた1700人の聴衆から大好評を博したのである(1)。1974年には米国RCAから発売されたレコード(国内への逆輸入アルバム名『月の光――ドビッシーによるメルヘンの世界』)が日本人によるものとしては初めてグラミー賞にノミネートされ,翌年には次作アルバム『展覧会の絵』がビルボード・キャッシュボックスの全米クラシック・チャートの第一位を獲得して,作曲家冨田勲はシンセサイザー音楽の分野で一躍「世界のTOMITA」となった。さらに冨田は,1980年代には,世界平和の希求をコンセプトに,オーストリアのドナウ川で「宇宙讃歌」(1984年),米国のハドソン川で「地球讃歌」(1986年)と銘打たれた,超立体音響「TOMITA Sound Cloud」による壮大な野外イヴェントを成功させ,また,1998年には日本の伝統楽器,オーケストラ,シンセサイザーを融合させた《源氏物語幻想交響絵巻》をロサンゼルス,ロンドンで上演するなど,世界的に活躍してきた。そして,こうしたこれまでの国際的な活躍に対して,Japan Foundationによる平成27(2015)年度国際交流基金賞が,「~(前略)~近年は宮沢賢治の世界を描いた「イーハトーヴ交響曲」において,全世界の若者たちに絶大な人気を誇るボーカロイド(ヴァーチャル・アイドル・シンガー)の初音ミクをソリストに起用して話題を集め,今年5月には中国政府からの要請で「イーハトーヴ交響曲」北京公演を大成功させるなど,83歳を迎えてなお,日本文化紹介と国際相互理解の増進に大いに貢献し続けている」その「功績を称え,今後益々の活躍を期待」して,2015年8月27日に冨田に授与されている(2)。しかし,冨田が齢80を越えてから再び世界的に注目を集めたこの《イーハトーヴ交響曲》が,ヴァーチャル・アイドル・シンガー「初音ミク」をフィーチャーしてはいるものの,基本的には,同じく世界平和と希求したベートーヴェンの交響曲,特に《第九交響曲》以降,クラシック音楽の王道的ジャンルとなった「交響曲」であることは看過されてはならない。筆者はすでにこの「交響曲」に取材した2本の論考(3)で,宮澤賢治におけるベートーヴェン《第九交響曲》のいわゆる〈歓喜の歌〉からの影響について指摘してきたが,本稿は,いわば《イーハトーヴ交響曲》に関する拙論三部作の締めくくりとして,これまでその意味について言及してこなかった,いわばこの曲の構成原理とも言える音楽引用の問題について考察する。音楽における引用の問題については数多くの先行研究があるが,この交響曲はそうした先行研究の射程では捉えきれない内容をもつ。そこで,本稿では,改めて「ノスタルジア」という視点を設定し,それらが音楽引用という構成原理によっていかにこの交響曲で効果的に機能しているかを捉え直すことによって,この交響曲だけでなく,本家本元の宮澤賢治作品についての新しい視角をも提示することを目的としている。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.15, pp.131-160, 2016-03

2015年春,再び「世界のTOMITA」がクローズ・アップされた。4月23日から5月30日の約一ヶ月間に世界25カ国から42の芸術団体や104のバンド他が北京を訪れ,室内,野外,合わせて計150ステージが上演される第15回北京国際芸術祭「相約北京」(「北京で会いましょう」の意。中国文化省,国家報道出版ラジオ映画総局,北京市人民政府による共同主催の,春季開催としてはアジア最大級の国際アート・フェスティヴァル)に,冨田勲作曲の《イーハトーヴ交響曲》が,日本から唯一招待されたプログラムとして,5月20日に北京世紀劇院で河合尚市指揮による中国中央音楽院のオーケストラ「EOS交響文献楽団」と岩手県人を中心とした合唱団「混声合唱団IHATOV FRIENDS」およびCGアーティストKAGAYAによって中国初演され,会場を埋めた1700人の聴衆から大好評を博したのである(1)。1974年には米国RCAから発売されたレコード(国内への逆輸入アルバム名『月の光――ドビッシーによるメルヘンの世界』)が日本人によるものとしては初めてグラミー賞にノミネートされ,翌年には次作アルバム『展覧会の絵』がビルボード・キャッシュボックスの全米クラシック・チャートの第一位を獲得して,作曲家冨田勲はシンセサイザー音楽の分野で一躍「世界のTOMITA」となった。さらに冨田は,1980年代には,世界平和の希求をコンセプトに,オーストリアのドナウ川で「宇宙讃歌」(1984年),米国のハドソン川で「地球讃歌」(1986年)と銘打たれた,超立体音響「TOMITA Sound Cloud」による壮大な野外イヴェントを成功させ,また,1998年には日本の伝統楽器,オーケストラ,シンセサイザーを融合させた《源氏物語幻想交響絵巻》をロサンゼルス,ロンドンで上演するなど,世界的に活躍してきた。そして,こうしたこれまでの国際的な活躍に対して,Japan Foundationによる平成27(2015)年度国際交流基金賞が,「~(前略)~近年は宮沢賢治の世界を描いた「イーハトーヴ交響曲」において,全世界の若者たちに絶大な人気を誇るボーカロイド(ヴァーチャル・アイドル・シンガー)の初音ミクをソリストに起用して話題を集め,今年5月には中国政府からの要請で「イーハトーヴ交響曲」北京公演を大成功させるなど,83歳を迎えてなお,日本文化紹介と国際相互理解の増進に大いに貢献し続けている」その「功績を称え,今後益々の活躍を期待」して,2015年8月27日に冨田に授与されている(2)。しかし,冨田が齢80を越えてから再び世界的に注目を集めたこの《イーハトーヴ交響曲》が,ヴァーチャル・アイドル・シンガー「初音ミク」をフィーチャーしてはいるものの,基本的には,同じく世界平和と希求したベートーヴェンの交響曲,特に《第九交響曲》以降,クラシック音楽の王道的ジャンルとなった「交響曲」であることは看過されてはならない。筆者はすでにこの「交響曲」に取材した2本の論考(3)で,宮澤賢治におけるベートーヴェン《第九交響曲》のいわゆる〈歓喜の歌〉からの影響について指摘してきたが,本稿は,いわば《イーハトーヴ交響曲》に関する拙論三部作の締めくくりとして,これまでその意味について言及してこなかった,いわばこの曲の構成原理とも言える音楽引用の問題について考察する。音楽における引用の問題については数多くの先行研究があるが,この交響曲はそうした先行研究の射程では捉えきれない内容をもつ。そこで,本稿では,改めて「ノスタルジア」という視点を設定し,それらが音楽引用という構成原理によっていかにこの交響曲で効果的に機能しているかを捉え直すことによって,この交響曲だけでなく,本家本元の宮澤賢治作品についての新しい視角をも提示することを目的としている。
著者
木村 直弘
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.10, pp.55-84, 2011

ロシアの文豪レフ・トルストイ(1828~1910年)はその芸術論『芸術とは何か? What is Art?(Chtotakoye iskusstvo?)』(1897/98年)の冒頭・第1章に,彼が或る「もっともありふれた」新作オペラの下稽古に立ち会った時の光景の描写を置いている。そのストーリーは,あるインドの王のもとに結婚相手が連れてこられると,王は歌手に変装しており,花嫁はその歌手に恋してしまうが,最終的にその歌手が王だとわかってハッピーエンドに終わるという「まず空想としか思えないような,およそばかげきったしろもの」である。インド人が花嫁を連れて来る行列の場面の下稽古中,行列が進み出すとホルンと朗唱が合わなくなる。とたんに「指揮者は,まるで災難でも降って湧いたように身震いとともに指揮棒で譜面台を叩く。なにもかもがやめになり,楽長はオーケストラのほうに向きなおると,フレンチ・ホルンに食ってかかり,なぜ調子をまちがえたのかと,まるで馬車屋の捨てぜりふそっくりの,じつに口ぎたない言葉で罵倒する。そしてまた,何もかもが最初からやりなおしである」。こうした楽長の強権的言動の描写はさらに続く。「こんどは何もかもうまく行っているように見えた。ところが,またして指揮棒が鳴り,楽長は,弱りきった,にくにくしげな声で,男女の合コ ーラス唱隊を叱りつけにかかる」。そしてまた「なんだい,いったい,死んでいるのか,君たちは? 牝牛め! 木偶の坊みたいにぼんやりつっ立ってるのは,息の根がとまっているのか?」,あるいは,お喋りしていたコーラスガールたちに向かって「おい,君たちはここへお喋りに来たのか? ぺちゃぺちゃやりたきゃ自宅でやれ。その赤ズボンはもっとこっちへ寄って俺を見るんだ。やりなおしっ」等々。ここで,トルストイが敢えてオペラという最もコストのかかる蕩尽的音楽ジャンルを選んだ理由は,それが歌手,オーケストラ,合唱といった音楽家だけでなく,衣裳,舞台美術,大道具・小道具等々を含めて多くの「労働者」から成り立っているからである。搾取する側の象徴である楽長は「自分の芸術という大きな事業に没頭してほかの芸人どもの感情なんかをかえりみてなどはいられない大芸術家の音楽上の伝統だということを知っているので,平気でそういう横暴をやってのける」のだが,実はこうした横暴な楽長も「労働者」同様疲弊している。当時必要額のわずか1%しか国民教育に支出されていなかったロシアで,大都市の「芸術」関連の学校,施設に巨額の補助金が出され,何十万という労働者が「芸術の要求を満たすために,過酷な労働のうちにその生涯を過ごしてしまう」状況,あるいは,たとえば学校や劇場で音楽家が「鍵盤や絃を,非常にはやく掻き鳴らすことを覚え」るよう学習させられることによって,鈍感で一面的な「ただ足や,舌や,指をねじりまわすことしかできない専門家」で満足するようになってしまう状況等,こうした芸術至上主義的趨勢にあってもはや不分明になってしまった問い,すなわち「芸術とはそのためにこれほどの犠牲をしてもいいほど重要なことなのか?」という問題視こそが,トルストイの芸術論の出発点にある。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.72, pp.39-57, 2012

〈音風景〉とは,カナダの現代音楽作曲家・音楽教育家マリー・シェーファー(1933~)が1960年代末に,「音」を意味する「サウンドsound」と「~ 景」を意味する接尾語「~スケープ-scape」から造語し提唱した「サウンドスケープSoundscape」という術語の訳語である。以下,日本サウンドスケープ協会公式ウェブサイトの用語説明から一部を引くと,サウンドスケープという用語とその考え方は,地球上のさまざまな時代や地域の人々が, 音の世界を通じて自分たちの環境とどのような関係を取り結んでいるのか,どのような音を聞き取りそこからどのような情報等を得ているのかを問題とし,それぞれの音環境を個別の「文化的事象/音の文化」として位置づけます。したがって,サウンドスケープとは「世界を聴(聞)く行為,音の世界を体験する行為によっておのずと立ち表れてくる意味世界」であるともいえるのです。人間とその音環境との関係を探るにあたって,シェーファーがこのサウンドスケープの重要な特徴として挙げたのは,〈基調音Keynote sounds〉〈音信号Sound signals〉〈音標識Soundmark〉の3つである。〈基調音〉とは,ある共同体にあって,いわば後景的に(ゲシュタルト心理学的に言えば「地」として)絶えず鳴り響いているが意識的に聞かれることはない音を指す。これに対し,〈音信号〉とは,特定の意味を伝達し,前景(ゲシュタルト心理学的に言えば「図」)として意識的に聴かれなければならない音である。そして〈音標識〉とは,〈音信号〉の中でも特に共同体によって尊重され,注意されるシンボル的意味合いが強い音を指す。たとえば,岩手県の平泉を例にとると,世界文化遺産に登録された観光地であるので,〈基調音〉としては,観光バスや観光客のたてる賑やかな音などが挙げられるだろうし,〈音信号〉としては,平泉町役場から毎日正午に流されるチャイムや,午後5時に流される「夕焼け小焼け」のメロディなどが挙げられる。そして,〈音標識〉としては,毎年ゴールデンウィークに(社)平泉観光協会主催で行われる「春の藤原まつり」における様々な音がそれにあたる。別表(57頁参照)に示したように,空間的には,中尊寺および毛越寺という両極とそれらを媒介する中間的場としての駅前広場や旧観自在王院庭園など,3つの空間に分けられる。そして,両極を媒介するものとして,町内神輿および県内の各国体による郷土芸能が,かならずその3箇所で披露される。また,時間的にみても,やはりこの「春の藤原まつり」は3部分に大別されうる。すなわち,第一は,中尊寺・毛越寺両極でほぼ同時進行する,前半の,開山大師や藤原四代あるいは源義経の供養法要といった仏教祭祀,第二は,後半の,古実式三番や延年の舞などに代表される神事的伝統芸能に,そして第三に,観光的にはこのまつりのピークと位置づけられる「源義経公東下り行列」に顕著な,両極間を結ぶ移動的イヴェントである。よって,「春の藤原まつり」の〈音風景〉は,観光客や観光車両のたてる地の音を背景に,交差点での信号音や平泉駅での列車の発着音などの〈音信号〉も含みつつ,すぐれて平泉を特徴づける〈音標識〉,すなわち仏教儀礼の音,神事的伝統芸能の音,郷土芸能の音,そして,行列の先導あるいは中間地点での吹奏楽やラジオ拡声器による大音量の音,などによって構成されていると言える。さて,春の藤原まつりのようなまさに今現実に鳴り響く音の世界だけでなく,たとえばこの平泉の地に,かつてどのような〈音風景〉があったのかについては,ジェーファーが「耳の証人」と呼ぶところの,さまざまな古文書等の記録類や文学・神話,あるいは絵画史料などを手がかりとして推測することが可能である。そこで,この小論では,前掲・平泉におけるいにしえの〈音風景〉を今に伝える絵画史料「平泉諸寺祭礼曼荼羅(ニ幅一対・紙本著色,中尊寺蔵・桃山末期~江戸初期)を「耳の証人」としてとりあげ,そこに描かれた〈音風景〉が示す「音の文化」を明らかにすることを目的とする。そこで注目すべき〈音風景〉としては,右幅に描かれた「御一馬(おひとつうま)」,左幅に描かれた「哭(なき)まつり」と「印地打」,そして両幅に描かれた「鐘声」が挙げられるが,本稿では,紙幅の都合上,これらのうちから「御一馬」をめぐる〈音風景〉に考察対象をしぼり論じてゆくことにする。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.69, pp.144-117, 2009

「日常的には行わない反対(逆さま)の行為」の民俗学的意味について考察した民俗学者・常光徹は、井戸に関する次のエピソードを紹介している。岩手県では、バカ(ものもらい)ができたときは、小豆三粒で目をこすり、後ろ向きになって井戸に落としながら「あったらバカ落とした」と唱えて、後ろを振り返らずに帰る。~(中略)~魔を移したり封じ込めたものを、辻・川・井戸で捨てるのは、そこがこうしたものを捨てるに適した場所、つまり日常の生活空間とは異なる世界との出入り口(境界)と認識されていたからだろう(1)。 この事例でのポイントは、意図的に「後ろ向き」の姿勢をとるということである。常光は、こうした行為が行われる場合、その「背後に異界や妖異など非日常的な世界やモノが想像されている」場合が多いこと、そして例えば「後ろ手」には「異界や妖異との関わりを拒否しつつ一方でそれらに働きかけるという二面性」が看取できるとしている(2)。井戸は彼岸たる地中へ深く差し込まれた筒であり、まさに彼岸と此岸を往還しうる=ウツりうる「出入り口」、すなわちすぐれて境界的な「回路」である。能の夢幻能によく見られるシテの造型は、まさにこうした両義的時空を、往来できる存在として設定されている。たとえば、世阿弥作の夢幻能《井筒》の場合、前シテの登場歌は、後ろ向きで謡われる。まさにその理由は、能舞台中央に置かれる作り物の井筒が象徴する、この謡曲の主題である「井筒」が極めて境界的な場だからと考えられよう。 「井筒」が筒によって囲われた穴空間であることは言を俟たない。評論家・松岡正剛は、日本文化の特質のひとつとして「囲い」を挙げる(3)。もとは幕や屏風を立て廻すことを意味した「囲い」はのちに茶道で茶室を意味する語としても使われるようになるが、その特質は「仮設的」であるにもかかわらず、その内側に別世界が出現させられるという点にある。例えば、古代では、神籬や榊(境木)や注連縄(標縄)によってある特定の場を「囲う」ことによって区切られた空間は「しろ」と呼ばれ、屋根のある「しろ」=「やしろ」が神「社」が始まりである。この「しろ」に「代」の字を充てたことから、「しろ」という語が、「何か重要なものの代わりを担っているもの」あるいは「何かの代理の力をもったものやスペースやそのスペースを象徴するもの」を示していることがわかる(4)。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.8, pp.37-66, 2009

日本人はいったいいつ頃から大声をあげて突くことを慎むようになってきたのであろうか。 現代日本の葬儀において,たとえば「働芙」といった言葉からイメージされるような大仰に声を挙げる突きを見聞きすることはあまりない。一方中国人や韓国人の悲哀の表現には依然として声を張り上げた「突き」が存する。こうした差異は,短絡的に情緒面の民族的差異へと還元されがちである。しかし儒教社会における葬儀で「突き」は必須の儀礼的アイテムであり,それは単に感情的に悲しいから自然と号泣するというレベルではなく,「突」すなわち意識的に大声を発することが必要となる。それは単に声を出すだけに留まらない。『礼記』檀弓篇下に「騨踊,哀之至也」とあるように,胸を叩く「騨」や足踏みをする「踊」は,葬儀における最も深い哀悼の意の表現とされた。しかし,それに続けて「有算,為之節文也」とあるように,その表現の度合いは必ず適切に調節されねばならない。母が死んだため子供のように泣く者を見ての孔子の言「哀別哀臭,而難馬纏也。夫薩,為可博也,為可継也,故実踊有節」(『礼記』檀弓篇上)からもわかるように,巽も踊もあくまでも後々まで伝えられるべき礼であるため節度が必要とされた。しかし日本においては,節度ある(あるいはコントロールされた)「突き」は却ってわざとらしいものとしてネガティヴに捉えられる。それはあくまでも表出されることを慎まれる,つまりは音声として公に発せられない方が節度があると見倣されるのである。 民俗学者柳田囲男は,昭和15年8月7日「国民学術協会公開講座」での講演をもとに昭和16年8月に上梓されたエッセイ「沸泣史談」で,日本人が近年大人も子供もめったに泣かなくなったことに着目し,その原因について考察している。柳田によれば,言語を唯一の表現手段と考えがちな「学問の化石状態」下にあって,「泣く」という行為が言葉を用いるより簡明かつ適切な自己表現手段であったことが忘れられ,このような思考は「新たに国の進路を決しなければならぬ当代に於ては,殊に深く反省して見るべき惰性又は因習」(1)である。この国で少なくとも人前でおおっぴらに泣くことが悪徳であるかのように言われ始めた時期を柳田は中世以降と推察し,こうした行為が社会から排斥されるようになったのは,江戸時代の義太夫等に聴かれる働笑の声のように,泣くことが表現方法として非常に有効であり「乱用の弊」があったからとも考えられるとした。そもそも「男は泣くものではない」といった教訓は逆に「女ならば大人でも泣くべし」という理解が人口に胎灸していたからだというのである。大人による表現としての泣きの用途として柳田が挙げているのは,「デモンストレエション(demonstration)」と「ラメンテエション(lamentation)」である。前者は,夫婦喧嘩の際等で,大きな声を立てることによって周囲の注意を喚起し,第三者の公平な判断を味方につけようとする用途であり,後者は神や霊を送る時の方式で,いわゆる儀礼的泣きである。たとえば三月の節句での雛送り(流し雛),盆の十五日の魂送り,あるいは葬式における「泣き女」といった風習からも看取されるように,泣きは,行事に欠かせない慣習的約束事であった。盆や葬式においては,死者との別れといった感傷を伴うため,実感がこもった心からの泣きとの区別がしにくいわけだが,柳田によれば,そこに言語的混同が生じた原因がある。つまり,忍び泣きと呼ばれるナク(「涙をこぼす」「悲しむ」「哀れがる」等)と,表現手段としてのナクとは単語が同じでも全く別種のものであるとされる。
著者
木村 直弘
出版者
勉誠出版
雑誌
アジア遊学
巻号頁・発行日
no.102, pp.142-151, 2007-08