著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.21-40, 1984-12

幕藩体制の成立段階に、二つの内乱があったことは、周知のことである。一つは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦であり、もう一つは慶長十九年(一六一四)および同二十年の大坂の陣である。この二つの内乱については、関ヶ原合戦で事実上の徳川政権が樹立されたが、反徳川勢力がなお残存したため、その盟主とされた大坂城の豊臣秀頼を抹殺したのが大坂の陣であるといった理解が、大方の了解を得ているように見える。すなわち、徳川政権は、関ヶ原合戦で成立し、大坂の陣で確立されたという考え方である。しかし、この「成立」と「確立」の内容については深く検討されたことはなく、大坂の陣で確立という場合、明らかな敵対勢力を軍事的に一掃したという意味がこめられているにすぎないようである。大坂の陣の軍事的結末があまりにも明白であるため、軍事的側面以外については、その経過や意義もほとんど研究されたり言及されたことがない。むしろ、研究者の眼は、軍事的に自明な結果を前提として、そのうえに展開される「武家諸法度」等の制定など元和以降へと向けられているといえよう。一方、慶長期が世相史的に特異な注目される時代だという研究もでてきている。守屋毅氏は、慶長期に出現し一世を風靡する「かぶき」の風潮に着目し、慶長期を「かぶき」の時代と呼びたいと提唱しているほどである。そして、守屋氏は東京国立博物館蔵の「洛中洛外図屏風」(舟木本)をその象徴としてあげているが、氏はこの屏風は、左隻に徳川氏のシンボルニ条城、右隻に豊臣氏のシンボル方広寺大仏殿を対峙させ、この両隻にまたがって対角線状に鴨川の流れを配し、町並みも画面に傾斜して描いており、名所や旧跡のかわりに画面の主人公として登場する群衆の動きも、異様な興奮をただよわせていると評し、この屏風自体を「かぶき」の所産とみている。かぶき者と「かぶき」の世相については、北島正元氏の「かぶき者1その行動と論理」と守屋毅氏『「かぶき」の時代』が注目すべき研究である。かぶき者の評価については、両氏とも単なる愚連隊暴力団とは見ていない。北島氏は、かぶき者こそ下剋上の論理を楯にとって変革主体としての民衆と連携し、幕藩権力の人間的諸権利剥奪に抵抗する役割をになったと評価し、守屋氏はかぶき者の行動論理の深層には戦国乱世への回帰願望があったが、現実には喧嘩三昧に命をかける乱世の仮構のなかで、反時代的であることによって逆説的にもっともよく時代の趨勢を体現した存在であったとみている。本稿のねらいの一つは、先学の研究に導かれながらも、自分なりに慶長期のかぶき者についての歴史的位置づけを試みることであるが、もうひとつは「かぶき」たる世相の背景として、大坂の陣を頂点として伏線的に立ち現われる近世的秩序形成の政治状況を、垣間見ることである。近世封建社会の成立期における第二の内乱として仕組まれた大坂の陣は、決して軍事的意味だけで重要なのではなく、むしろ社会史的・政治史的な側面でこそ実に大きな意味をになっていたのではないか。大坂の陣を中心とする慶長・元和期に焦点を合わせながら、民衆の動向を分析することによって、政治状況の方向を推定してみようと思う。

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こんな論文どうですか? 慶長・元和期における政治と民衆: 「かぶき」の世相を素材として(鎌田 道隆),1984 https://t.co/FJeTPEH1bi
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