著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.29, pp.11-30, 2011

いくつかの家出の実態を見ながら、江戸時代に多発した家出事件の背後をのぞいて、当代の社会が抱えていた問題を解明するのが本稿の課題である。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.46-63, 1992-12

三代将軍徳川家光に将軍職をゆずりながら、なお大御所として幕府政治の実権をにぎっていた徳川秀忠が、寛永九年(一六三二)一月二十四日没した。この二日後の出来事として、『徳川実紀』は次の記事をかかげている。又此日、目付宮城甚右衛門和甫京坂に御使し、こたび御大喪により、関西の諸大名江戸にまかるべからず、各封地堅固に守り、前令違犯すべからずとの御旨をつたえしめ、女院の御方にも御使をつとめしめらる。前将軍であり、大御所としてなお実際に幕政の最高実力者であった人物の葬儀に際し、その直臣にもあたる関西の諸大名に対して、葬儀への参列無用と在国とが、幕府の命令として発せられたというのである。この場合の関西とは、関西地方という意味ではなく、西日本全体のことと解すべきであろうし、またこの命令が三代将軍家光の名において発せられたものであることも注目しておくべきことではないかと思う。西日本の諸大名は、なぜ江戸に駆けつけ秀忠の大喪に参列することが許されなかったのであろうか。もちろん、この時期西日本の大名のみが在国し領政につとめなければならないような国内・国外の特別な異変も見あたらない。秀忠の葬儀参列にかこつけて、西日本の諸大名が大挙して出府してくれば、江戸においてどんな大事件が企てられるかわかったものではない、という危惧と疑念が将軍家光を擁する江戸の幕閣をとらえたのではないか。西日本の諸大名を充分に統制できていないという認識と、大御所という実力者を失ったところからくる幕政への不安が、西日本諸大名への出府停止令となってあらわれたのではないか。元和九年(一六二三)七月二十七日に三代将軍に就任して以来、家光の将軍在位は秀忠死没の寛永九年正月まで、八力年余にわたる。この八年余におよぶ幕藩制支配が決して将軍家光による単独施政でなかったことを、この事件はものがたっている。将軍が、あるいは将軍を中心とする幕閣が、しっかりと統治できていたのは東日本だけであったといえば言いすぎであろうか。西日本支配をも含めた全国統治という点では、大御所秀忠の力量によりかかっていた八年余だったといえるのではないだろうか。ともかく、寛永年間前半の時期に、東日本と西日本の政治的差違が歴然としていまだ存在していたことと、将軍と大御所とによる協同幕政があったことは確認できよう。しかも、将軍と大御所との協力による幕府政治という形態は、慶長十年(一六〇五)四月十六日の二代秀忠の将軍就任から大御所家康が没する元和二年四月十五日までの期間にもみられた。そして、この慶長年間の後半に行われた将軍と大御所とによる幕府政治を、北島正元氏らは二元政治とよんでいる。ならば、寛永前期の将軍家光と大御所秀忠とによる幕府政治も、二元政治とよぶことができるのではないだろうか。もちろん、この場合にも将軍と大御所という二大権力者の存在形態に依拠した考え方ということになる。しかし、北島正元氏は、単に将軍と大御所との二大権力者の存在をもって二元政治とよんでいるのではない。むしろ、大御所家康と将軍秀忠は対立しているのではなく、一元的な方向にあったと、次のように記している。慶長八(一六〇三)年の江戸開幕は、徳川氏の全国政権としての地位を明確化したが、その政治組織にも当然それに応じた整備が必要であった。同十年に将軍職を秀忠にゆずった家康は同十二年に駿府に退隠したが、実際には「大御所」として幕政を裏面から動かし、将軍秀忠も父の意志に柔順であった。これはこれ以後の公文書にも家康の名で出されたものが多く秀忠の出した公文書はたんにそれを裏づけるにすぎないものが少くないことでもわかる。家康の強力な指導と支援のもとに、秀忠を盟主とする幕府政治が展開されたという認識を北島氏は示されている。ここには幕政が二元であったという論理は、成立しないかのように見える。それでは、何をもって二元政治論が主張されるのであろうか。北島氏や藤野氏の所説によると、問題は慶長十年に将軍職を退いた家康が、本多正純を側近として、「江戸の幕府を小規模にしたような政治機構を駿府につくった」ことにあったという。すなわち、江戸の幕閣と駿府の政府との対立・抗争の経緯を二元政権または二元政治とみているのである。大御所となった家康は、江戸の将軍補佐役として家康腹心の本多正信をこれにあて、正信の子正純を駿府において、本多父子を軸とする統一政治をめざしたが、江戸の幕閣では大久保忠隣・酒井忠世・酒井忠利・土井利勝らの譜代勢力が成長して本多正信はしだいに疎外され孤立するようになった。こうした譜代大名による江戸政権の形成に対して、駿府政権の構成は能力主義的で対照的であった。たとえば、本多正純と若干の譜大名以外に天海・崇伝・林羅山の僧侶や学者、大久保保長安・伊奈忠次らの代官頭、後藤庄三郎・茶屋四郎次郎・亀屋栄仁らの豪商、外国人の三浦按針らといった多彩な顔ぶれがその中枢にあったというものである。藤野保氏は、駿府政権を分類して四つのグループから構成されていたとした。その第一グループは新参譜代・近習出頭人、第ニグループは僧侶と学者、第三グループは豪商と代官頭、第四グループを外国人としている。そして、この駿府政権は、政治の実権をもつ大御所家康の直下ということから、発言力が強く、全国支配に深くかかわったと指摘している。これに対して江戸政権は徳川家臣団の系譜を優先する譜代勢力が結集して、関東地方を中心とする幕府政治を固めていたという。こうした二元的政権のかたちが、両政権に結集する勢力の対立となって激化したが、家康の強大かつ巧妙な統制力は、その矛盾を幕府の危機にまで表面化させることはなかった。しかし、慶長十七年の岡本大八事件ころからかなり顕在化し、大久保長安事件では政争の形をとり、元和二年の大御所家康と本多正信の死を契機として、駿府政権は解体され、二元政治も解消されたという。そして、この駿府政権の解体と江戸政権の強化というかたちでの慶長政治の終結は、譜代勢力を中心とする将軍政治が確立する元和政治への方向を決めたと、藤野保氏は整理している。すなわち、「幕府それ自身の組織の整備」と、「統一権力として諸大名を統治し、かつ幕藩体制を組織する」という二つの課題に応える方策としてとられた二元政治11慶長政治を否定したのが、元和政治であったとしている。慶長期の二元政治についての以上のような理解は、北島正元、藤野保両氏に共通しており、その限りでは幕政初期における二元政治論は元和以降再登場することはないと判断される。ところが、藤野保氏は元和政治ののち、寛永初期政治において「二元政治の再展開」があったことを分析されている。藤野氏の二元政治再展開論をみておこう。藤野氏は、「秀忠は将軍職を譲与したのちも、家康と同じく大御所(西丸居住)として、政治の実権を掌握したため、ここに幕政は再び将軍政治(家光)と「大御所政治」の二元政治の形をとって展開することとなった」として、大御所11西丸派と将軍11本丸派の構成について言及してい㍍胱具体的な大名についてここでは列記しないが・西丸老職が秀忠の側近グループを中心としたのに対し、本丸老職は新旧の譜代層から構成され、このなかから家光側近の新譜代層が台頭していくという整理をされている。経緯から先に追えば、寛永九年正月秀忠の死によって西丸老職は解散して二元政治も解消した。そしてこの二元政治の解消は「慶長政治における二元政治も含めて、初期幕政における特殊政治形態としての二元政治そのものの解消を意味した。このことは幕府の組織の整備に伴う将軍独裁権の確立を意味し、家光の寛永政治はこのような体制の確立の上に展開した」と、その意義について言及している。こうした二元政治論が、初期幕政における幕閣の構成とその派閥抗争の理解に一定の意義づけをできた点においては評価できるが、二元政治という概念そのものや、その二元政治の前提要件という面ではほとんど解明されておらず疑問を禁じえない。むしろ、初期幕政における二元政治論そのものを根本から問いなおす必要さえ覚える。以下、論点を整理しながら、新しい二元政治論を提起してみたい。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.20, pp.41-55, 2002

享和元年(一八〇一)年に生まれ、立身出世して幕末政界で人間味あふれる活躍をした川路聖護は、慶応四年(一八六八)の江戸城開城の日に自殺して果てた。江戸幕府にもっとも忠実な官僚であったといってよい。この川路聖護の事蹟については、四番目の妻さととはじめた夫婦交換日記以来の膨大な日記風近況報告の書簡があって、これによって個人的な喜怒哀楽や政治担当者としての悩みや苦しみも含め、生き生きとした歴史叙述が自らの筆で今日に伝えられている。そして、その多くは『川路聖護文書』全八冊のかたちで公刊されている。川路聖護の伝記としては、川田貞夫氏の『川路聖護』がすぐれている。川田氏は早くから川路聖護に注目され、実に詳細にその事蹟をわかりやすく解説されている。惜しむらくは、その著書が公刊されるよりも早く平成七年に川田氏が亡くなられたことである。奈良奉行川路聖護については川田氏の著書で詳しく論じられており、また『奈良市史』通史三でも若干記述されている。私もかつて「遠国奉行の着任と離任-奈良奉行川路聖護」および「奈良奉行川路聖摸の民政』の二論文で部分的に言及したことがある。本稿では、川路聖護の奈良における事蹟のうち、とくにいわゆる奈良公園の植樹事業について考察しておきたい。この植樹事業についても、『奈良市史』通史三および川田貞夫氏『川路聖護』でもとりあげられているのであるが、単なる事蹟の紹介だけでなく、植樹事業の分析を通して、名官僚川路聖護が奈良において成長したこと、奈良が川路聖護を育てたことに言及しようと思う。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.21-40, 1984-12

幕藩体制の成立段階に、二つの内乱があったことは、周知のことである。一つは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦であり、もう一つは慶長十九年(一六一四)および同二十年の大坂の陣である。この二つの内乱については、関ヶ原合戦で事実上の徳川政権が樹立されたが、反徳川勢力がなお残存したため、その盟主とされた大坂城の豊臣秀頼を抹殺したのが大坂の陣であるといった理解が、大方の了解を得ているように見える。すなわち、徳川政権は、関ヶ原合戦で成立し、大坂の陣で確立されたという考え方である。しかし、この「成立」と「確立」の内容については深く検討されたことはなく、大坂の陣で確立という場合、明らかな敵対勢力を軍事的に一掃したという意味がこめられているにすぎないようである。大坂の陣の軍事的結末があまりにも明白であるため、軍事的側面以外については、その経過や意義もほとんど研究されたり言及されたことがない。むしろ、研究者の眼は、軍事的に自明な結果を前提として、そのうえに展開される「武家諸法度」等の制定など元和以降へと向けられているといえよう。一方、慶長期が世相史的に特異な注目される時代だという研究もでてきている。守屋毅氏は、慶長期に出現し一世を風靡する「かぶき」の風潮に着目し、慶長期を「かぶき」の時代と呼びたいと提唱しているほどである。そして、守屋氏は東京国立博物館蔵の「洛中洛外図屏風」(舟木本)をその象徴としてあげているが、氏はこの屏風は、左隻に徳川氏のシンボルニ条城、右隻に豊臣氏のシンボル方広寺大仏殿を対峙させ、この両隻にまたがって対角線状に鴨川の流れを配し、町並みも画面に傾斜して描いており、名所や旧跡のかわりに画面の主人公として登場する群衆の動きも、異様な興奮をただよわせていると評し、この屏風自体を「かぶき」の所産とみている。かぶき者と「かぶき」の世相については、北島正元氏の「かぶき者1その行動と論理」と守屋毅氏『「かぶき」の時代』が注目すべき研究である。かぶき者の評価については、両氏とも単なる愚連隊暴力団とは見ていない。北島氏は、かぶき者こそ下剋上の論理を楯にとって変革主体としての民衆と連携し、幕藩権力の人間的諸権利剥奪に抵抗する役割をになったと評価し、守屋氏はかぶき者の行動論理の深層には戦国乱世への回帰願望があったが、現実には喧嘩三昧に命をかける乱世の仮構のなかで、反時代的であることによって逆説的にもっともよく時代の趨勢を体現した存在であったとみている。本稿のねらいの一つは、先学の研究に導かれながらも、自分なりに慶長期のかぶき者についての歴史的位置づけを試みることであるが、もうひとつは「かぶき」たる世相の背景として、大坂の陣を頂点として伏線的に立ち現われる近世的秩序形成の政治状況を、垣間見ることである。近世封建社会の成立期における第二の内乱として仕組まれた大坂の陣は、決して軍事的意味だけで重要なのではなく、むしろ社会史的・政治史的な側面でこそ実に大きな意味をになっていたのではないか。大坂の陣を中心とする慶長・元和期に焦点を合わせながら、民衆の動向を分析することによって、政治状況の方向を推定してみようと思う。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.21-49, 1993-12

織田信長から豊臣秀吉へとうけつがれた政権の流れを、織田政権と豊臣政権の頭字の一字ずつを合わせて、織豊政権とよぶことが一般に定着している。いわゆる天下統一の事業は、織田信長から豊臣秀吉へ、そして徳川家康へとひきつがれたという理解も一般的である。それでは織豊政権というよび方とともに、豊臣政権と徳川政権の頭字を合わせて豊徳政権というよび方が存在するのかといえば、後者の語はこれまで聞かない。おそらく、織田信長の仇を討ち葬儀をも主催した豊臣秀吉の場合は、血脈ではないけれども、正当な後継者として是認されたのに対し、秀吉と徳川家康との関係では、家康が秀吉の政権を纂奪したという評価から、一種の反倫理的なうけとめ方があったからであろう。しかし、豊臣時代を中心にして、天下統一というか近世的統一国家の形成の過程を検証してみると、織田政権から豊臣政権へひきつがれたものもあるが、豊臣政権から徳川政権へと継続されて実を結んでいったものが少なくはない。しかし、織田信長から徳川家康までの政治的な流れが等質であるとか、一貫性があるのかといえば、そうではない。中世から近世への政治的展開は、織田政権と豊臣政権の間や豊臣政権と徳川政権との間にあるのではなく、じつは豊臣政権のなかにその転回があるのではないかと考えられる。すなわち、織田政権の政策をほとんどそのまま継承した前期豊臣政権と、具体的なかたちで近世的統一国家の形成へ踏みだして、徳川政権への連動の道筋をつくった後期豊臣政権というように、豊臣政権というものを前期と後期に二分して理解することが必要なのではないだろうか。豊臣政権の前期から後期への転回を、京都という都市に焦点をすえながら検証してみようとするのが、本稿の課題である。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p1-16, 1982-12

近江国高島郡大溝を城地とする大溝藩は、元和五年(一六一九)八月分部光信が伊勢国上野から入封したのに始まる。分部氏は、『寛政重修諸家譜』によれば、伊勢国安濃郡分部村の出身で、代々伊勢国内を地盤に活躍したが、織田信包・豊臣秀次・豊臣秀吉・徳川家康らに仕えて頭角をあらわし、関ヶ原戦後には伊勢上野に住して二万石余を領する大名となった。分部氏は、大溝入封後も二万石余であり、以後江戸期を通じて石高・城地ともに変更がなかった。二万石の大名といえば、江戸期の大名としては極小規模の大名ということになるが、改易や転封・減封など、めまぐるしいほどの江戸幕府の大名統制の動きのなかで、二百五十余年もの間大溝を動くことなく、二万石余の石高を維持していったことは、注目に値する。分部家の永続は、数百人にのぼる家臣たちの身分とその家族の生活保障を意味した。大溝の城主としての分部家の二百五十余年には、その維持のための君臣一体となったそれなりの努力と悲願がこめられていたはずである。そしてまた、それは大溝藩領の領民の生き方にも、二百五十余年を同じ領主のもとで過さなければならなかった喜怒哀楽の特別な営みとなって深くかかわったに違いないのである。大溝藩の歴史については、すでに『高島郡誌』においても言及されているが、このたび『高島町史』の編纂の過程で新しい在地史料が数多く発見された。これらの新史料の分析から、あらためて近世小大名の家臣団構成と財政の問題を究明してみようというのが本稿のねらいである。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.1-28, 1988-12

私たちは近代社会で生活し、近代的価値観のなかにどっぷりとつかった日常を生きている。近代的価値観とは何だろう。進歩、発展、早さ、便利、合理的等々の概念もそれである。近代人なら誰でもが賛意を表する価値意識、それを近代的価値観とよんでよいだろう。もちろん、近代的価値観はもともと人間的な規模と尺度に準拠していたはずであるが、むしろ今日では非人間的な機械的価値の面が強くなってしまったように思える。そして、その人間味を失った近代的価値観を、私たちは無批判に受け入れてしまってはいないだろうか。歴史学の研究にあたって、形骸化された価値観をもってさまざまな分析や評価を行なったりしてはいないだろうか。近世都市の研究の分野でも、経済的な発展や合理的な都市運営のしくみなどに着目し、どれだけ近代都市へ近づいたかといった視点のみにとらわれてはいなかっただろうか。ひとつの便利さを手に入れるために何を失ったのか。一見非合理的に見える昔の人々の生き方のなかに、どのような智恵や工夫や願いがこめられていたのか。形骸化された近代的な物指しで歴史研究をすすめるのではなく、歴史のなかに本来の人間を発見する作業も現在の歴史学には必要なことではあるまいか。現代の大阪に関する評価は、新聞の投書や論評などをみていても決して芳しくはない。開発が産業中心に行なわれ、人間的文化的な視点が弱いということになるのかもしれないが、江戸時代の大坂についてみるならば、相当に魅力的な都市である。大坂には近世の都市としての魅力がみなぎっており、都市の個性としても充分なものをもっているかに見える。近世都市大坂について、近代大阪にどれだけ近づいたかという視点ではなく、都市大坂のなかに人間性がどのように定着しているか、大坂がいかに人間を大切にする都市であったかを追跡してみたい。しかし、これは一つの試論にすぎない。とりあえず、江戸時代の人は大坂をどのように見ていたかということから、はじめに外国人の大坂観をみる。つぎに日本国内では大坂はどのように紹介されていたか、また旅人は大坂のどこに魅力を発見していたかを考察する。さらに大坂が近郷近在との深い交流のなかで都市問題に折り合いをつけながら、「大」大坂を成立させてくる過程をみていくこととする。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.26号, pp.97-121, 2009-01
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.27, pp.32-55, 2009