- 著者
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田中 良
- 出版者
- 奈良大学
- 雑誌
- 奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
- 巻号頁・発行日
- no.20, pp.p29-39, 1992-03
天地開闢以来、天の運行は人々の生活に甚大な影響を及ぼし、人々はときにはその恵みに感謝し、ときには人知及ぱぬその力に畏怖を覚えてきた。ギリシア・ローマ時代におけるアポロン(太陽神)、ポセイドン(海神)、アルテミス(月の女神)、ボレアス(北風)、ゼピュロス(西風)、ノトス(南風)、エウロス(東風)などの、気象にまつわる神々の創造は、その表れであろう。以来、気象の変化と神の力の密月は、少なくともフランス文学史上、18世紀まで続く。確かに1597年にガリレオの温度計発明とともに気象学は観測時代にはいり、1643年にはトリチェリが気圧計を発明し、1664年にはパリで定期的な気象観測が始まっているが、文学的、とりわけ小説の世界でみる限り、気象の変化は神の力と一体化していた。つまり人々に被害をもたらす気象は、神の怒りであり、逆にいえば神の存在証明であった。それを象徴しているのは、18世紀のベルナルダン=ド=サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』において、ヴィルジニーの乗った船を転覆させる暴風雨であり、サド侯爵の『悪徳の栄え』において、心優しいジュスチーヌを最後に直撃する雷であろう。しかし19世紀になって天気図が作成され、暴風雨警報が発令されるに及んで、気象は神の力から解放され、今度は小説におけるひとつの機能として利用され始める。とはいえ、この世紀前半のバルザック、スタンダールといった、外的状況に左右されず、自らの欲望、意志を貫こうとする人物を描いた作家よりむしろ、周辺の変化に翻弄される人物を主に描いた、後半のフローベール、モーパッサンの諸作品にその傾向は顕著である。例えば『感情教育』の有名な冒頭は、早朝、蒸気と霧にまみれた出帆間際の船上であり、その霧はいかにも宿命的な出会いにふさわしく演出され、『ボヴァリー夫人』では、良い気候を求めての転地がエンマの運命を決定する。モーパッサンの『女の一生』も、あたかも主人公ジャンヌの波乱に満ちた半生を予告するかのような豪雨の描写から始まり、最後は今後の彼女の幸せを象徴するかのような夕日に映える花畑の中を、彼女が赤ん坊を抱きながら馬者で走り去る場面で終わっている。20世紀にはいっても、ジッドの『田園交響曲』は「これで三日も降りやまぬ雪が、道をふさいでいる」という一文で始まり、ロマン=ロランの『ジャン・クリストフ』も、窓ガラスを打つ雨の場面から始まる。サルトルの『嘔吐』でさえ、最後の一文は、「明日ブールヴィルには雨が降るだろう」である。これらの作品は、気象状況を小説内の一つの機能として利用している限りにおいて、極めて古典的と言わねばならない。ではプルーストにとっての気象とは何か、また『失われた時を求めて』の中において気象はいかなる働きをしているか、これが本論のテーマである。