- 著者
-
後藤 淳
- 出版者
- 東亜大学
- 雑誌
- 東亜大学紀要 (ISSN:13488414)
- 巻号頁・発行日
- no.18, pp.1-19, 2013-09
本稿では,ヘラクレイトスにおける認識論について論ずる。議論の前提として,彼の認識論は自然学的宇宙論から切り離して考えることができず,あくまでも,後者の枠内での議論であることを了解しておかねばならない。
ヘラクレイトスは「魂(ψυχή)」を人間の認識主体とした。「魂」はアルケーである「火」と同様の質料的性質を持つことから,その変化に相応して人間の認識も恒常的に変化を蒙る。このような制約下にありながら,しかし「魂」には「自己成長するロゴスを持つ」(断片115)とされることから,能力の伸長可能性が人間に保証されている。
「認識すること」自体については,σοκέω → γιγνώσκω → φρονέω というように,認識対象に関してその「何であるか」をどのように自覚しているかに応じて,その内容が深化する。このことは,対象の皮相を「受取り思う」だけの状態から,「万物が一である」ことを覚知するという点までの認識活動における変化相を意味するものである。
彼による「万物が一である」という人間「知」の内容については,万物の「多」と「知」の「一」を接合させるものであり,「一と多の問題」という認識論が持つ課題に先鞭をつけるものである。彼によれば,「多」として顕現する事象があくまでも「火」の変化諸位相に過ぎない以上,「多」と「一」は同じものである。人間の質料的「魂」がその性質において最も「火」に近似した状態に保つとき,すなわち,その能力としてφρονέω を発揮するとき,人間は対立的事象の中に「万物が一である」という「知」を見抜くことになるのである。彼の断片101を彼自身の「知」への到達宣言であると理解することにより,断片中において複数形で批判される人間たちの「知」との相違が明らかとなる。