著者
佐藤 陽子
出版者
東亜大学
雑誌
新学術領域研究(研究領域提案型)
巻号頁・発行日
2016-04-01

多くの哺乳類において、精細胞はその発生課程で体細胞より2℃から7℃温度の低い条件下ではじめて正常な分化及び増殖をすることが知られている。哺乳類において腹腔内に精巣が留まる停留精巣では、多くの動物で陰嚢と比較し精巣温度の上昇によるストレスのため、精子形成異常を示すと考えられているが、その詳細な仕組みは不明である。一方、ゾウや単孔類の精巣は停留精巣であるにも関わらず、正常な精子形成を示す特異的な動物である。今迄にゾウの精細胞及び体細胞への熱ストレスの影響を検討するため、ゾウの精巣組織断片の培養系及びゾウの初代繊維芽細胞の培養下で人為的な熱ストレス存在下での熱ストレス関連蛋白質の検討を行い、ゾウ精巣では、他の動物とは異なる仕組みにより精細胞が保護されている可能性、増殖と分化誘導の可能性を示して来た。今回、今迄の解析で得られた人為的な熱ストレス下で他の動物と異なる発現を行う熱ストレス関連蛋白質に注目し、通常のゾウ精巣での発現を解析した。解析の結果、人為的な熱ストレス下ではなくとも、人為的熱ストレスで誘導可能な熱ストレス蛋白質をゾウ精巣では体内で通常に発現しており、これらの熱ストレス蛋白質の発現動態は、ゾウ精巣では他の動物と比較して局在や発現量が異なる事が明らかとなった。特に、HSP90Aはゾウ精巣組織培養下での人為的な熱ストレスでは一番はじめに誘導される物質であり、発現が熱ストレスと対応しているとすれば、体内の精巣間質では、精細管内と比較して温度が高い可能性も考えられる。またゾウ精巣では、体内で通常にミトコンドリアシャペロンであるHSP60の発現が強く見られATP5Aの発現が高かったことから、ミトコンドリアを構成する蛋白質を熱ストレスから守り、ミトコンドリアの呼吸活性を上昇させ、ゾウ停留精巣内での精子形成状態に寄与している可能性が考えられた。
著者
鵜澤 和宏 下川 昭夫
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.75-84, 2003-03

近年の人類学的調査から、古人類のカニバリズム(cannibalism、食人)の証拠が多く得られるようになり、その動機が飢餓によるものか、何らかの心理的要求が関係しているのか関心が持たれている.この問題の解決には古人類の心理的機制を理解する必要がある。そこで、先史人類学と精神分析学の共同作業に基づくヒトの心の進化を探る新たな研究手法を試みた。その結果、現生人類のカニバリズム行為者の心理には、自己の不安を防衛するために他者と自己との同一化をはかろうとする意図があること、この心理的意味が古人類においても当てはまるかどうか検討するためには、心理的防衛機制の基本的能力である見立ての能力を彼等が備えていたかどうかが焦点となることを指摘した。現在までに得られている考古学的証拠からは、十分な見立ての能力の傍証となる遺物、遺構は3万年前までのものであり、古代型サピエンスと同様、すでに約13万年前に発生していた現生人類にも、その初期には十分な見立て能力を示す証拠が伴わないことが問題となる。今後、この問題を明らかにしていくには、3万年前以前の現生人類が潜在的には持っていたであろう見立て能力を、物的証拠を残す形で開花させ得なかった理由を説明するために、生活環境全般にっいての詳しい調査が必要である。 : Increasing evidence of cannibalism in fossil hominids has raised the interest of its motivation : why did man eat man. In order to examine the issue, we attempted an interdisciplinary study between paleo-anthropology and psychoanalysis. As a result we could suggest the following : (1) in the psychology of modern cannibalism, there is an intension to assimilate with others by eating the body for their own psychological protection, (2) to examine whether the same mentality could also be applied to fossil hominids, it is necessary to investigate if they had an ability of making meta-phors which is the base of psychological self-defense system. Although the first modern Homo sapience that supposed to have the same intelligence as we do appeared in history some 130, 000 years ago, archaeological evidence of metaphors, such as ornaments, figurines, wall paintings and engravings, date only back to 30, 000 years ago. In order to further examine the problem of time discrepancy between emergence of Homo sapience and development of advanced cognitive capabilities, it is indispensable to accumulate more information about the subsistence and the environmental resources of that time period in detail.
著者
山本 達夫
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.97-120, 2003-03

経済活動からのユダヤ人の排除(「経済の脱ユダヤ化」)は、ナチ党による政権掌握以来、比較的無秩序に行なわれていたが、国家指導部がこれに積極的に関与しはじめた1937年後半以降、一定の政策として遂行されるようになった。政策としての「経済の脱ユダヤ化」は、ユダヤ経営の閉鎖・清算、またはドイツ人への所有権の譲渡(「アーリア化」)という形で行なわれた。経済・社会の広範囲に影響がおよぶこの政策の遂行には、第三帝国の多くの組織・機関が関わり、ユダヤ経営とユダヤ人の運命を決定していった。これらの組織・機関が、個々の事例の処理にあたって判断の拠り所にしたのが、国家指導部が出した諸法令であった。だが、これらの法令の全てが公にされたわけではない。『ライヒ官報』や『ライヒ内務省報』で公布されたものもあるが、しかし一般的な法令の「施行細則」としてこの政策の実際の処理過程を規定していたのは、「回覧通達」をはじめとする非公開の指令や内部文書であった。したがって「経済の脱ユダヤ化」政策の具体的な遂行過程を把握するためには、これらの文書の分析が不可欠である。ここに訳出するのは、そうした文書を含む「経済の脱ユダヤ化」関連法令のうち、とくに重要なものである。大きく4つの系統に分けられる「経済の脱ユダヤ化」関連法令のうち、前号では「財産申告令」(1938年4月26日)および「第三帝国政令」(1938年6月14日)に関連する諸法令を紹介した。今回は「排除令」(1938年11月12日)および「財産活用令」(1938年12月3日)関連の法令を中心に紹介する。
著者
山本 達夫
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 : 東亜大学総合人間・文化学部紀要 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.53-70, 2002-03

「経済の脱ユダヤ化」とは、第三帝国における経済活動からのユダヤ人の排除をいう。経済活動からのユダヤ人の排除は1933年のナチ党による政権掌握以来、比較的無秩序に行なわれていたが、国家指導部がこれに積極的に関与しはじめた1937年後半以降、一定の政策として遂行されるようになった。政策としての「経済の脱ユダヤ化」は、ユダヤ経営の閉鎖・清算、またはドイツ人への所有権の譲渡(「アーリア化」)という形で行なわれた。経済・社会の広範囲に渡って影響が及ぶこの政策の遂行には、第三帝国の多くの組織・機関が関わり、ユダヤ経営とユダヤ人の運命を決定していったのである。これらの組織・機関が、個々の事例の処理にあたって判断の拠り所にしたのが、国家指導部が出した諸法令であった。だが、これらの法令の全てが公にされたわけではない。『ライヒ官報』や『ライヒ内務省報』で公布されたものもあるが、しかし一般的な法令の「施行細則」としてこの政策の実際の処理過程を規定していたのは、「回覧通達」をはじめとする非公開の指令や内部文書であった。したがって「経済の脱ユダヤ化」政策の具体的な遂行過程を把握するためには、これらの文書の分析が不可欠である。ここに史料として訳出するのは、そうした文書を含む「経済の脱ユダヤ化」関連法令のうち、とくに重要なものである。その多くは文書館史料であり、わが国では初めて紹介されるものである。
著者
具志堅 伸隆
出版者
東亜大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2008

本研究の目的は、一般の人々が抱く「素朴なスピリチュアリティ的信念」の存在について、実証的な検討を行い、その適応的な機能を検証することであった。一般人向けの書物の内容を検討することによって、素朴なスピリチュアリティ的信念を構成する次の7種類の概念を特定した。1.「肉体を超越した魂の存在・魂の永続性」、2.「因果応報の原理」、3.「心的イメージの現実化」、4.「神による守護や導き」、5.「天命・宿命」、6.「輪廻」、7.「神の存在」、である。さらに、それらを測定する質問項目を作成し、量的な調査を実施した。その結果、「魂の永続性」、「輪廻」、「神の守護」といった因子の他、「人生が"超自然的な力"によって秩序づけられている」こと、「その力は公正であり、正しいことを行う人間に幸せをもたらす」ことを意味する内容の項目群からなる「摂理」因子が抽出された。重回帰分析の結果、これら4因子のうち、「摂理」因子が精神的健康の指標となる主観的幸福感や自尊感と正の関係にあることが明らかとなった。
著者
金田 晋 樋口 聡 原 正幸 奥津 聖 菅村 亨 青木 孝夫 外山 紀久子 松本 正男
出版者
東亜大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2000

21世紀の初頭にあたって、アジア美学は、世界美学の多元化のもとで、辺境の地位から表舞台に登場した。そのような比較美学の視点から、アジアの藝術思想を事象に即して再検討し、新しい問題地平を開発しようとした。1)「藝術」という西欧近代美学で形成された枠を突破する必要がある。それは高級な教養としての藝術を娯楽に向かって開放する(シュスターマン教授を共同研究者として示唆を得た)。それはまた美的という価値概念をエポケーして、生の感性をむき出しにすることとも通じる。アジアの身体思想から新たな身体・感性論を開拓せんとした(樋口聡等)。2)訓練、練磨は、西欧美学においては新しい技術を身につけるための準備を意味していた。だが東洋で、それは座禅が端的に示しているように、何よりも身体から日常生活の惰性や先入観を洗い落とし、無の境地を開くための身体的行為であった(青木孝夫等)。3)感性的図式としての時間と空間は、西欧近代美学においてはっきり区別され、とくに言語は時間的継起において捉えられてきた。それに対して、東洋の漢字に代表される言語観において、書字は言語的行為にどこまでも浸透し、空間的並列として直観されるところに特色をもつ。カリグラフィーが言語の新しい可能性を開拓する(奥津聖等)。4)諸藝術ジャンルについての、事象に即した研究。中国の音楽(原正幸等)、日本近代の人形劇(澤井万七美)、絵画(菅村亨等)、色彩問題(金田)。スタッフ外から西アジアの工芸の発表(福田浩子)。5)古代ギリシャの陶器画に見られるアジアのイメージについての実証的研究(長田年弘)。現代の演劇パフォーマンスにおけるアジア・イメージ(外山紀久子)。アジアは内なる者の自覚としてだけでなく、他者によって作り上げられたイメージとしても捉えられるべきである。そこにはナショナリズムの問題も加わるであろうし、また共同研究に参加された藤川哲による、現代芸術におけるアジア・ブームの分析。
著者
後藤 淳
出版者
東亜大学
雑誌
総合人間科学 (ISSN:13461850)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.49-61, 2003-03

人間は、あたかも一人の個人が成長の段階で行なうように、自らの知を量的にも質的にも変化させてきた。その成果は特に技術知に関する領域において顕著であるが、決してそれに留まるものではなく、人間自身を眺めるという内的省察においてもその痕跡を窺うことができる。本稿の目的は、古代ギリシア思想史の中に、人間知への眼差しが変化した具体的言説を求めることであり、またその時期を確定することにある。従来の思想史では、現代的批判に耐えうるだけの自己をギリシア人が獲得したのは、ソクラテスにおいてであるとされてきた。なるほど彼の思想には、問答法により既得の知を検証するという明確な方法論と、アポリアに陥ることを了解したうえで、それでも人間全体に知を探求する途が可能性として了承されている。しかし、彼に先行するいわゆる前ソクラテス期の思想家たちの断片を検証すると、なるほど言表の形式は異なるにしても、ソクラテスと同様の自己発見の過程を見いだすことができると思われる。人間知の発展形式が、その最初に知の対象を自分の外側に求めることは自然なことである。この意味では、知はまず量的な変化を蒙ることになる。しかし、量的知の集積に留まることに満足せず、獲得した個別知の関連を問うことを通してそれらの背後にある共通の根拠へと遡行する時期が訪れる。本稿に取り挙げたクセノファネスとヘラクレイトスは、近い時期を生きながらも対象的な思想を展開した。われわれは、前者の中に量的知の保証にもかかわらず相対論的地点に留まる危惧を、それに対して、後者には知の質的深化を保証する思想を見ることができる。彼らの複数の断片を手掛かりにすることによって、本稿の目的である知の深化に関する過程を検証するとともに、ソクラテス的自己の発見を、すなわち思弁的自己への覚醒を、ヘラクレイトスの思想の中に見ることができることを論証する : It's said human beings has improved the content of his wisdom quantitatively and qualitatively, just like a man does in the process of his growth. The traces are especially evident in the field of science and technology. But those kinds of traces are to be confirmed even in the self-reflection toward our inner world. The purposes of this article are 1) to seek for the concrete sayings that testify the change of human wisdom, and 2) to settle its time in the history of Greek philosophy. The history of Greek philosophy tells us the Greeks didn't attain the concept of self which could hold back the mordern critical view until Socrates. In the thought of Socrates it's true that there is the clear methodology certificating the gotten wisdom by means of dialectic, and that there is possibility which searches the wisdom for all the human beings, but the same kind of speculation can be found in the thoughts of pre-Socratics. We are probably able to come across the process of struggle which aims at self-research in some extant fragments of theirs apart from the differences of vocabu-laries and contexts. It's natural our recognition should extend itself toward the outer world as the first step. In this point, our knowledge or wisdom comes to be suffered from the quantitative change. But as the second, the time surely comes when we go up the rivers of some knowledge toward their common origin. Xenophanes and Heraclitus individually developed the characteristic thoughts. We can see in the former the crisis of the relative point of view, in the latter the possibility of the deepening of the human wisdom. By checking their extant fragments, we can put forward the time when human beings become conscious of the concept of self from Socrates to Heraclitus.
著者
後藤 淳
出版者
東亜大学
雑誌
東亜大学紀要 (ISSN:13488414)
巻号頁・発行日
no.18, pp.1-19, 2013-09

本稿では,ヘラクレイトスにおける認識論について論ずる。議論の前提として,彼の認識論は自然学的宇宙論から切り離して考えることができず,あくまでも,後者の枠内での議論であることを了解しておかねばならない。 ヘラクレイトスは「魂(ψυχή)」を人間の認識主体とした。「魂」はアルケーである「火」と同様の質料的性質を持つことから,その変化に相応して人間の認識も恒常的に変化を蒙る。このような制約下にありながら,しかし「魂」には「自己成長するロゴスを持つ」(断片115)とされることから,能力の伸長可能性が人間に保証されている。 「認識すること」自体については,σοκέω → γιγνώσκω → φρονέω というように,認識対象に関してその「何であるか」をどのように自覚しているかに応じて,その内容が深化する。このことは,対象の皮相を「受取り思う」だけの状態から,「万物が一である」ことを覚知するという点までの認識活動における変化相を意味するものである。 彼による「万物が一である」という人間「知」の内容については,万物の「多」と「知」の「一」を接合させるものであり,「一と多の問題」という認識論が持つ課題に先鞭をつけるものである。彼によれば,「多」として顕現する事象があくまでも「火」の変化諸位相に過ぎない以上,「多」と「一」は同じものである。人間の質料的「魂」がその性質において最も「火」に近似した状態に保つとき,すなわち,その能力としてφρονέω を発揮するとき,人間は対立的事象の中に「万物が一である」という「知」を見抜くことになるのである。彼の断片101を彼自身の「知」への到達宣言であると理解することにより,断片中において複数形で批判される人間たちの「知」との相違が明らかとなる。
著者
後藤 淳
出版者
東亜大学
雑誌
東亜大学紀要 (ISSN:13488414)
巻号頁・発行日
no.11, pp.23-34, 2010-01

本論文は,前ソクラテス期の思想家たちが「質料」と「生命」あるいは「生命体」との関係を如何に考えたかについて,現存する諸断片と学説誌家たちの証言を資料としながら検証することを目的とする。彼らの多くは「生命」に関する言説を残してはいるものの,彼らがコスモスのアルケーとした「質料」とそれとの関係を十分に論じているのであろうか。筆者はこの検証を,1.モノ自身が何らかの生命的変質を生起するのであるか,それとも2.モノの変化により説かれる世界図式の中に生命に関する何らか別図式が重複転化されているのであるか,という二つの仮説を検討することにより行った。1.については,アナクシマンドロスの断片に関する証言や,パルメニデスが語る逆説的言説の中に生命の発生に関するものが残されてはいるものの,しかし,それらはすべて何故あるいはどのように質料が生命性を持つのかに関する論拠を欠くものであることを見た。さらに,2.についても,生命の座とされる「魂」を中心とする図式は,例えばヘラクレイトスにおいては,アルケーとされる「火」との質料的相似性を謳われてはいるものの,それにもかかわらず,それが持つとされる「思惟」の質料的側面に関する論拠が提示されていないために,曖昧であると判ぜざるを得ない。資料に基づく考察の結果,前ソクラテス期の思想の中では,コスモスのアルケーとされる「質料」と「生命」との関係は,明確な根拠を欠いたまま提示されている,あるいは,類似した同心的別図式を質料的世界の中に曖昧に重ね合わせたものであることが明らかとなった。