著者
川島 重成
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.39, pp.47-72, 2008-03-31

報復の正義は現代においても未解決の問題である。古代ギリシア人はこの問題にどのように対処したか ―― これを問い直すことで、ギリシア文学における「人間とは何か」を考える。 ギリシア語の〈ディケー〉=正義は、端的に「報復」を意味する。しかも人間社会のみならず、自然界をも貫く原理であり、人間の振舞いを見張る力として女神〈ディケー〉ともなる。 『イリアス』は報ディケー復を内包する名ティーメー誉をめぐる叙事詩である。アキレウスはアガメムノンに対する怒りを募らせ、「ゼウスの名誉」を希求するに至る(第9歌)。この「ゼウスの名誉」は英雄社会の習いとしての名誉=応報観に基づくものでありつつ、同時にそれ以上の何かを指し示している。それが『イリアス』第24歌のトロイア王プリアモスとアキレウスの出会いに結実する。憂いなき神々との対比から生じた、悲惨の中にこそ輝く死すべき人間としての品格を二人の英雄が敵・味方の区別を越えて互いに感嘆しあう―― ここにほとんど奇跡的に「人間に固有のもの」が形をとったのである。 ギリシア悲劇『オレステイア』の第一部『アガメムノン』におけるクリュタイメストラの夫アガメムノン殺害は、『イリアス』では暗黙の前提として受容されていたトロイア戦争の正ディケー義を問う行為であった。復讐が復讐を呼ぶこの悲劇は、ゼウスの正義とアルテミスの正義、男女の在りよう、国家の法と家の血の絆の真向からの対決を描く。〈ディケー〉が孕む深刻な問題 ―― 一方の正義は他方から見れば不正義でありうる、という問題 ――は、人間世界では遂に解決を見ず、第三部『エウメニデス』で、アテナイの裁判制度の縁起にまつわるアテナ女神の英断 (オレステスの無罪判決) を待つしかなかった。これは復讐の女神 (エリニュエス) の恵みの女神 (エウメニデス) への変容 (本質的にはゼウスの変容) を伴なう宇宙大の出来事であった。 このアイスキュロスの壮大な実験は、しかしギリシア文学史ではついに一エピソードに終わった。エウリピデスの『ヒッポリュトス』は、愛の女神アプロディテが純潔の女神アルテミスのみを崇拝する青年ヒッポリュトスに神罰を下す悲劇である。アルテミスはヒッポリュトスを救うことも、彼の悲惨に涙することもない。むしろアプロディテの愛するアドニス殺害を暗示して去っていく。両女神はいわば夏と冬のように自然の秩序=報復の〈ディケー〉の反復を担っている。その神々の世界の円環が閉じた外側で、瀕死のヒッポリュトスと父テセウス ―― アプロディテの代理人とされて息子に呪いをかけた ―― は、過誤の告白と赦しの言葉をかけあう。エウリピデスはギリシアの伝統的な神々の世界の枠組が崩壊した後の時代、やがてキリスト教の福音が種播かれるに至る土壌を、はるかに指さしていた。

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