著者
鈴木 栄樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.104, pp.1-36, 2013

幕末安政期に,日本海側の敦賀と琵琶湖北部の塩津など3カ村との間に通船路の開鑿と道路の整備とからなる事業 (以下,湖北通線路開鑿事業) が計画,実施された。極秘裡に進められたこの湖北通船路開鑿事業についての従来の研究は,主として「井伊家史料」中の「堀割一件」史料にもとづいて,次のような通説を作りあげてきた。それは,(1) この事業が,表面上「京都御備」を理由にしてはいるものの,実際は,小浜藩主で元京都所司代の酒井忠義が敦賀 (敦賀藩は小浜藩の支藩) の繁栄を意図したものであるとみなし,様々な点で自藩に不利になるとしてあくまでその阻止を企てながらも果たしえなかった彦根藩・井伊直弼側との対立構図を描き,(2) これを安政の大獄の前史として位置づけるというものである。しかしながら,この通説 (1) については,小浜藩側の関連史料をほとんど欠き,その実態があいまいであり,通説 (2) についても,彦根藩・井伊直弼側と対立した酒井忠義が,通船路完成の翌安政5年,大老に就任した井伊直弼のもとで京都所司代に再任され,安政の大獄の指揮をとったことと整合性をなさない。本稿では,「井伊家史料」を読みなおすとともに,新たな史料に基づいて次のことを明らかにした。すなわち,従来の研究が彦根藩・井伊直弼側の誤解・邪推に囚われたものであること,通船路開鑿事業が,内陸部に位置する京都の米穀運送の便を改善することで,米価高に苦しむことの多い京都の賑恤と繁栄を図るとともに,その公式の理由どおり,当時の対外的な危機のもとでの「京都御備 (米)」を目的とした国防的な意味をもつものであり,朝廷側の意向を受けたものであるとした。また,それを計画・実施した真の主体が,嘉永5年に西町奉行に就任した浅野長祚とすでに天保期に通船路事業を構想した元京都町奉行与力平塚飄斎であり,中央では老中阿部正弘と勘定奉行川路聖謨らが,当時の朝幕関係が重要視されるなかで,彦根藩側からの妨害を警戒しつつその事業を推進したことも明らかにした。さらに,彦根藩・井伊直弼側の誤解・邪推の背景として,通船路事業が彦根藩の財政的窮迫からする危機感を刺激したこと,嘉永7年に命じられた京都守護についての過剰な自負心,それにともなう在京陣屋地問題,所司代や町奉行ほか他の諸藩も含めた京都警衛問題などがあり,そうしたなかで小浜藩・酒井忠義側への疑心暗鬼が強められたが,徐々に真相を理解するに至ったとした。

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明治8年2月13日、平塚飄斎が死去。幕末期の京都町奉行所与力で、山稜研究家として文久の山稜修復事業に従事した。鈴木栄樹「「京都御備」としての安政期の湖北通船路開鑿事業」(『人文学報』103)は、敦賀と琵琶湖北部を結ぶ湖北通船路開鑿事業のキーパーソンとして分析。 https://t.co/UQnrzyMNcy

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