著者
水野 直樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.101, pp.81-101, 2011

本論文は, 2009年に発表した拙稿「植民地期朝鮮における伊藤博文の記憶」(伊藤之雄・李盛煥編『伊藤博文と韓国統治』ミネルヴァ書房)の続編である。1932年日本支配下の京城に, 伊藤博文を祀る仏教寺院博文寺が建てられたが, そこで起こった最大の出来事は, 安重根の息子と伊藤の息子との「和解劇」であった。伊藤の死から30年後の1939年10月, 上海在住の安俊生と東京在住の伊藤文吉が京城で会見をし, ともに博文寺を訪れて合同の法要を行なった。それを報じた新聞記事では, 父の罪を詫びる安俊生とそれを受け入れて「内鮮一体」に努めることを慫慂する伊藤文吉の姿が強調された。この和解劇には, 朝鮮総督府外事部が深く関与し, 長年にわたって朝鮮独立運動を取り締まってきた警察官相場清, 安重根裁判の朝鮮語通訳を務めた園木末喜が安俊生の言動を左右する役割を果たした。その後, 安重根の娘夫妻が博文寺を参拝するという後日談もあった。「和解劇」とその後日談は, 総督府が植民地統治の成果を宣伝するために演出したイベントであったのである。This is a sequel to my former article, "The memory of Hirobumi Ito in colonial Korea" (in: Yukio Ito and Yi Sung-huan (eds.), Hirobumi Ito and the Japanese rule of Korea, Minerva shobo, 2009). In 1932, a Buddhist temple Hakubunji was constructed in Keijo to commemorate Hirobumi Ito. The greatest event held there was the "reconciliation" of a son of An Jung-gun and one of Ito. In October 1939, 30 years after the assassination of Ito, An Jun-saeng, a son of An Jung-gun, from Shanghai and Bunkichi Ito from Tokyo met in Keijo and visited Hakubunji together to hold a joint Buddhist memorial service. An Jun-saeng apologized the sin of his father, while Bunkichi Ito accepted his apology and suggested to promote the assimilation process of Japan and Korea. Newspapers emphasized this reconciliation. The foreign affairs department of the Government-General of Korea deeply engaged in this celemony. The act of An Jun-saeng was strictly controlled by Kiyoshi Aiba, a policeman for years engaged in suppression of Korean independence movements, and by Sueyoshi Sonoki, a translator in the An Jung-gun case. After this celemony, a daughter of An Jung-gun and her husband also visited Hakubunji. The reconciliation celemony and its sequel were events produced by the Government-General to show the positive result of the Japanese colonial rule of Korea.
著者
河西 瑛里子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.269-296, 2009

これまでの宗教研究では,男性中心的な視点から研究がなされてきたことを反省し,男性中心の宗教における女性信者に注目することの必要性は叫ばれてきたが,女性中心の宗教にかかわる男性信者の研究はほとんどおこなわれてこなかった。その主な理由としては,女性中心の宗教的実践の数が少なかったことが挙げられる。主流の宗教が提供してこなかった事柄を女性に提供してきたため,女性をひきつけてきた新しい宗教的実践であっても,指導者が男性だったり,女性指導者を操る男性がいたりして,必ずしも女性主導型ではなかったのである。1970年代,フェミニストのネオペイガニズムへの接近から生まれた現代の女神運動は,女性が主体となって実践している数少ない宗教的実践である。女神運動の実践者の大半は女性であるが,男性実践者も少数ながら存在している。女神運動における男性の位置づけとしては,1)排除される,2)劣位に置かれる,3)歓迎される,の三つが考えられるが,ニューエイジの聖地として知られる,イギリスのグラストンベリーで1990年代に始まった女神運動は3)にあたる。この女神運動では,男神は排除するが,女神を崇拝する男性は歓迎するという姿勢をとっているため,他の女神運動のグループと比べると,男性の割合が比較的多い。本稿では,グラストンベリーにおける女神運動の創始者のライフストーリーとその主張,およびこの女神運動にかかわりをもった5人の男性実践者のライフストーリーを分析した。その結果,男性がこの女神運動に関心をもった背景には,ネオペイガニズム,イギリスの固有の神的存在,女性の力や性的側面の肯定があったことがわかった。本稿は,欧米の新しい宗教的実践におけるジェンダー研究の一つである。と同時に現代の欧米で盛んになりつつあるもの,日本ではその存在がほとんど知られていない女神運動の詳細についても明らかにすることを目指している。In the area of religious studies, scholars have focused on female believers of male-oriented religions, but they have rarely studied male believers of female-oriented religions. The main reason is that there are few female-oriented religions. While the teaching of new religions is women-friendly, the leadership is often male dominated even though the followers are female. The contemporary Goddess movement first appeared in the 1970 s when feminists adopted the Goddess or witch from the Neopaganism, as a symbol of strong women. The Goddess movement is one of the rare new religions whose leadership and organisers are women in general, while there are some male believers. The Goddess movement in Glastonbury, England started in the 1990's. In this particular Goddess movement, God is rejected, yet male followers are particularly welcome, So there are more male believers in this Goddess movement than in any other. In this paper, I examined the life story and the teaching of the female founder and the life stories of five men who have been involved in this Goddess movement at some point. I discovered that the reasons why those men were interested in this Goddess movement included Neopaganism, English divines. and their positive attitude toward women's power and sexuality.
著者
倉島 哲
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.81-116, 2009

身体技法の習得は,身体が社会的位置の刻印を受けることで,社会構造の再生産の媒体として形成されることであると一般的に考えられている。このような理解は,身体技法の概念を最初に提出したマルセル・モースの議論にも,身体をめぐる現代的状況を考えるうえで欠かせない二人の思想家,ピエール・ブルデューとミシェル・フーコーの議論にも認めることができる。しかしながら,身体は,社会的位置の刻印を一方的に受けるだけの,可塑的な素材ではないように思われる。というのも,どのような身体技法であれ,それを身に付けようとするときに,身体が自分の思うままにならない場合があることを,われわれは経験的に知っているからである。このような,意思に対する身体の抵抗(以下,「身体の抵抗」と略記)を認めたならば,身体技法の習得を,身体に対する社会的位置の一方的な刻印として捉えることはできないのではないだろうか。本稿では,身体の抵抗を捉えることで,身体技法の習得と社会的再生産の一見して必然的な関係を解体することを目指す。その方法として,最初に,身体技法の習得と社会的再生産をめぐる理論のうち主要なものを検討し,身体の抵抗を認めることで両者の結び付きを解けることを示したい。次に,イギリスはマンチェスターにおける太極拳教室であるC太極拳センターを考察することで,身体技法の習得過程における身体の抵抗のありようを具体的に描き出すことにしたい。調査の方法としては,16ヶ月間(2006年1月~3月, 2007年1月~2008年3月)にわたって週に二回(火曜日と木曜日)の練習の参与観察を行ったほか,指導員と上級クラスの生徒の大部分(指導員2名,生徒12名)の個別インタビューを行った。The purpose of this paper is to propose a new way to understand the acquisition of body techniques, by way of identifying 'corporal resistance' in the course of the acquisition of Tai Chi techniques in a class in Manchester, UK. Conventionally, acquisition was pictured as the embodiment of the social position occupied by the agent, with the implication that the body is an infinitely plastic object that can be given any form that society demands. This picture can be identified in the theories of Marcel Mauss, Pierre Bourdieu, and Michel Foucault. Contrary to the common understanding, participant observation on the Tai Chi class has shown that agents experience their own bodies resisting their will to acquire certain techniques, and that this resistance plays a key role in the formation of motivation, cognition, and the subject. In order to gather data, I have done participant observation held at the main centre building for 16 months (January 2006 to March 2006, and January 2007 to March 2008), by joining in twice weekly evening classes on Tuesdays and Thursdays. In addition to participating in the training, I have also conducted personal interviews on most of the instructors and the regular students (2 instructors, 12 students).
著者
松尾 尊兌
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.117-142, 2009

佐々木惣一は憲法学者として大正デモクラシー運動の先頭に立ち,とくに学問の自由,大学自治確立のため奮闘した。一方,近衛文麿は首相として日中戦争を全面化し,日独伊三国同盟を結び,国内の戦争体制を整備した責任者である。権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後,ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行った。この関係はどうして生まれたのか。近衛は京大学生時代,佐々木の講義は聞いたが,親しい関係はなかった。二人の接触が証明されるのは,1939年,近衛が首相を平沼騏一郎に譲り,無任所大臣に就任したときである。このとき近衛は枢密院議長を兼任したが,憲法違反の疑いをかけられ,京都の佐々木を訪問して教えを乞うた。その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難したが,太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣,早期和平実現計画の一員に加わる。敗戦直後,マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示する。近衛が相談相手に佐々木を選んだのは,戦争末期の協力関係によるものである。佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていたのでこれに応じた。佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画であったが実現しなかった。内大臣府廃止により,憲法改正作業は打切られ,近衛は要綱だけを,佐々木は全文を天皇に報告したが,これは二人の問に意見の対立があったからではない。二人はともに,天皇主権という帝国憲法の形式(国体)を維持したままに,内容を民主主義的自由主義的に改めることを意図した。国体を維持するためには,昭和天皇は戦争責任を負って退位すべきだとの暗黙の合意も,二人の間には存在した。近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと,その遺志をつぐように佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対する一方,皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張した。ただし新憲法の内容のデモクラシーには賛成し,新憲法が成立すると,国民は新憲法を尊重して,これを守るよう説いた。Sasaki Soichi was a constitutionalist, who stood at the forefront of the "Taisho Democracy" movement. He struggled in particular to establish academic freedom and university autonomy, The fact is not well-know, however, that this leading constitutionalist established some cooperative relationship with Konoe Fumimaro, who led Japan to a full-scale war with China, and entered into the Tripartite Pact with Nazi Germany and Italy. Their relations dated back to 1939, when Konoe visited Sasaki in Kyoto to consult on the issue of unconstitutionality of his nomination as a minister without portfolio, Some frictions notwithstanding, the cooperative relationship between these two figures developed during the war years, In 1944 Sasaki supported Konoe's plans to bring down the Tojo cabinet, and to bring a quick end to World War II. After the war, they worked together in the Office of the Lord Keeper of the Privy Seal (Naidaijin-fu) on revision of the Meiji Constitution. When General MacArthur requested Konoe to revise the Constitution, he chose Sasaki as his consultant. They both agreed on introducing democracy and liberalism to the constitution, while keeping its existing framework of the "national polity" (kokutai), and the imperial sovereignty. They also opted for the Emperor's abdication on the ground of his was responsibility. Their work came to end with the dissolution of Naidaijin-fu.After Konoe's suhcide, Sasaki insisted on a revision of the Imperial Household Law to make the Emperor's abdication possible. While critical of the concept of popular sovereignty in the new Constitution of Japan, he supported its democratic contents and calle on the nation to respect it.
著者
飯野 和夫
出版者
東京都立大学人文学部
雑誌
人文学報 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
no.151, pp.p147-173, 1982-02
著者
和気 純子 副田 あけみ 岡部 卓
出版者
首都大学東京都市教養学部人文・社会系 東京都立大学人文学部
雑誌
人文学報 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
no.439, pp.27-65, 2011-03

都内外の法外施設等への入所を余儀なくされる都内被保護高齢者への支援の実態を、(1) 法外施設等への入所につなぐ福祉事務所、および (2) 被保護高齢者を受け入れる法外施設等への事例調査によって明らかにした。その結果、法外施設の利用が少ない福祉事務所では、(1) 被保護高齢者へのきめ細かい支援、(2) 法外施設を極力利用をしない方針の共有、(3) 高齢所管課や社会福祉協議会等との連携、(4) 地域内外の居宅サービス、民間宿泊所、一般住宅施策などの活用、といった点が共通して確認された。一方、法外施設等への調査からは、(1) 都内施設における物理的、経済的制約によるハード面の整備の困難さ、(2) 有料老人ホームにおけるディスカウントの実施、(3) 福祉事務所による入所後のモニタリングや施設との連携をめぐる差異の存在が明らかになった。さらに、被保護高齢者が住み慣れた地域における介護サービスから排除される要因として、被保護高齢者における社会的排除の累積、行政責任の後退と「施設の論理」の一般化、貧困ビジネスの台頭、制度や機関間の連携不足といった点が指摘された。最後に、これらの議論をもとに必要な方策を提言した。
著者
外村 中
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.103, pp.1-43, 2013

琵琶は,古代中世の東アジアにおいて最も流行していた楽器の一つである。小稿では,正倉院に伝わるタイプの琵琶の源流とその流伝について,新たな仮説を提起する。従来の研究では,とくにローマとの関連は考察されていないようであるが,琵琶をひいては伝統音楽をあるいはさらには東西文化の交流を総合的に検討するためには,見落としてしまってはならないであろう。「阮咸」は,中国起源あるいは中国系であるとされる。そういえないことはないであろう。ただし,その原初タイプは,西アジア系長頸リュートから2世紀頃から3世紀頃までに中国において分岐したものらしい。また,1世紀から3世紀頃の西アジア系長頸リュートの中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝における流伝は,ローマあるいはローマ文化圏と関連がありそうである。「曲項」は,ペルシャ起源とされるが,ローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから2世紀頃までに中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「五絃」は,インド起源とされるが,正確にはローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから3世紀頃までに南方インドのサータヴァーハナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「秦漢」は,詳細不明であるが,あるいはギリシア・ローマ文化圏の梨形直頸リュートの直系あるいはそれに近いタイプであったかもしれない。
著者
鈴木 洋仁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.105, pp.117-139, 2014

本論文は、「戦後」において「明治」を見直す動きを、桑原武夫と竹内好の言説を対象に議論している。桑原と竹内が、「もはや戦後ではない」昭和31年 = 1956年を境に行われた「明治の再評価」をめぐる議論の意味を指摘する。「明治の再評価」を最初に唱えた一人・桑原にとっての「元号」は、西暦とは異なる、日本固有の時間の積み重ねだった。それは同時に、昭和20年 = 1945年に始まる「戦後」という時間軸よりも、「昭和」や「明治」という時間の蓄積に親しみを抱く世間の空気でもあった。そして、桑原もまた、「元号」と同様に、世の中の雰囲気を鋭敏に察知するアイコンでもあった。対する竹内は、「昭和」という「元号」を称揚する復古的な動きに嫌悪感をあらわにし、「明治」を否定的に回顧しようとしつつも苦悩する。「明治維新百年祭」を提唱した理由は、その百年の歴史が、自分たちが生きる今の基盤になっていると考えたからこそ、苦悩し、ジャーナリズムでさかんに発言する。このように本研究では、「明治百年」についての複数の言説の中で、日本近代に対峙した代表的な2人の論客が「元号」に依拠して明らかにした歴史意識を対象として、当時の知識人と社会、学問とジャーナリズムの関係性もまた見通している。This paper is discussing about the movement of revival the "Meiji" in post-war era, focusing on attitude of two intellectual elites ; Takeo Kuwabara and Yoshimi Takeuchi. Kuwabara who is totally forgotten today, by contrast, Takeuchi still remains as an influential figure in Japanese academic society. What determined the destiny of these two? The pivotal point is found in the famous sentence "there is not a post-war anymore now" appeared in the economic white paper of 1956. For Kuwabara who would like to advocate a "re-evaluation of the Meiji", "Gen-go" (Japanese name of era) is a symbol of unique history of Japan which is very different from that of the West described by A. D. This is because periodization by "Gengo" (ex. "Showa" and "Meiji") is more familiar for ordinary Japanese at that time than by "pre-war" or "post-war", and he keenly felt it. Therefore Kuwabara is remembered by people today only as a good observer of the time. On the other hand, Takeuchi tried desperately to express his loathing for "Showa" and the revival boom, examining "Meiji" era in a negative way. Despite being a proposer of "Centennial Meiji Restoration", he himself confused by the magnitude of that event. Because he knew it is the history accumulated after "Meiji Restoration" which defined his identity. Both two intellectuals facing the Japanese "modern" had shown their historical consciousness in a series of discourse about "Centennial of Meiji" and "Gen-go". These are the very typical figures suffering in the Japanese "modern".
著者
岩熊 幸男
出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.60, pp.p105-160, 1986-03