太田鳴雪 (@zasetsushirazu)

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論文へのリンクを貼り忘れていた。下田悠真「西郷隆盛の維新理念と明治六年政変-「御一新の基」を手掛かりとして-」(『人文×社会』1-2、2021年)。 https://t.co/NGWipXJfYT
伊故海貴則「明治維新期地域社会における「多数決」導入」(『立命館大学人文科学研究所紀要』124、2020年)は、静岡県駿河国地域では、地租改正によって「総員の納得できる合意は事実上、不可能」と認識され、「合意形成の一手段として「多数決」が選択された」と言う。 https://t.co/rI0Xr5OiJE
大正5年9月20日、志賀親朋が死去。日本初のロシア語通訳で、明治天皇の通訳も担当。幕末〜明治初期にロシアを訪問し、日露国境画定交渉にも関与。沢田和彦・畠山雄三郎「志賀親朋書翰集翻刻(1)」(『埼玉大学紀要 教養学部』56-2、2021年)は、文久元年の書簡11通を紹介。 https://t.co/svuQYeROYi
明治17年9月15日、安達清風が死去。幕末の鳥取藩出身で、磯田道史「幕末維新期の藩校教育と人材登用」(『史学』71-2・3)によれば、「藩内きっての俊英」であり、藤田東湖の影響を受けて能力主義による人材登用の必要性を主張した。徳川慶喜の側近・原市之進とも交流。 https://t.co/peOSHPCOtg
明治35年9月8日、長与専斎が死去。幕末期に大坂の適塾で塾頭を務めた医師。小島和貴「近代日本「健康保護」事業のための仕組みづくり」(『桃山法学』29、2018年)曰く、文部省医務局長として制定を実現させた「医制」は、政府が「衛生行政権」を掌握する仕組みを用意した。 https://t.co/FQr9jSwY8e
昭和14年9月7日、渡辺蒿蔵(天野清三郎)が死去。吉田松陰の松下村塾門下生の、最後の生き残り。幕末期には奇兵隊にも加入した。海外留学して帰国した後、造船技術者として活躍。牛見真博「近代造船の先駆者・渡辺蒿蔵(下)」(『大島商船高等専門学校紀要』51)が詳しい。 https://t.co/TZY3B5mDna
文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。成島柳北の祖父で、第12代将軍・徳川家慶に信任された儒学者。『徳川実紀』を編纂した。藤實久美子「徳川実紀の編纂について」(『史料館研究紀要』32)曰く、実紀の編纂に成島を推薦したのは、岩瀬忠震の祖父である林述斎。 https://t.co/SLwszYvhvH
明治27年9月2日、柳原前光が死去。幕末の公家で、明治期には主に外交官として活躍。皇室典範の起草にも関与したが、笠原英彦「明治皇室典範の制定過程と柳原前光」(『法学研究』91-12)によれば、皇室典範に「譲位」を規定しようとした柳原案は伊藤博文によって退けられた。 https://t.co/mA2cuga0ot
明治31年8月27日、島田篁村(島田重礼)が死去。幕末期に昌平黌で助教を務めた儒学者で、明治期には東京帝国大学教授などを務めた。古賀勝次郎「安井息軒を継ぐ人々(3)」(『早稲田社会科学総合研究』11-1)曰く、明治以降の儒学の衰退を憂慮し、後進の育成に尽力した。 https://t.co/llHNvlxxoV
安政5年7月16日(1858年8月24日)、島津斉彬が死去。西郷隆盛が慕った薩摩藩主で、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、斉彬は「優秀な蘭学者たちと交流しながら蘭書を翻させ、その知識を吸収する努力を怠らなかった」。 https://t.co/wRrCURrcia
元治元年7月20日(1864年8月21日)、平野国臣や古高俊太郎が死去。元治甲子戦争(禁門の変)の騒擾の中、六角獄で処刑。笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回」(『仏教大学総合研究所紀要』8)は、三条実美が平野の論策に感銘し、影響を受けていた可能性を指摘。 https://t.co/ZE9L8zItRK
明治3年7月19日(1870年8月15日)、小松帯刀が死去。7月18日もしくは20日死去とする説もある。幕末の薩摩藩家老で、島津久光が不在の場では名代を務めた、幕末政局の重要人物。根占献一「小松帯刀と新時代」(『学習院女子大学紀要』21)は、文化人・知識人としての面に着目。 https://t.co/pZG9Cpcbe5
明治38年8月14日、三宮義胤が死去。幕末期に岩倉具視らと交流し、戊辰戦争に新政府軍の一員として参加。明治政府では兵部省、外務省、宮内省などに出仕。明治初期に英国人女性と結婚したため、小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)などに言及がある。 https://t.co/CDYGvqFKOV
昭和2年7月30日、市川文吉が死去。幕末期に幕府が派遣したロシア留学生で、明治6年に岩倉使節団がロシアを訪問した際に通訳として現地採用された(坂内知子「岩倉使節団とロシア宮廷の謁見儀礼」『異文化コミュニケ-ション研究』15)。樺太・千島交換条約の交渉にも参加。 https://t.co/gYphnSzBik
慶応2年6月18日(1866年7月29日)、西郷隆盛が寺島宗則らを伴い、鹿児島滞在中の駐日英国公使パークスと会談した。町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)によれば、「薩英間の本格的な国内での蜜月関係」に結実した。 https://t.co/wLdjTVJyEi
明治30年7月29日、鄭永寧が死去。幕末の唐通詞で、明治期にも外交官として伊達宗城・副島種臣・大久保利通・伊藤博文らの清国行きに随行。日清修好条規などに関わった。幕末の唐通詞について、許海華「幕末における長崎唐通事の体制」(『東アジア文化交渉研究』5)がある。 https://t.co/DYUOwBQs1b
平成28年(2016年)7月27日、歴史家の安岡昭男が死去。講演「明治日本と万国」(『法政史学』50、1998年)で、朝鮮に使節を派遣しようとした将軍・徳川慶喜の外交について、「鎖国から開国した幕府が、今度は逆に外国のことを第三国として調停に乗り出そう」としたと評価。 https://t.co/01TqbmWgPk
明治15年7月23日、佐藤尚中(舜海)が死去。幕末期に佐倉順天堂創始者・佐藤泰然の養子になった医師で、順天堂二代目堂主。明治天皇の侍医を務めた時期もある。土佐博文「佐倉順天堂門人とその広がり」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)は、その門人に関する分析。 https://t.co/xCZeOthyRO
明治22年7月19日、杉田玄端が死去。岩瀬忠震の推挙で蕃書調所に出仕した医師・蘭学者で、その後は外国奉行支配翻訳御用頭取や沼津陸軍医学所頭取などを務めた。鈴木敏夫「江戸時代における養生書の研究」(『北海道大学教育学部紀要』22)は、杉田の著書『健全学』を分析。 https://t.co/3zmjpnipJu
文政12年6月16日(1829年7月16日)、近藤重蔵(正斎、守重)が死去。江戸時代後期の幕臣で、北方探検家として知られる。梅澤秀夫「近藤重蔵論ノート(2)」(『清泉女子大学人文科学研究所紀要』35)曰く、幕府内で蝦夷地幕僚化を支持する急先鋒の1人だった。 https://t.co/dwUtWAXRHf
明治42年7月15日、岩男三郎が死去。幕末の熊本藩出身で、横井小楠の弟子。小楠の甥2人(横井左平太と横井太平)が坂本龍馬を通じて勝海舟に師事した際、一緒に入門。福井県知事などを歴任。北口由望「明治初期のイェール大学日本人留学生」(『専修大学史紀要』6)が言及。 https://t.co/lldwPG75r7
文久3年5月29日(1863年7月14日)、中島名左衛門が死去。幕末の長州藩に雇用された洋式砲術家。上田純子「萩藩文久改革期の政治組織」(『史学雑誌』109-11)曰く、世子御前会議で「西洋諸国の軍事的優位を指摘し、下関の手薄な配備を痛切に批判した」後、暗殺された。 https://t.co/7f9iQ9RlY0
明治15年7月6日、松田道之が死去。幕末期に鳥取藩の周旋方を務め、長州藩に親和的な立場で活動した。明治期には東京府知事などを歴任し、さらに琉球処分を担当。近年の研究に、馬場義弘「初代滋賀県令松田道之の人物と思想」(『滋賀大学教育学部紀要』69、2020年)がある。 https://t.co/qyZJ70CezV
明治31年7月5日、神田孝平が死去。蕃書調所・開成所で教授を務めた洋学者で、兵庫県令などを歴任。南森茂太「「政體書」体制時代における神田孝平の地方制度論」(『経営と経済』99(1-4))曰く、議事体裁取調所総裁の山内容堂の下で、政策ブレーンとして働いた時期もある。 https://t.co/qv04A8yVtp
慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、武市瑞山(武市半平太)と岡田以蔵が死去。笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』26、2021年)は、武市ら「土佐勤王党による藩外交主導の状況」に対する土佐藩当局の対応などを分析。 https://t.co/WvTSa3GYHr
大正13年7月2日、松方正義が死去。幕末の薩摩藩出身で、内閣総理大臣に2回就任。荒船俊太郎「大正後期の松方正義と「元老制」の再編」(『史学雑誌』122-2、2013年)曰く、松方の死は「各政治勢力の代表者たる元老が集団で国家意思の統合役を担った時代の終焉を意味した」。 https://t.co/p8A7LELPP6
弘化3年閏5月8日(1846年7月1日)、徳川斉順が死去。第11代の紀州藩主で、第11代将軍・徳川家斉の子。また、幕末の第14代将軍・徳川家茂の父親でもある。三宅智志「大名の婚姻に関する一考察」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』39)は、将軍継嗣問題に絡めて斉順に言及。 https://t.co/qTBJZDfjh8
慶応3年5月24日(1867年6月26日)、兵庫開港が勅許。青山忠正「通商条約の勅許と天皇」(『佛教大学歴史学部論集』5)曰く、2年前の条約勅許で「現実に行われている外交・貿易と、その事実を国家のトップが認めていないというねじれ構造は解消」したが、兵庫のみ例外だった。 https://t.co/lV0aK3S2pd
明治10年6月26日、儒学者・山田方谷が死去。幕末の老中・板倉勝静(備中松山藩主)のブレーンで、対馬藩の大島友之允が財政援助要求を幕府に建白する際、全面的に協力した。木村直也「元治元年大島友之允の朝鮮進出建白書について(上)」(『史学』57-4)参照。 https://t.co/vq1KowVlAU
1900年6月23日、レオン・ロッシュが死去(異説あり)。幕末の駐日フランス公使。略歴について、西堀昭「第2代日本駐箚フランス公使ミッシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Leon Roches, 1809-1900)について」(『横浜経営研究』19-1)参照。 https://t.co/pPWTn3w1Gm
麓慎一「明治初期のサハリン島問題とパークス」(『環日本海研究年報』24)によれば、英国公使パークスは、「明治政府に穏健なサハリン島政策の選択を求めた」。その一方でパークスは、「ロシアによる日本の北方地域への脅威は限定的なものと考えるようになった」とする。 https://t.co/oqOTLCK6rl
明治39年6月17日、矢野二郎が死去。幕末期に英語の通訳を務めた幕臣で、幕府の横浜鎖港談判使節に随行。明治期に駐米公使や商法講習所(一橋大学の起源)の初代所長に就任。菊地久「維新の変革と幕臣の系譜6」(『北大法学論集』32-3)は、旧幕臣の社会進出の例として言及。 https://t.co/5FJfyHB1ej
明治43年6月16日、島津珍彦(島津備後)が死去。島津久光の子で、薩摩藩主・島津茂久(忠義)の弟。慶応3年には西郷隆盛や大久保利通に近い人物だった。針貝綾「鹿児島県の屋外彫刻」(『鹿児島県立短期大学地域研究所研究年報』34)は、大正期に建立された珍彦の銅像に言及。 https://t.co/5LeweLiHtX
明治20年6月8日、権田直助が死去。国学者・医師で、慶応3年に江戸の薩摩藩邸に入り、相楽総三らと気脈を通じた。明治初期に、丸山作楽らと反政府の陰謀に関与したことを疑われた。安藤良平「国事鞅掌者の映像 2」(『跡見学園女子大学紀要』15)が、権田の著作一覧を掲載。 https://t.co/aTdhajB1Qh
大正8年6月4日、徳大寺実則が死去。幕末期に国事御用掛や議奏を務めた公家で、西園寺公望の兄。8月18日政変で一時期失脚。明治天皇の侍従長を長く務め、宮内卿や内大臣なども歴任。伊藤之雄「元老制度再考」(『史林』77-1、1994年)は、徳大寺の日記を初めて本格的に活用。 https://t.co/ZM6WCaO5U9
井上勲「大老 井伊直弼」(『学習院史学』35)曰く、官位について、「井伊家をこえる位をもつ家は、三家と三卿と加賀前田家だけ」。井伊家の特別さについては、野田浩子「井伊家の家格と幕府儀礼」(朝尾直弘ほか編『譜代大名井伊家の儀礼』サンライズ出版)などもある。 https://t.co/SaZ2sGjtnd
明治27年6月2日、森寛斎が死去。長州藩出身の日本画家。高久嶺之介「北垣晋太郎の幕末」(『社会科学』49-2)は、北垣国道が生野の変に参加した後、「長州に潜伏し,奇兵隊に幕府の間諜と怪しまれ,処刑されんとした時」、森に救われた逸話と、その後の両者の交流を分析。 https://t.co/cdxiZu27Os
文政11年4月15日(1828年5月28日)、大黒屋光太夫が死去。伊勢から江戸に向かう途中で漂流した末、ロシアの首都でエカテリーナ2世に謁見した。豊川浩一「大黒屋光太夫自筆の署名文書」(『駿台史学』163)は、光太夫のロシア語による自筆と思われる署名入りの史料を紹介。 https://t.co/u1qGn0D4Uw
明治15年5月25日、後藤碩田(今四郎、真守)が死去。幕末期に小河一敏、宮部鼎蔵、松村大成らと交流を持ち、後藤重巳「幕末期京都情報の流布をめぐって」(『別府大学紀要』38)曰く、「豊後における勤王運動の経済的支柱」。蒐集した史料を『碩田叢史』として編纂。 https://t.co/BOy4PMLO3C
明治5年4月16日(1872年5月22日)、砲術家の村上範致(村上定平)が死去。幕末の田原藩出身で、渡辺崋山に期待され、高島秋帆に師事した。幕府の講武所にも招聘された。鵜飼尚代・佐久間永子「村上範致と著述古記録に関する基礎研究」(『名古屋外国語大学論集』2)など参照。 https://t.co/nopVvQIXfc
文久2年4月23日(1862年5月21日)、寺田屋事件が発生。京都所司代襲撃などを企図した有馬新七らと、島津久光が鎮撫のため派遣した大山綱良らが薩摩藩士どうしで斬り合った。工藤憲一郎「藩屏概念の具現化をめぐる相剋」(『国士舘大学政経論叢』27-1)は、有馬の建言を分析。 https://t.co/BpgjFQee0n
大正11年5月19日、江原素六が死去。幕末の幕臣で、戊辰戦争で新政府軍と戦った後、沼津兵学校設立の中心人物。麻布尋常中学校(麻布学園の前身)を創設。久木幸男「江原素六教育勅語変更演説事件」(『教育学部論集』4)は、「教育勅語を批判」した1人として江原を分析。 https://t.co/nQTqBCQKgE
『史学雑誌』118-3に掲載の、熊澤恵里子『幕末維新期における教育の近代化に関する研究-近代学校教育の生成過程-』(風間書房)の書評。評者は、『沼津兵学校の研究』(吉川弘文館)などの著書がある樋口雄彦氏。沼津兵学校に関係する部分の事実誤認を中心に論評。 https://t.co/LQggmhLRBX
昭和54年(1979年)5月17日、平尾道雄が死去。幕末維新の土佐藩や坂本龍馬などの研究で知られ、その一連の研究は良くも悪くも、「今日まで土佐藩研究の礎と評される」(笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」『京都産業大学日本文化研究所紀要』26、2021年)。 https://t.co/WvTSa3GYHr
明治40年5月13日、金井之恭が死去。幕末期に、新田義貞の後裔・新田満次郎(岩松俊純)を擁して挙兵を企図した。明治7年、台湾出兵の問題解決などのため清国に赴いた大久保利通に随従(後藤新「台湾出兵の終幕」『武蔵野法学』7)。高山彦九郎の伝記『高山操志』を編纂。 https://t.co/93dSWCWGQR
明治44年5月13日、谷干城が死去。幕末の土佐藩出身で、坂本龍馬とも交流があった。中野目徹氏は、小林和幸『谷干城』(中公新書、2011年)の書評(『史学雑誌』122-8に掲載)で、西南戦争での活躍や貴族院の重鎮としての立場など重要人物でありながら、研究が少ないと指摘。 https://t.co/VRwmDsOHrf
安政6年4月10日(1859年5月12日)、新発田収蔵(柴田収蔵)が死去。佐渡出身の地理学者で、幕末の蕃書調所に出仕。世界地図『新訂坤輿略全図』などを作成。森山武「島から世界へ」(『南太平洋から見る日本研究』国際日本文化研究センター)が古賀謹一郎との接触などを紹介。 https://t.co/N9QZ2OblXf
笹部昌利「幕末期土佐藩の国事運動と「政治犯」化」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』26、2021年)は、「武市半平太ら土佐勤王党により主導された藩外交のありようを、藩当局者が如何に捉えていたのかを考察」。その際、行政を監査した小目付たちの政治見解を重視。 https://t.co/WvTSa3GYHr
安政5年3月24日(1858年5月7日)、幕臣の岩瀬忠震と福井藩の橋本左内が、初めて会った。その後、交流は活発になり、「外交問題や一橋派の運動を通じて、両者は信頼できる同志」になった(別所興一「幕末・維新期の対外観の転回」『愛知大学綜合郷土研究所紀要』62、2017年)。 https://t.co/4Oi2rr1nFQ
檜皮瑞樹「一九世紀樺太をめぐる「国境」の発見-久春内幕吏捕囚事件と小出秀実の検討から-」(『早稲田大学大学院文学研究科紀 第4分冊』54)は、檜皮氏の著書『仁政イデオロギーとアイヌ統治』(有志舎)第6章の元論文。幕末の北蝦夷地をめぐるロシアとの緊張関係を分析。 https://t.co/ByrXKBKeCN
明治29年5月6日、高崎五六(高崎猪太郎)が死去。町田明広「第一次長州征伐における薩摩藩」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)及び同『薩長同盟論』(人文書院)曰く、元治元年に岩国領主・吉川経幹に対して、長州征伐を寛典処分とする薩摩藩・島津久光の方針を伝えた。 https://t.co/xUZx0nyPvK
大正10年5月4日、北畠治房(平岡鳩平)が死去。なお、死去日を5月2日とする文献もある。幕末期、天誅組に参加した。檜皮瑞樹「四つの大隈銅像と政治家大隈重信」(『早稲田大学史記要』47)は、大隈重信を暗殺しようとした北畠が、むしろ大隈と意気投合したという逸話を紹介。 https://t.co/6NKYYVB7GL
明治17年5月4日、道家之山が死去。幕末の熊本藩出身で、明治3年の藩政改革に参画した。三澤純「熊本藩明治三年藩政改革の再検討」(『文学部論叢』109、熊本大学、2018年)は、新史料を軸に道家の立ち位置や改革の実態を分析し、「実学党中心史観」の克服を提言した。 https://t.co/asHbl2eYvN
明治30年5月3日、伊賀陽太郎が死去。幕末の土佐藩主・山内容堂の甥で、井上琢智「小野梓を支えた土佐の人びと」(『早稲田大学史記要』45)曰く、「宿毛の邑主として、戊辰戦争では宿毛を代表して機勢隊を結成」した後、約10年の英国留学を経験。小野梓や馬場辰猪を支援した。 https://t.co/zko8s7ORHM
明治29年5月1日、中沼了三(中沼葵園)が死去。幕末維新期に強い影響力のあった儒学者で、門人に西郷従道や中岡慎太郎など。明治天皇の侍読を務めたが、三条実美らと対立して辞職。藤原正信「「隠岐騒動」再考」(『龍谷大学論集』472)は、出身地・隠岐の明治維新を分析。 https://t.co/aL5VlOpYwo
明治42年4月28日、由利公正が死去。幕末の福井藩出身で、五箇条の御誓文の作成に関与。東京府知事などを歴任。三浦直人「由利公正の名に〈唯一の〉〈正しい〉読みはあるか-きみまさ・きんまさ・コウセイ-」(『明治大学大学院文学研究論集』48)は、人名史の視点で分析。 https://t.co/8GFPj5sqV8

24 0 0 0 IR 尊攘論の時代

慶応4年4月5日(1868年4月27日)、水戸藩主・徳川慶篤が死去。徳川斉昭の子で、徳川慶喜の兄。文久3年に「生麦事件処理の責任者」(高橋秀直「尊攘論の時代」『京都大学文学部研究紀要』44)。慶篤の死で、パリにいた弟・徳川昭武が帰国し(渋沢栄一が同行)、水戸藩主に。 https://t.co/ynNtrigDya
明治41年4月24日、津田仙が死去(死去日に異説あり)。ペリー来航時、佐倉藩の一員として江戸湾警備に参加。慶応3年には通訳として、福沢諭吉らと共に渡米。津田梅子の父親で、嶋田順好「津田仙の信仰と生涯」(『キリスト教と文化』24)曰く、草創期のキリスト教界の指導者。 https://t.co/BiBbisqVl9
大賀郁夫「幕末期譜代延岡藩の風聞探索活動」(『宮崎公立大学人文学部紀要』28-1、2021年)は、文久2年の延岡藩の探索活動を分析。重視された藩は島津久光の率兵上京があった薩摩藩、熊本藩、小河一敏が注目された岡藩。また、唐津藩世子の小笠原長行への評価が高いという。 https://t.co/hJiJDASYtl
昭和19年4月21日、市島謙吉が死去。「早稲田四尊」の1人で、早稲田大学の初代図書館長。藤原秀之「春城市島謙吉先生と早稲田大学図書館」(『早稲田大学図書館紀要』57)は、史料を積極的に収集した市島と、幕末の「志士」顕彰・史料収集に熱心だった田中光顕の交流を紹介。 https://t.co/mATqfWn7da
横山百合子「東京の明治維新-錦絵にみる町方住民の意識と維新政府の統治-」(『経済史研究』24、2021年)は、慶応3年〜明治2年の錦絵を素材に、標題のテーマを分析。東京の世情不安を憂慮した吉井友実の、「天皇の食費削減、官員の給与減」を主張した建言なども紹介。 https://t.co/Pyxw5DMxig
柳田直美「学習院大学所蔵「徳川宗家旧蔵書」について(其の一)」(『書物・出版と社会変容』26、2021年)は、明治8年に徳川家達が勝海舟を介して華族会館に寄贈した、徳川宗家の旧蔵書を考察。その中で、第14代将軍・徳川家茂が創設した学問所の蔵書印などに着目。 https://t.co/Vs0MMmj4NB
老川慶喜『鉄道と観光の近現代史』(河出書房新社、2017年)は、『日本鉄道史 幕末・明治篇』(中公新書)などの著書がある鉄道史研究者の著作で、山口耀平氏の書評(『立教観光学研究紀要』21)は、「戦前・戦後にまたがる観光の歴史を実証的に明らかにする」試みと評価。 https://t.co/I7hIT6eHEr
明治6年4月9日、広沢健三が死去。初期の明治政府で、木戸孝允と並ぶ長州藩出身の大物だった広沢真臣の子。米国留学中、 19歳の若さで病死した。重松優「広沢真臣の子,健三のアメリカ留学について」(『学苑』930、2018年)は、明治初年の教育や国際交流の事例として分析。 https://t.co/FSVytV8mS2
大河ドラマ『青天を衝け』第8回、井伊直弼の描き方が良かった。徳川慶喜らの処分について、「家定が死去すれば、少年の慶福は一橋派の徳川一門に囲まれるように孤立してしまう」、それを避けるためという指摘がある(井上勲「大老井伊直弼」『学習院史学』35)。 #青天を衝け https://t.co/SaZ2sGjtnd
明治45年4月2日、石本新六が死去。幕末の姫路藩出身で、陸軍の秀才と謳われ、第二次西園寺公望内閣の陸軍大臣を務めた。谷干城や陸奥宗光らと同じく、著名な儒学者・安井息軒の弟子(古賀勝次郎「安井息軒の生涯-安井息軒研究(二)-」『早稲田社会科学総合研究』8-2)。 https://t.co/lwuXCrKCNo
明治16年3月30日、幕末の山陵奉行だった戸田忠至が死去。外池昇「神武天皇陵御修復と戸田忠至「中元御祝義金三百疋」」(『成城大学共通教育論集』7、2014年)は、文久の修陵をめぐる戸田の悪評や、宇都宮藩家老の家督の身分から異例の大出世を遂げたことなどに言及。 https://t.co/2mmDsYjLT5
大正5年3月30日、中牟田倉之助が死去。幕末の佐賀藩出身で、明治の海軍中将。英語を学んでいたため、高杉晋作や五代友厚と同じ船で上海に渡航した際、高杉に頼られた。藤田佳久「幕末期に上海を訪れた日本人青年藩士たちの行動空間」(『同文書院記念報』24)などを参照。 https://t.co/lIKrSue9aV
明治29年3月27日、前山清一郎が死去。幕末期に佐賀藩の藩校・弘道館教授補。佐賀の乱では、中立派の宗龍寺党首領として政府に協力。徳永暁「前山家文書「前山清一郎戊辰戦争関係文書」について」(『国士舘史学』23)は、戊辰戦争で大総督府の参謀を務めた際の史料を紹介。 https://t.co/mU7a26bJza
慶応2年2月5日(1866年3月21日)、木戸孝允の手紙(薩長同盟の6か条)に、坂本龍馬が内容を保証する裏書きをした。町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、龍馬が長州藩要路の一部から薩摩藩士と見られていた点が意味を持った。 https://t.co/Vz75SjD6eh
青山忠正「王政復古前後の政局と公議-新発田藩を事例に-」(『歴史学部論集』10、2020年)曰く、王政復古政変前後の政局では、「その他大勢」の在京諸大名勢力が京都政局の多数意見を形成し、政局の方向性を掣肘した。長州藩毛利家の官位復旧の問題も同様だったとのこと。 https://t.co/mQtU5Cpids
松本あづさ「エトロフから長崎へ」(『藤女子大学文学部紀要』54)曰く、江戸時代、日本に漂流した異国人を長崎経由で送還する体制があったが、蝦夷地だけは「異域」認識などのため、上記送還ルートに組み込まれたのは、弘化3年(1846)にエトロフへ米国捕鯨船が漂着してから。 https://t.co/g9FMvD2MYD

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RT @rshibasaki: @zasetsushirazu 柳田国男『雪国の春』1928年刊収録「をがさべり(男鹿風景談)」冒頭に出てくる「枢密院の内田伯」を、まず思い浮かべる。https://t.co/rZo7UlA3Cp(国立国会図書館デジタルコレクション)
井上勲「幕末政治社会の形成」(『学習院大学史料館紀要』9)によれば、ペリー来航に際して福井藩の松平慶永(松平春嶽)らが主張した、オランダから要求拒絶の意志を米国に伝達してもらう方法は、自ら折衝の場を設けて逆に通信の関係が成立することを避ける目的があった。 https://t.co/W9VCdt8DfF
天保7年1月18日(1836年3月5日)、石川忠房が死去。ロシア使節ラクスマンの応接を担当した幕臣で、多仁照廣「石川忠房と寛政期北方外交と蝦夷地経営」(『敦賀論叢』5)曰く、松平定信の意を受けて、「寛政期の幕府北方外交と蝦夷地経営を唯一通して実務を担当した人」。 https://t.co/ROfNfdbYU6
明治10年3月4日、篠原国幹が死去。幕末の薩摩藩出身で、戊辰戦争で各地を転戦。西南戦争で西郷隆盛軍の幹部として戦い、戦死した。大谷正「歴史書と「歴史」の成立」(『専修法学論集』100)は、西南戦争の基本文献とされる黒龍会の『西南紀伝』の問題点などを指摘。 https://t.co/eoMqwoqJDv
昭和10年3月3日、天照義団という団体の構成員の一部に、横浜の井伊直弼の銅像の首を斬る計画があったが、未遂に終わった。旧暦と新暦の違いはあるが、桜田門外の変の日付に合わせたもの。阿部安成「ナオスケの首が」(『滋賀大学経済学部Working Paper』122、2010年)が検証。 https://t.co/mtWHIync0e
平成27年3月2日、河野本道が死去。『アイヌ史/概説』などの著書がある研究者だが、マーク・ウィンチェスター「分類学者:河野本道のアイヌ民族否定論(上)」(『神田外語大学日本研究所紀要』10)は、河野がアイヌを「民族」と認めなかったことの問題や社会的影響などを分析。 https://t.co/5fCHFauhnU
慶応4年2月1日(1868年2月23日)、土御門晴雄が、幕府天文方の所管だった暦法業務を京都に戻してほしいと朝廷に願い出た。木場明志「近代における陰陽師のゆくえ」(『大谷学報』75-3、1996年)曰く、「明治維新は、公家であった土御門家に朝廷政治の復活を夢想」させた。 https://t.co/BK8JBUWIHR
慶応2年1月8日(1866年2月22日)、木戸孝允が上京。薩長同盟に繋がるが、手引きした薩摩藩士・黒田清隆の行動は、独断によるものだった可能性が高い。町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)、同『薩長同盟論』(人文書院)参照。 https://t.co/Vz75SjD6eh
昭和6年2月20日、鮫島武之助が死去。薩摩藩出身で、鮫島尚信の弟。許海華「長崎唐通事何礼之の英語習得」(『関西大学東西学術研究所紀要』44)などによれば、幕末期に前田正名らと共に、何礼之の私塾に入った。明治期に、第三次・第四次伊藤博文内閣の書記官長などを務めた。 https://t.co/zWHyRibxFM
佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205、2020年)は、幕末の薩摩藩家老の寓居で、薩長同盟の舞台として注目されている近衛家別邸・御花畑について、「それ以前の実態」も含めて考察。薩土盟約の舞台となったことへの言及もある。 https://t.co/pAJttOjkZN
明治8年2月13日、平塚飄斎が死去。幕末期の京都町奉行所与力で、山稜研究家として文久の山稜修復事業に従事した。鈴木栄樹「「京都御備」としての安政期の湖北通船路開鑿事業」(『人文学報』103)は、敦賀と琵琶湖北部を結ぶ湖北通船路開鑿事業のキーパーソンとして分析。 https://t.co/UQnrzyMNcy
大正15年2月10日、岡田好樹(岡田誠一)が死去。幕末の長崎・済美館で何礼之らと共に英語を教え、フルベッキと一緒に写真撮影もした。最初の仏和辞書も出版。中井えり子「『官許佛和辭典』と岡田好樹をめぐって」(『名古屋大学附属図書館研究年報』6)が、その履歴を紹介。 https://t.co/h2IH2rs3KY
慶応4年1月14日(1868年2月7日)、鳥羽・伏見の戦いの情報を得た長崎奉行・河津祐邦が長崎を退去。吉岡誠也「慶応四年の長崎における佐賀藩」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)曰く、その後1ヶ月、松方正義・佐佐木高行らによる長崎会議所が暫定統治。 https://t.co/FCiMiYm2NR
濱口裕介「幕末期カラフトを踏査した佐倉藩士たち」(『佐倉市史研究』31)は講演録。 関連の深いほかの論文に、「安政年間における老中家臣の蝦夷地調査」(『史友』35)、「幕末期アイヌ風俗改変政策に関する地理的考察」(『札幌大学女子短期大学部紀要』64)などがある。 https://t.co/xJkptvdFep
昭和2年2月5日、川路寛堂(川路太郎)が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幕末期に中村正直と共に英国留学。宮越勉「敗戦後の志賀直哉」(『文芸研究明治大学文学部紀要』128、2016年)によれば、志賀直哉は寛堂が編述した『川路聖謨之生涯』(吉川弘文館)を読んでいた。 https://t.co/NyHHMOKJi5
大正11年2月1日、山県有朋が死去。長州藩出身で、幕末期に奇兵隊の幹部。内閣総理大臣に2度就任。伊藤博文と並ぶ元老の最有力者で、政治・軍事の両面で大きな影響力を有した。佐藤信「山県有朋とその館」(『日本研究』51)は、「空間に興味を持った人物」として分析。 https://t.co/bpc1fSErMm
弘化3年12月13日(1847年1月29日)、箕作省吾が死去。『坤輿図識』などを編纂し、世界地理を紹介。吉田松陰らに影響を与えた。辻田右左男「箕作省吾「坤輿図識」-著者をめぐる1,2の問題-」(『奈良大学紀要』2)曰く、省吾の著作は幕末社会にセンセーションを巻き起こした。 https://t.co/yCWaEmxjwp
大正5年1月25日、佐々木権六(佐々木長淳)が死去。越前福井藩出身で、幕末期には鉄砲製造など軍事の分野で働き、明治期は養蚕技術者になった。長野栄俊「佐々木権六(長淳)に関する履歴・伝記史料の紹介」(『若越郷土研究』52-2)は、研究の少ない幕末期の史料を紹介。 https://t.co/nT4g2bSAGj
平成18年(2006年)1月22日、高橋秀直が死去。大著『日清戦争への道』(東京創元社)の著者。井上勝生氏は、高橋氏の幕末研究をまとめた遺稿集『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館)の書評(『史林』91-2)で、「比肩することができない、大きな業績をあげた著者」と呼ぶ。 https://t.co/7cyckFO5zs
昭和47年(1972年)1月21日、『帰ってきたウルトラマン』第41話「バルタン星人Jrの復讐」が放送。花岡敬太郎「「帰ってきたウルトラマン」制作過程から読み解く1970年代の変容の兆し」(『明治大学大学院文学研究論集』49)は、郷秀樹と坂田次郎との関係性を中心に言及。 https://t.co/Kkj6NYIMnH
明治43年1月20日、清水卯三郎が死去。慶応3年のパリ万博に、唯一の日本人商人として出品。薩英戦争後に五代友厚と寺島宗則を匿った。白山映子「清水卯三郎の政治観」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』49)は、「海外からの啓蒙思想を移入した人物」の1人として分析。 https://t.co/94lpM0o3v7
宮永孝「近世における西洋人の日本人観」(『社会志林』66-3、2019年)は、16〜20世期の長いスパンで、「外国人の眼に写った日本および日本人のすがた、その国民性について歴史的に概括する」。シーボルト、オールコック、オイレンブルクなど様々な事例を紹介する。 https://t.co/58mHV9YY3X
明治27年1月8日、月形潔が死去。幕末の志士として知られる月形洗蔵の従兄弟で、北海道樺戸郡月形町の町名の由来。樺戸集治監の初代典獄時代、看守の剣術指南役として永倉新八を採用(吉田悦志「作家・子母澤寛誕生の風土-幕府軍敗残兵3人と厚田村-」『創価教育』11)。 https://t.co/47PEBTQpmD
明治33年1月8日、浅野氏祐が死去。幕末期に神奈川奉行、外国奉行、陸軍奉行などを歴任。小笠原長行の率兵上京に加担した。岩瀬忠震は、文久遣欧使節団に浅野を加えるべきと考えていたらしい(河北展生ほか「木村喜毅(芥舟)宛岩瀬忠震書簡」『近代日本研究』5、1988年)。 https://t.co/TeZDVRWhKd
明治33年1月5日、秋月悌次郎が死去。幕末の会津藩出身で、文久3年8月18日政変の立役者の1人。明治期に熊本で教師となり、同僚の小泉八雲から敬愛された。中西達治「会津藩降伏と秋月悌次郎」(『金城学院大学論集 人文科学編』16-1)は、戊辰戦争の会津藩降伏の時期を分析。 https://t.co/P4r2WqcGQY
明治45年1月4日、東久世通禧が死去。文久3年8月18日政変の際の、「七卿落ち」の公家の1人。明治期に外国事務総督、北海道開拓使長官、侍従長、貴族院副議長などを歴任。廣田吉崇「明治前期の「貴紳の茶の湯」」(『日本研究』45、2012年)は、東久世の日記を分析素材とする。 https://t.co/1kkKgGGdm6
文化7年12月4日(1810年12月29日)、森島中良(桂川甫粲)が死去。『紅毛雑話』・『万国新話』・『琉球談』などの著作がある。岡田袈裟男「森島中良の見た海彼の文化」(『国文学研究』151、2007年)曰く、「海禁の時代の日本人としては希に見る異文化の了解者であった」。 https://t.co/RBebIU7D0h
『青森県史 資料編 近世6 幕末維新期の北奥』の、工藤威氏による書評(『弘前大学国史研究』139、2015年)。県域が、旧盛岡藩、八戸藩、弘前藩にまたがっているがゆえの掲載資料を選択する苦心に言及。工藤氏は、『奥羽列藩同盟の基礎的研究』(岩田書院、2002年)の著者。 https://t.co/k5j4v4XMLM

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2 0 0 0 OA 雪国の春

@zasetsushirazu 柳田国男『雪国の春』1928年刊収録「をがさべり(男鹿風景談)」冒頭に出てくる「枢密院の内田伯」を、まず思い浮かべる。https://t.co/rZo7UlA3Cp(国立国会図書館デジタルコレクション)

41 1 0 0 OA 寛政重脩諸家譜

@lalan1858 @zasetsushirazu 岩瀬内記家は忠震が養子に入った岩瀬市兵衛家の本家筋にあたります。 https://t.co/0zvGAMgymU
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)が既にダウンロード可能となっていました(^^)https://t.co/A65OnLMHFg メチャ大部で恐縮ですが、どうかよろしくお願いいたします。

117 0 0 0 OA 官報

年賀状に質問を書いて送るの禁止~(笑) 当アカウントは個別の質問にはお答えしておりません。以下、独り言です。 明治期の外交官及領事官官制(勅令第257号。明治23年10月21日)でしたら、ここに載っていました。https://t.co/u0CfQnjROw (国立国会図書館) https://t.co/BWNV5lfFlK
神田千里「大友宗麟の改宗 : その実態と背景」『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』(40), 71-110, 2014 PDFあり。 https://t.co/7kqzAdnnXr

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