太田鳴雪 (@zasetsushirazu)

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知野文哉氏の博士論文「土佐明治維新史とその歴史意識の形成-坂本龍馬を中心に-」。読み応えがある。 なお知野氏には、著書『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)や、論文「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)、「瑞山会考」(『土佐史談』274)などがある。 https://t.co/zfid4b1L5f
嘉永6年9月15日(1853年10月17日)、幕府は大船建造の禁止令を解禁した。下記リンクは、幕末の仙台藩が建造した洋式帆船に関する論考や史料を収録した、佐藤大介・黒須潔・井上拓巳編著『仙台藩の洋式帆船開成丸の航跡』(東北大学災害科学国際研究所、2022年)のPDF。 https://t.co/knAGWs8yah
1870年7月19日、普仏戦争が始まった。フランスが宣戦布告し、ドイツが勝利した。日本からは大山巌、品川弥二郎、林有造らが視察のために派遣された(通訳は中浜万次郎)。ドイツ軍によるパリ包囲を実体験した日本人の記録に、渡正元『巴里籠城日誌』(東亜堂書房)がある。 https://t.co/Dt85ilwXyV
歴史家の中村勝麻呂(旧彦根藩の学者・中村不能斎の子)は、井伊直弼の銅像除幕式を記念して『井伊大老と開港』(啓成社、1909年)を著した。三谷博「明治維新の史学史」(『ヨーロッパ研究』9)は中村の著作を北原雅長『七年史』や山川浩『京都守護職始末』と同文脈で紹介。 https://t.co/lXGxdlBkxq
明治36年4月20日、荘村省三(荘村助右衛門)が死去。肥後熊本藩出身で、横井小楠の弟子。坂本龍馬と交流があった。明治期には政府の密偵を務めた。中島一仁「日本における聖公会初の受洗者・荘村助右衛門」(『立教学院史研究』16、2019年)は、幕末のキリスト教入信を分析。 https://t.co/hK6ac31yUs
町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』13、2021年)曰く、薩摩藩は抗幕姿勢を貫くためにパートナーとしての英国との関係を重視していて、一旦ぎくしゃくした両者の関係を改善するためにも、英国公使パークスの鹿児島訪問を推進した。 https://t.co/wLdjTW1HSq
明治17年4月12日、関口開が死去。幕末の加賀藩出身で、洋書を翻訳改訂して出版した『新撰数学』は、22万部のベストセラー。板垣英治「加賀藩の藩校・明倫堂と経武館の歴史と明治以後の高等教育の発展」(『北陸医史』40)は、石川県中学師範学校の特に注目される教官と指摘。 https://t.co/3sz4YrtrnP
大正7年4月8日、重田定一が死去。『岡田寒泉伝』(有成館)、『厳島誌』(金港堂)、『頼杏坪先生伝』(積善館)などの著者で、菅真城「重田定一と広島高等師範学校」(『広島大学史紀要』3)曰く、南北朝正閏問題が起きた後に「南朝正統の国定教科書を編修した人物」。 https://t.co/MKqYM5HfTo
明治39年4月8日、長岡護美(長岡雲海、長岡良之助)が死去。肥後熊本藩主・細川斉護の子で、熊本藩を代表する人物。明治期、オランダ公使などを歴任。呉永台「幕末期肥後藩の中央政治参加への試み」(『年報地域文化研究』18)は、文久2年までの長岡を幕末政治史の中で分析。 https://t.co/0c8kMnH8KD
慶応4年3月15日(1868年4月7日)、幕臣・川路聖謨が死去。ロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、勘定奉行などを歴任した幕臣。戊辰戦争の中、短銃で自殺。濱野靖一郎「漢学的政治学の実践」(『年報政治学』69-1)は、川路を「幕末期の侍官僚を代表する能吏」と評価。 https://t.co/nngY1WwrS8
大正11年4月7日、漢学者・東洋史研究者の林泰輔が死去。渋沢栄一の依頼で『論語年譜』(大倉書店)を編纂。『朝鮮通史』(富山房)などの単著がある。権純哲「林泰輔の「朝鮮史」研究」(『埼玉大学紀要 教養学部』44-2)曰く、「東京大学の東洋史学の揺籃期」に深く関与。 https://t.co/b3bZv5uHIf
平成8年(1996年)4月5日、歴史家の田中秀和が死去。遺稿集『幕末維新期における宗教と地域社会』(清文堂、1997年)があり、小林文雄氏の書評(『弘前大学國史研究』104)が下記にある。ほかの書評に、朴沢直秀氏(『歴史学研究』720)や沢博勝氏(『日本歴史』602)など。 https://t.co/nmwJyr7Fcn
平成6年(1994年)4月4日、歴史家の佐藤誠朗が死去。下記リンクで、著書『近江商人幕末・維新見聞録』(三省堂)について高部淑子氏の書評(『史学雑誌』100-3)を読める。ほかの著書に、『幕末維新の民衆世界』(岩波新書)、『近代天皇制形成期の研究』(三一書房)など。 https://t.co/ip1YlhVJrk
天保5年2月20日(1834年3月29日)、曾占春(曾槃)が死去。本草医学の権威で、薩摩藩主・島津重豪の命で国学者・白尾国柱と協力して編纂した『成形図説』は、「農業百科事典ともいうべき書物」(丹羽謙治「『成形図説』版本考」『鹿児島大学人文学科論集』65、2007年)。 https://t.co/G5EoU84pfV
昭和13年3月26日、経済学者の天野為之が死去。東京専門学校(早稲田大の前身)創設に関与し、高田早苗・市島謙吉・坪内逍遥と共に「早稲田四尊」と呼ばれる。東洋経済新報の主幹。幕末の江戸で唐津小笠原家の屋敷に生まれた(池尾愛子「天野為之と唐津」『早稲田商学』461)。 https://t.co/hDGaiSD9N5
松浦玲「日本における儒教活用の一局面」(『総合研究所報』14-1、1988年)は、当時の日本では珍しく勝海舟が日清戦争に反対したのは、「日本化」された「武断儒教主義」ではなく、幕末期に横井小楠から「普遍的な儒教」の思想を受け継いだからと指摘し、その意義を分析。 https://t.co/L0x1pOPwbc
平成5年(1993年)3月19日、歴史家の吉田常吉が死去。著書に『安政の大獄』(吉川弘文館)や『井伊直弼』(吉川弘文館)などがある。死後に刊行された『幕末乱世の群像』(吉川弘文館)は既発表の論考の再録で、小泉雅弘氏の書評(『駒沢史学』49)をネット上で読める。 https://t.co/lVaSxQmADH
明治6年3月14日、日本人と外国人の結婚について定めた内外人婚姻規則が、太政官布告第103号として公布された。小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)曰く、国際結婚の問題は、条約改正の議論の中で論点となった内地雑居の問題にも、少なからず関係した。 https://t.co/CDYGvqoHMV
明治44年3月13日、栗原亮一が死去。政党政治家で、明治15年には板垣退助の外遊に同行した。田中由貴乃「板垣洋行問題と新聞論争」(『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』40)曰く、「中村敬宇に啓蒙思想や英学を学び、愛国社再興から自由党結成に関与した板垣の腹心」。 https://t.co/VIbW5W4k0S
明治38年3月12日、針尾九左衛門が死去。幕末の肥前大村藩出身で、渡辺清・渡辺昇の兄弟や楠本正隆らと共に「三十七士」と呼ばれる。長野暹「明治初期の大村藩の藩制改革」(『熊本学園大学経済論集』22-3・4)曰く、「大村藩の尊攘派であり、文久4年(1864)には家老職」。 https://t.co/xWVhTbWSs2
明治23年3月9日、尾崎忠征(尾崎八右衛門)が死去。幕末の尾張藩出身で、徳川慶勝に重用された。佐野静代「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割」(『人文学』205)は、尾崎が近衛忠煕と緊密に連携し、「尾張藩と朝廷をつなぐ役割」を果たしたことなどに言及。 https://t.co/pAJttOBudV
慶応2年1月21日(1866年3月7日)は、町田明広「慶応期政局における薩摩藩の動向」(『神田外語大学日本研究所紀要』9)曰く、18日に小松帯刀・木戸孝允らの会談で概要が決まった薩長同盟の内容を、坂本龍馬(長州藩から薩摩藩士と認識されていた)を証人として確認した日。 https://t.co/Vz75SjD6eh
原科颯「明治皇室典範の制定と元老院議官」(『史学雑誌』129-4)曰く、明治22年の皇室典範の制定課程で、「近世朝廷関係者」かつ三条実美を「人脈的結節点」とする柳原前光や尾崎三良ら元老院議官が、伊藤博文や井上毅との議論を経て「看過しえない貢献をなした」。 https://t.co/YrwxkYBXbI
大正3年2月28日、漢学者の岡鹿門(岡千仭)が死去。幕末の仙台藩出身で、昌平黌で知り合った友人・松本奎堂(後に天誅組の総裁)と共に塾を開いた。閻秋君「明治初期の日本における米国史の受容について」(『中国文化 研究と教育』77)は、岡が翻訳した『米利堅志』を分析。 https://t.co/XNLsI2glMW
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去。何者かに暗殺されたが、真犯人は不明。当時、明治政府の参議を務めていた長州藩出身者は、広沢と木戸孝允だけだった。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、事件捜査に関する通説を再検証。 https://t.co/XCToPjhXws
大正6年2月24日、伊藤謙吉(伊藤三弥)が死去。幕末の刈谷藩出身で、同郷の松本奎堂と共に天誅組に参加した。明治期には政治家・実業家。村瀬典章「伊藤三弥(謙吉)に関する一考察」(『愛知大学綜合郷土研究所紀要』66、2021年)は、岩倉具視との接触の経緯などを分析。 https://t.co/1QN99OoSRi
松尾晋一「近世日本の境界と日本人-抜荷の首魁・金右衛門の知る大陸情報を素材にして-」(『東アジア評論』8、2016年)曰く、鎖国下の長崎から海外密航を試みる日本人は恒常的に存在した。長崎奉行もそのことを知っていて、オランダ密航を企図した者を無処罰にした事例も。 https://t.co/H1oY5PhUcm
波田永実「別格官幣社再考」(『流経法學』20-2、2021年)曰く、明治維新に際して、「「御一新」 を実感させ将軍や大名に勝る天皇の絶対的な尊貴性とその意思を「国民」に分かりやすく「可視化」する」手段の1つが、湊川神社など「別格官幣社の創建と列格であった」。 https://t.co/9LmSF3xjdt
大正2年2月17日、坂崎紫瀾(坂崎斌)が死去。坂本龍馬を主役に据えた小説『汗血千里の駒』の作者で、瑞山会の『維新土佐勤王史』の執筆も担当した。知野文哉「坂崎紫瀾と土佐明治維新史の形成」(『鷹陵史学』46)は、土佐の維新史を語る上での坂崎の重要性について考察。 https://t.co/llVIzrnJpP
明治29年2月14日、林正十郎(林欽次)が死去。幕末期に幕府の蕃書調所や開成所に出仕。フランス軍事顧問団が来日した際には、通訳として横浜に派遣された。大久保英哲「近代日本体育史における林正十郎「木馬之書」(推定1867年)の意義」(『体育学研究』38-3)などを参照。 https://t.co/gHENzRZRNx
文久2年12月22日(1863年2月10日)、国学者・塙忠宝(塙次郎)が死去。塙保己一の長男で、『続群書類従』などを編纂した。久田信行「盲唖学校の成立と山尾庸三(補遺)」(『群馬大学教育実践研究』31)は、伊藤博文と山尾庸三が塙を暗殺したことは「ほぼ確実」とする。 https://t.co/WwIBcyl1u9
1870年2月9日、ベッテルハイムが死去。英国出身の宣教師(牧師の資格はなく、本職は医師)で、琉球に10年近く滞在。米国のペリー艦隊の船で琉球を去った。渡邊公夫「宣教医ベッテルハイムの琉球王国宣教とそのイギリス帝国宣教史上の意義」(『沖縄文化研究』46)など参照。 https://t.co/QGeZBHCLfN
清水光明「昌平黌儒者・古賀侗庵の意見書」(『明星大学研究紀要 人文学部 日本文化学科』28、2020年)は、従来の研究で知られていない古賀侗庵の意見書には「天保改革期の政治史・思想史・文学史に関する重要な内容」が含まれ、幕末の尊王思想の出版・流通に影響したとする。 https://t.co/EhhpgFCIZ2
大正9年2月4日、尾高次郎が死去。富岡製糸場の初代場長・尾高惇忠の子で、渋沢栄一の娘婿。東洋生命社長や武州銀行(現・埼玉りそな銀行)初代頭取などを歴任。秋谷紀男「埼玉県銀行合同史料(1)-武州銀行の創設過程-」(『明治大学大学院紀要 政治経済学篇』24)など参照。 https://t.co/IDRxmnzYai
明治29年2月2日、川田甕江が死去。幕末期に板倉勝静(幕府の老中を務めた)に仕えた漢学者で、明治期に修史局などに出仕し、東京大学教授にも就任。古賀勝次郎「安井息軒の門生たち(2)」(『早稲田社会科学総合研究』10-3)は、近代史学の形成に功績のあった1人として分析。 https://t.co/7aqj1e3WFb
昭和7年1月31日、穂積歌子が死去。渋沢栄一の長女で、法学者の穂積陳重と結婚。穂積重行編『穂積歌子日記』(みすず書房)がある。同書に関する書評(『史学雑誌』101-4)の中で佐々木隆氏は、歌子が政治に対する豊富な知識と理解力を有していたであろうことを指摘。 https://t.co/1eR6Jeor6h
明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に加盟(大隈重信、江藤新平らも一緒)。大隈と共に原市之進への大政奉還提案を試みたことがある。後藤新「台湾出兵の一考察」(『武蔵野法学』12)は、外務卿時代の副島の動向を分析。 https://t.co/6i9x1aTzGL
明治6年1月29日、小幡甚三郎が死去。幕末の中津藩出身で、明治4年に旧中津藩主の奥平昌邁が米国留学するにあたって、その随行者として福沢諭吉に推挙された。だが、米国留学中に26歳で客死。文献に、西澤直子「小幡甚三郎のアメリカ留学」(『近代日本研究』14)など。 https://t.co/NvcIK7Vfrn
昭和6年1月28日、今泉雄作が死去。幕末の江戸で町奉行所の同心の子として生まれた。明治期に岡倉天心らと共に東京美術学校(東京芸術大学の前身)創立に尽力。吉田千鶴子「今泉雄作伝」(『五浦論叢』6)曰く、「わが国の近代美術発展史上見落とすことのできない存在」。 https://t.co/HZphr3Rs4x
酒入陽子「戊辰戦争における彦根藩戦死者顕彰碑考」(『滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要』54、2021年)は、東京都世田谷区の豪徳寺(彦根井伊家の菩提寺で、井伊直弼の墓もある)にある、戊辰戦争で大鳥圭介ら旧幕府軍と戦って死んだ彦根藩士たちの首塚碑などを紹介する。 https://t.co/PclBzNrJyc
明治34年1月20日、伊藤圭介が死去。1803年〜1901年まで生きた日本初の理学博士。遠藤正治ほか「神田外語大学附属図書館所蔵シーボルト編/伊藤圭介・賀来佐之録「日本植物目録」について」(『神田外語大学日本研究所紀要』8)は、植物学を学んだシーボルト関連の史料を紹介。 https://t.co/ewXW3JBGFf
1937年1月15日、ジョルジュ・ブスケが死去。明治初期のお雇い外国人で、司法省で働いた。山中仁吉「明治初期民法会議における夫婦と相続-司法卿期江藤新平を中心に-」(『北大法政ジャーナル』26)が、名前が紛らわしいジュ・ブスケ(軍人、外交官)と共に分析している。 https://t.co/8EpepTRx9m
昭和8年1月14日、高木貞作(高木剛次郎)が死去。幕末の桑名藩出身で、戊辰戦争で恭順論を唱えた家老・吉村権左衛門を暗殺。箱館戦争では新選組に加入した。その後、渡米を経て、商法講習所(一橋大学の前身)創立に関わり、簿記の講義を担当した。『銀行簿記教授本』を編纂。https://t.co/4R3RxZINJy

16 0 0 0 OA 維新日乗纂輯

明治24年1月12日、妻木頼矩(妻木多宮、妻木田宮、妻木棲碧)が死去。幕末の幕臣で、鳥羽・伏見の戦いの後、大坂城を新政府に引き渡す役目を担った。大塚武松編『維新日乗纂輯』第3巻(日本史籍協会)に、「妻木頼矩手記 戊辰正月大坂城引渡始末」が収録されている。 https://t.co/4HgLjditE1

3 0 0 0 OA 書評

家近良樹氏による、良樹『近世京都・大坂の幕府支配機構』(清文堂出版)の書評PDF。『社会経済史学』82-3。 https://t.co/46Q4laQrix
昭和16年1月3日、鍋島栄子が死去。幕末の佐賀藩主だった鍋島直大の妻。イタリア公使を務めた直大とローマで結婚。鹿鳴館の華と謳われた。POZZI CARLO EDOARDO「駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882)」(『イタリア学会誌』70)参照。 https://t.co/DUZBINbQEN
大正12年12月30日、神田乃武が死去。東京外国語学校 (東京外国語大学の前身)初代校長で、英語教育の発展に貢献。ワシントン軍縮会議で、全権・徳川家達の顧問。民間外交のため渡米する渋沢栄一に随行したこともある。小田三千子「『太陽』英文欄」(『日本研究』17)参照。 https://t.co/9KMsjEZomv
文化4年12月1日(1807年12月29日)、儒学者の柴野栗山が死去。尾藤二洲・古賀精里と共に「寛政三博士」と呼ばれる。伊能秀明・勝見知世「明治大学図書館蔵・長久保赤水「新刻日本輿地路程全図」の柴野栗山序文について」(『図書の譜』25、2021年)は、栗山の文章を紹介。 https://t.co/cjUeKH5YyK
明治42年12月28日、津田静一が死去。幕末の熊本藩出身で、明治初期に米国留学。留学先での演説「日本の政体」は、現地の新聞で紹介された。佐々友房らと共に紫溟(しめい)会を結成。津田の留学に関しては、高木不二「黎明期の日本人米国留学生」(『近代日本研究』34)がある。 https://t.co/1hgf8UVnf7
1888年12月23日、ローレンス・オリファントが死去。幕末期に2度来日し、1度目は日英修好通商条約の交渉に参加。2度目には、第1次東禅寺事件で水戸浪士に襲撃された。北政巳「幕末日本と英国・スコットランド交流史」(『創価経済論集』42-1・2・3・4)が、その生涯を紹介。 https://t.co/LJYspbzcMZ
明治20年12月19日、吉原重俊が死去。幕末の薩摩藩が派遣した第2次海外留学生。イエール大学に初めて入った日本人で、後に日本銀行の初代総裁。吉原重和「新島襄と吉原重俊(大原令之助)の交流」(『新島研究』104)は、米国留学中の吉原と同じく米国にいた新島襄の交流を紹介。 https://t.co/DJc5vAb6b6
坂本弘毅「安政期の老中家臣による蝦夷地調査の背景」(『駿台史学』171、2021年)は、安政2年〜3年にかけて幕府による蝦夷地直轄の決定→松前藩の引き渡し完了後、老中の堀田正睦が家臣たち(佐倉藩士)を蝦夷地に派遣したことの意義を分析。その後の幕政への影響にも言及。 https://t.co/V3HI2RVrFr
明治7年12月16日、蘭学者の佐々木元俊が死去。幕末の弘前藩出身で、何度か幕府から蕃書調所への出仕を打診された。福井敏隆「幕末期弘前藩における種痘の受容と医学館の創立」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、江戸で神田孝平や柳河春三らと交流があった。 https://t.co/sHinbh23Ej
明治5年11月16日(1872年12月16日)、岩倉使節団がパリに到着。福井憲彦「岩倉使節団の見たパリ」(『学習院史学』34)は、使節の一員だった久米邦武の『米欧回覧実記』にパリがどのように描かれているか、また当時のパリがどんな状態だったのか概要を紹介した講演録。 https://t.co/1ng2fC5AfY
明治25年12月14日、黒田麹廬が死去。幕末の膳所藩出身で、『ロビンソン・クルーソー』を初めて邦訳した。堀井健司「幕末維新期における版権についての一考察」(『出版研究』40)は、福沢諭吉の『西洋事情』を黒田が勝手に改訂したという『増補和解 西洋事情』を分析。 https://t.co/cwBDjPLQZe
大正13年12月10日、谷森真男が死去。香川県知事などを歴任した官僚。父親は国学者の谷森善臣。高重久美「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介」(『文学史研究』57)曰く、芥川龍之介が歴史学者・谷森饒男の父を、誤って谷森真男と書簡に書いている。実際は、真男の甥が饒男らしい。 https://t.co/jM1h2fleki
大正9年12月9日、岡谷繁実が死去。幕末の館林藩士で、幕府による長州征伐の回避に向けて活動した時期がある。著書『名将言行録』は、井上泰至「近世軍書の研究に対するアメリカ日本研究の有効性」(『国際日本文学研究集会会議録』29)曰く、「近世軍書の集大成的作品」。 https://t.co/TqUB10gYG8
安政6年11月14日(1859年12月7日)、浮田一蕙が死去。ペリー来航の際に「神風夷艦を覆するの図」を描いた絵師。安政の大獄で投獄された。中谷伸生「浮田一蕙「長篠合戦図」」(『関西大学博物館紀要』9、2003年)は、従来の研究では「勤皇」の面が強調され過ぎると言う。 https://t.co/LhDT6yc8AG
昭和21年(1946年)12月5日、歴史家の大塚武松が死去。遺稿集『幕末外交史の研究』(宝文館)がある。時野谷勝が同書の書評(『史林』35-4)で「殆ど全生涯を地味な史料編纂事業に打込み」云々と評したように、日本史籍協会の『渋沢栄一滞仏日記』など多くの史料集を編纂。 https://t.co/XB4ZNnAI0h
明治13年12月4日、鮫島尚信が死去。幕末の薩摩藩英国留学生の1人で、外交官として活躍。下記リンクでPDFを閲覧できる御幡真人「洋書を追いかけて(後編)サムライ・帝国図書館・神秘主義」(『国立国会図書館月報』727、2021年)は、図書館のため寄贈された鮫島の蔵書を紹介。https://t.co/bX9Yjdcjs3
明治35年12月3日、根岸武香が死去。吉見百穴の調査・保存に尽力。父は幕末の浪士組参加者で、近藤勇や土方歳三らと共に京都に残留した豪農・根岸友山。下記リンクで、大沼宜規「ある好古家のコレクション 根岸武香と冑山文庫」(『国立国会図書館月報』620)をPDFで閲覧可能。 https://t.co/g6nkXluJzQ
明治31年11月30日、田中千弥が死去。ペリー来航3年前(嘉永3年)〜明治31年まで、約50年間の日記を書き残した。特に、秩父事件を詳細に記録した史料として知られる。青木亮人「「祖翁」を称えよ、教導職」(『同志社国文学』71)は、その日記から「明治俳諧の一側面を考察」。 https://t.co/c7prN9iFiA
明治22年11月29日、井田譲が死去。幕末の大垣藩出身で、西南戦争の際に陸軍卿代理を務めた。各国公使を歴任し、笠原英彦「明治帝室制度の形成と伊藤博文・シュタインの「邂逅」」(『法学研究』92-11、)曰く、伊藤博文の憲法調査においてシュタインとの邂逅をお膳立てした。 https://t.co/viO9zW7VOf
明治11年11月29日、柏木忠俊が死去。幕末期は江川英龍に仕え、新政府が江川英武(英龍の息子)を韮山県知事に任じた際には、「実際に県治を遂行した」のは韮山県大参事の柏木だった(樋口雄彦「韮山県から慶應義塾への派遣学生」『近代日本研究』34、2017年)。後に足柄県令。 https://t.co/7trm2zex3O
藤實久美子「安政6・万延元年の町奉行所外国掛下役の諸記録」(『国文学研究資料館紀要 アーカイブズ研究篇』52-17)は、幕末の品川宿周辺で「外国人の生活は、町奉行所の下に置かれた外国掛(与力)・同下役(同心)によってどのように監督されたのか」という問題などを分析。 https://t.co/E4YtjFYJfV
元治元年10月17日(1864年11月16日)、真田範之助が死去。北辰一刀流の剣客で、渋沢栄一と交流があった。天狗党に参加して戦死。『武術英名録』の編者。死去日は前村晃「豊田芙雄と草創期の幼稚園教育に関する研究(8)」(『佐賀大学文化教育学部研究論文集』15-2)に依拠。 https://t.co/k7fKxYhrau
明治16年11月15日、岸良兼養が死去。幕末の薩摩藩出身で、矢野祐子「ボアソナードと、その法思想」(『早稲田法学会誌』47)曰く、明治5年に司法制度視察のため欧州に派遣されたエリートの1人(ほかは井上毅など)。帰国後、佐賀の乱や西南戦争の裁判で検察を指揮した。 https://t.co/n6o8xvsjcb
宮澤歩美「維新期江戸における譜代藩の「大勢挽回」運動」(『國學院大學大学院紀要 文学研究科』52、2021年)は、大政奉還後の譜代諸藩の江戸における上洛命令拒否・徳川慶喜助命嘆願運動を、先行研究(鈴木壽子『幕末譜代藩の政治動向』同成社など)とは異なる視点で分析。 https://t.co/rPvepmHFXv
明治3年10月17日(1870年11月10日)、蘭学者の広瀬元恭が死去。幕末の京都で開いた私塾・時習堂の門人に、陸奥宗光・佐野常民・田中久成(からくり儀右衛門)・井沢宜庵(天誅組に参加)などがいた。佐々木雄一「陸奥宗光の思想形成」(『法学会雑誌』59-1、2018年)参照。 https://t.co/vaMAeraSgu
大正11年11月10日、中島永元が死去。肥前佐賀藩出身で、幕末期には大隈重信らと共に長崎に遊学し、フルベッキに学んだ。松谷昇蔵「内閣制度導入前後における文部官僚」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』66、2021年)は、学校経営の前歴を持つ文部官僚として中島を分析。 https://t.co/jY8PR4Z02z
平野隆「明治前期東京における財界の形成とその性格」(『近代日本研究』6)曰く、東京商法会議所は明治10年、渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三野村利助・大倉喜八郎・渋沢喜作・竹中邦香・米倉一平により、東京府知事・楠本正隆に願書が提出され、翌年に認可。 #青天を衝け https://t.co/00rFIwzrLB
昭和56年(1981年)11月3日、経済史研究者の堀江英一が死去。主な著書の1つに『明治維新の社会構造』(有斐閣、1954年)があり、『堀江英一著作集』全4巻(青木書店)の第1巻に所収。朝尾直弘氏の書評(『史林』38-2)があり、『朝尾直弘著作集』第2巻(岩波書店)に再録。 https://t.co/aqvDT7NkrQ
安政6年10月7日(1859年11月1日)、頼三樹三郎が死去。梅田雲浜らと交流し、安政の大獄で処刑された。遺体は大橋訥庵が埋葬。任萌萌「頼三樹三郎が頼山陽を偲ぶ詩」(『比較日本文化学研究』14、2021年)は、文人としての面に着目し、父・頼山陽を手本としたことなどを分析。 https://t.co/I4WG2QhC4o
明治31年10月29日、小野友五郎が死去。万延元年、太平洋を横断した咸臨丸に乗船。文久期の小笠原諸島の調査に咸臨丸の艦長として参加。平山洋「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」(『国際関係・比較文化研究』8-2)は、慶応3年の福沢との対立にまつわる疑惑の研究。 https://t.co/TirYg23gSe
重田麻紀「毛利家家臣による知行地支配の基礎的考察」(『駿台史学』171、2021年)は、元治甲子戦争(禁門の変)の責任者として切腹した幕末期の当主・益田親施(益田右衛門介)が有名な、長州藩の永代家老・益田家について、家臣団や知行地をめぐる基礎的事項を分析。 https://t.co/YNYZJxD74Y
笠谷和比古「幕末の「不平等条約」問題に関する一考察」(『大阪学院大学法学研究』47-1・2、2021年)によれば、「日米修好通商条約をはじめとする一連の国際条約は、その締結当初は決して不平等条約ではなかった。それが明治の時代に移行するなかで不平等条約化」した。 https://t.co/Q4um91vNEU
明治10年10月22日、佐野鼎が死去。万延元年の遣米使節団と文久の遣欧使節団に参加した砲術家。共立学校(開成学園の前身)の創設者でもあり、今井一良「佐野鼎の英学とTommy・立石斧次郎のこと」(『英学史研究』15)曰く、「英学史上にその名を逸することのできない」人物。 https://t.co/mIYzKy0R2z

13 0 0 0 OA 漂民御覧之記

寛政5年9月18日(1793年10月22日)、漂流した末にロシアで数年を過ごして帰国した大黒屋光太夫が、将軍・徳川家斉や松平定信に謁見。光太夫は、ロシアで知られている日本人として、桂川甫周(その場にいた)と中川淳庵の名前を挙げた。桂川甫周『漂民御覧之記』より。 https://t.co/FzclTjTDlL
大正5年10月16日、宮本小一が死去。幕末期に神奈川奉行所で働いた旧幕臣で、明治期に外交官として江華島事件の処理や日朝修好条規などに関与した。諸洪一「明治初期の朝鮮政策と江華島条約」(『札幌学院大学人文学会紀要』81、2007年)は、従来の研究における評価を再検討。 https://t.co/xKHhYRCVdg
明治4年9月3日(1871年10月16日)、フランス人宣教師のムニクーが死去。ムニクウ、ムニクとも表記される。幕末維新期の箱館、横浜、神戸などで活動。Le ROUX Brendan「幕末期に来日した二人の仏人宣教師の日本語ローマ字表記について」(『学校教育学研究論集』21)が言及。 https://t.co/Q2Lwjix74T
慶応元年8月26日(1865年10月15日)、薩摩藩の新納久脩と五代友厚らがブリュッセルで、フランス貴族モンブランを相手にベルギー商社計画と呼ばれる契約を調印(ベルギー政府の証人が立ち会い)。宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(『社会志林』47-2)など参照。 https://t.co/WoNCjRFMVx
文久3年9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍軍人カミュが、横浜で殺害された(井土ヶ谷事件)。沢護「井土ヶ谷事件と遺仏使節池田筑後守」(『千葉敬愛経済大学研究論集』29)曰く、事件はフランスに対して、横浜居留地防衛のための軍隊を常時駐屯させる口実を与えた。 https://t.co/c1B7vDDuHO
文久2年閏8月20日(1862年10月13日)、本間精一郎が死去。安政期に、幕臣の川路聖謨に仕えたことがある。笹部昌利「「人斬り」と幕末政治」(『鷹陵史学』31)曰く、「越後出身の浪人で、義挙を企て、土佐の吉村寅太郎とも親交」があった。岡田以蔵らに暗殺されたと言われる。 https://t.co/irwGXHBXPI
明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、聖謨が自殺した後、川路家当主になる孫の川路太郎が海外留学から戻るまで、家を守らなければならなかった。井上勲「史料紹介 川路高子『上総日記』解題」(『学習院大学史料館紀要』13、2005年)参照。 https://t.co/iH4qcbN7sQ
若宮由美「1867年パリ万博後のウィーンにおける日本ドラゴン一座」(『埼玉学園大学紀要 人間学部篇』18、2018年)は、幕末期に西洋諸国で公演を行った日本人の芸人一座(そのうちの一部はパリで徳川昭武も観た)のうち、初めてウィーン公演を行ったと思われる一座を分析。 https://t.co/smjkH0tZt2
昭和19年10月7日、中川小十郎が死去。西園寺公望の秘書を長く務めた人物で、立命館の初代総長。親族が、戊辰戦争で山陰道鎮撫総督の西園寺に仕えた縁もある。最新の研究に、長谷川澄夫「中川小十郎編の未刊維新史稿本について」(『立命館史資料センター紀要』4、2021年)。 https://t.co/ijSz520JkV
上符達紀ほか「史料紹介 相馬永胤日記」(『専修大学史紀要』8、2016年)は、専修大学創立者の1人である相馬永胤(幕末の彦根藩出身)の日記のうち、明治33年〜34年の部分を紹介。日記には、松方正義、井上馨、大隈重信、渋沢栄一、西園寺公望などの有名人が登場する。 https://t.co/IQKJkVlimB
論文へのリンクを貼り忘れていた。下田悠真「西郷隆盛の維新理念と明治六年政変-「御一新の基」を手掛かりとして-」(『人文×社会』1-2、2021年)。 https://t.co/NGWipXJfYT
伊故海貴則「明治維新期地域社会における「多数決」導入」(『立命館大学人文科学研究所紀要』124、2020年)は、静岡県駿河国地域では、地租改正によって「総員の納得できる合意は事実上、不可能」と認識され、「合意形成の一手段として「多数決」が選択された」と言う。 https://t.co/rI0Xr5OiJE
大正5年9月20日、志賀親朋が死去。日本初のロシア語通訳で、明治天皇の通訳も担当。幕末〜明治初期にロシアを訪問し、日露国境画定交渉にも関与。沢田和彦・畠山雄三郎「志賀親朋書翰集翻刻(1)」(『埼玉大学紀要 教養学部』56-2、2021年)は、文久元年の書簡11通を紹介。 https://t.co/svuQYeROYi
明治17年9月15日、安達清風が死去。幕末の鳥取藩出身で、磯田道史「幕末維新期の藩校教育と人材登用」(『史学』71-2・3)によれば、「藩内きっての俊英」であり、藤田東湖の影響を受けて能力主義による人材登用の必要性を主張した。徳川慶喜の側近・原市之進とも交流。 https://t.co/peOSHPCOtg
明治35年9月8日、長与専斎が死去。幕末期に大坂の適塾で塾頭を務めた医師。小島和貴「近代日本「健康保護」事業のための仕組みづくり」(『桃山法学』29、2018年)曰く、文部省医務局長として制定を実現させた「医制」は、政府が「衛生行政権」を掌握する仕組みを用意した。 https://t.co/FQr9jSwY8e
昭和14年9月7日、渡辺蒿蔵(天野清三郎)が死去。吉田松陰の松下村塾門下生の、最後の生き残り。幕末期には奇兵隊にも加入した。海外留学して帰国した後、造船技術者として活躍。牛見真博「近代造船の先駆者・渡辺蒿蔵(下)」(『大島商船高等専門学校紀要』51)が詳しい。 https://t.co/TZY3B5mDna
文久2年8月13日(1862年9月6日)、成島司直が死去。成島柳北の祖父で、第12代将軍・徳川家慶に信任された儒学者。『徳川実紀』を編纂した。藤實久美子「徳川実紀の編纂について」(『史料館研究紀要』32)曰く、実紀の編纂に成島を推薦したのは、岩瀬忠震の祖父である林述斎。 https://t.co/SLwszYvhvH
明治27年9月2日、柳原前光が死去。幕末の公家で、明治期には主に外交官として活躍。皇室典範の起草にも関与したが、笠原英彦「明治皇室典範の制定過程と柳原前光」(『法学研究』91-12)によれば、皇室典範に「譲位」を規定しようとした柳原案は伊藤博文によって退けられた。 https://t.co/mA2cuga0ot
明治31年8月27日、島田篁村(島田重礼)が死去。幕末期に昌平黌で助教を務めた儒学者で、明治期には東京帝国大学教授などを務めた。古賀勝次郎「安井息軒を継ぐ人々(3)」(『早稲田社会科学総合研究』11-1)曰く、明治以降の儒学の衰退を憂慮し、後進の育成に尽力した。 https://t.co/llHNvlxxoV
安政5年7月16日(1858年8月24日)、島津斉彬が死去。西郷隆盛が慕った薩摩藩主で、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、斉彬は「優秀な蘭学者たちと交流しながら蘭書を翻させ、その知識を吸収する努力を怠らなかった」。 https://t.co/wRrCURrcia
元治元年7月20日(1864年8月21日)、平野国臣や古高俊太郎が死去。元治甲子戦争(禁門の変)の騒擾の中、六角獄で処刑。笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回」(『仏教大学総合研究所紀要』8)は、三条実美が平野の論策に感銘し、影響を受けていた可能性を指摘。 https://t.co/ZE9L8zItRK
明治3年7月19日(1870年8月15日)、小松帯刀が死去。7月18日もしくは20日死去とする説もある。幕末の薩摩藩家老で、島津久光が不在の場では名代を務めた、幕末政局の重要人物。根占献一「小松帯刀と新時代」(『学習院女子大学紀要』21)は、文化人・知識人としての面に着目。 https://t.co/pZG9Cpcbe5
明治38年8月14日、三宮義胤が死去。幕末期に岩倉具視らと交流し、戊辰戦争に新政府軍の一員として参加。明治政府では兵部省、外務省、宮内省などに出仕。明治初期に英国人女性と結婚したため、小山騰「明治前期国際結婚の研究」(『近代日本研究』11)などに言及がある。 https://t.co/CDYGvqFKOV

お気に入り一覧(最新100件)

3 0 0 0 OA 雪国の春

@zasetsushirazu 柳田国男『雪国の春』1928年刊収録「をがさべり(男鹿風景談)」冒頭に出てくる「枢密院の内田伯」を、まず思い浮かべる。https://t.co/rZo7UlA3Cp(国立国会図書館デジタルコレクション)

64 0 0 0 OA 寛政重脩諸家譜

@lalan1858 @zasetsushirazu 岩瀬内記家は忠震が養子に入った岩瀬市兵衛家の本家筋にあたります。 https://t.co/0zvGAMgymU
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)が既にダウンロード可能となっていました(^^)https://t.co/A65OnLMHFg メチャ大部で恐縮ですが、どうかよろしくお願いいたします。

119 0 0 0 OA 官報

年賀状に質問を書いて送るの禁止~(笑) 当アカウントは個別の質問にはお答えしておりません。以下、独り言です。 明治期の外交官及領事官官制(勅令第257号。明治23年10月21日)でしたら、ここに載っていました。https://t.co/u0CfQnjROw (国立国会図書館) https://t.co/BWNV5lfFlK
【資料】CiNiiに、西谷正氏の論文「邪馬台国最新事情」(石油技術協会誌75 2010/07/01)がpdfで公開されています。これまでの論争と最新事情が良くまとまってます https://t.co/k7Aur04jrx
https://t.co/kuvGq1oQ7l 渡辺崋山と田原藩の海防をめぐる一試論(承前) : 崋山の海防観について 「幕末名古屋藩の海防と藩主義勝」や「新潟奉行川村修就の海防体制の確立過程について 」も気になるな。
神田千里「大友宗麟の改宗 : その実態と背景」『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』(40), 71-110, 2014 PDFあり。 https://t.co/7kqzAdnnXr

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