著者
後藤 淳
出版者
東亜大学
雑誌
東亜大学紀要 (ISSN:13488414)
巻号頁・発行日
no.20, pp.1-9, 2014-09

ソフォクレスの悲劇『オイディプース王』は,アリストテレスの『詩学』以来現代に至るまでさまざまな解釈を受けてきた。それは,神という形而上的存在の前での人間の無力への悲嘆を,あるいは逆にその中での積極的で肯定的な人間把握への試みを,あるいは政治と人間の相互関係を読み取ろうとするものなどである。 本稿では,悲劇自体への考量は行わず,オイディプース(Οἰδίπους)という人物が体現した「人間」を,より正確に言うならば,彼の言葉‐ソフォクレスによる創作であるとはいえ‐を介してわれわれに開示された「人間」の原型(パラディグマ)について考える。それは彼の名前が本来の語義である「腫れ上がった足」に加えて,「私は(自分の)足を見た」と解し得ることから,人間が「知る」ということの意味とその妥当性と限界を考察することである。 感覚与件に依拠して先ず認識は成立する。そこに錯誤が介入することは自明の前提ではあるものの,しばしば人間はそれを忘却してしまう。オイディプースのグロテスクな悲劇は,そのことの極端なモデルである。人間の「知」が漸進的に深化するものであるとしても,それが有限「知」でしかありえない以上,「知」への過信は驕慢へと置換され人間の暗部を露呈することになる。オイディプースは自分の足を見ることでスフィンクスの謎を解いた「人間」である。しかし,怒りによる傲慢さによりその存在規定すなわち「禁忌の輪」である限界措置を視界の外にしたとき,大地に立つ確実な足を端緒とした彼の「知」も崩壊したのである。 この悲劇の中にわれわれが読むべき人間の「原型(パラディグマ)」とは,「汝自身を知れ」という格言が説く自己探求による限界認識と,同じく「矩を越えることなかれ」が戒める「知」に驕ることない平静の中で自己を反復探求することであると考えられる。

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