著者
川島 重成
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.169-205, 2015-03-31

「戦さは男の仕事、このイリオスに生を享けた男たちの皆に、とりわけてわたしにそれは任せておけばよい。(6. 492-3)」――これはヘクトルが妻アンドロマケに、「機を織れ」と勧告した直後に発したあまりにも有名なセリフである。機を織るのは女性の典型的な仕事であり、戦さは男性に課せられた固有の役目だというのである。しかし『イリアス』第6 歌の有名な「ヘクトルとアンドロマケの語らい」の場をつぶさに観察するに、二人のありようは男と女の硬直した関係に終始しているとは言い難い。ヘクトルの世界はアンドロマケによって、そして彼女に先立ち、ヘカベとヘレネ(とパリス)によっても、つまり女性的なるものによって次第に影響され、浸潤されてゆくように思われる。 二人の出会いの場は、男の世界と女の世界の境界線たるトロイア城のスカイア門である。アンドロマケは「万一あなたを失うことになったら、墓の下に入る方がずっとましだとわたしは思っています(6. 410-1)」と夫に迫る。他方ヘクトルは常に第一線で戦えと教えられてきたという。ヘクトルの言動を支配している名誉と恥の念の背後には、トロイア陥落の日が近いとの予感があった。この運命感、突きつめて言えば、人間は皆死すべき者である、という生の感覚は、女性にも等しくあった。しかしそれに対処する仕方が、男と女では違っていた。 スカイア門でアンドロマケに相対しているヘクトルは、彼女の存在そのものが発する女性固有の内的力に感応したのか、あるいはそれに先立つヘカベ、パリス、特にヘレネとの出会いと折衝に次第に影響されたということもあってか、彼の男性性を規定する恥と名誉を相対化する視点をすでに獲得し始めていた。彼はトロイア陥落後、妻に襲いかかる悲惨を想像し、次のように言う。「わたしはそなたが敵に曳かれながら泣き叫ぶ声を聞くより前に、死んで盛り土の下に埋められたい。(6. 464-5)」この二行は明らかに、上に言及したアンドロマケのあの死の希求(6. 410-1)を受け、それを引き継いだものである。ヘクトルはここで妻に限りなく近く寄りそい、ついに彼女の言葉(女性の言葉)を用いて、彼女の心の琴線に触れたのである。 しかしこの女性的なるものの価値を知り、その魅力に引きつけられるヘクトルは、それだけ一層、その価値の担い手たちの生存をトロイアの男として守るために、「戦は男の仕事」の理念に立ち戻らざるをえない。ヘクトルはこの矛盾を終始生きてゆかねばならなかった。

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