- 著者
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佐野 真由子
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.48, pp.101-127, 2013-09
本稿は、幕末期に欧米諸国から来日しはじめた外交官らによる、登城および将軍拝謁という儀礼の場面を取り上げ、そのために幕府が準備した様式が、全例を連鎖的に踏襲しながら整備されていく過程を検証する。それを通じて、この時期の徳川幕府における実践的な対外認識の定着過程を把握するとともに、その過程の、幕末外交史における意義を考察することが本稿の目的である。 欧米外交官による江戸城中での外交儀礼は、安政四(一八五七)年十月二十一日におけるアメリカ総領事ハリスの登城・将軍拝謁を初発の事例とするが、その際の様式は、徳川幕府が長い経験を持つ朝鮮通信使迎接儀礼を土台に考案されたのであった。筆者がすでに別稿で詳細を論じたそのハリス迎接を起点として、本稿では、以降数年の動きを追跡する。具体的には、安政五年にオランダ領事館ドンケル=クルティウス、続いてロシア使節プチャーチンを江戸城に迎えるにあたり、幕府内で外交儀礼の定式化をめざして進められた検討の実態、その後、安政六年に再びハリス(アメリカ公使に昇格)が登城した際、日米間に発生した問題と、その解決のため翌万延元(一八六〇)年に実行された同じハリスによる「謁見仕直し」の経緯、さらに、ここまでに検討された式次第が同年、イギリス公使オールコック、フランス代理公使ド=ベルクールの登城・将軍拝謁に準用され、当面の通例として定着に向かう様を、史料から明らかにする。 ここから浮き彫りになるのは、「幕末前期」とも言うべきこの時期の徳川幕府が、従来国交のなかった欧米諸国から次々と外交官が到着する事態に向き合うなかで、その迎接をできるかぎり特別視せず、もとより長きにわたって政権を支えてきた各種殿中儀礼の枠組みの中に取り込み、平常の準備の範囲で彼らに対しうる態勢をつくろうとした努力の過程である。儀礼を窓口に、より広義の解釈を試みるなら、対外関係業務そのものを幕府の一所掌領域として安定させ、持続可能なものにしていこうとする意思が、ここに表れていると言うことができる。