- 著者
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廣田 吉崇
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.45, pp.185-236, 2012-03
明治維新によって日本の伝統的芸能が大きな打撃を受け、茶の湯も衰退を余儀なくされたことはしばしば指摘される。しかし、上層階級を中心とする「貴紳の茶の湯」の世界では、ひとあし早く茶の湯が復興し始めていた。この茶の湯の復興を先導したのは、旧大名、近世からの豪商にくわえて、新たに台頭した維新の功臣、財閥関係者らの、「近代数寄者」とよばれる人々である。 本稿では、『幟仁親王日記』および『東久世通禧日記』をもとに、明治前期の茶の湯をめぐる状況を概観する。この結果、明治十年(一八七七)を過ぎたころから、旧大名、旧公家、維新の功臣らの上層階級を中心に茶の湯が流行しはじめたと考えられる。それを象徴するできごとは、明治十年八月二十一日の脇坂安斐による明治天皇への献茶である。この時期にはじめて茶の湯にふれた東久世通禧は、急速に茶の湯に傾倒し、さかんに技芸を稽古し、茶会を催すようになる。このような茶の湯の交際の広まりが、明治維新以前から茶の湯に親しんでいた有栖川宮幟仁親王を巻き込んでいこうとする現象がみられた。 興味深いことは、明治前期の「貴紳の茶の湯」の世界において、家元は積極的には登場しないことである。おそらく、家元を中心とする「流儀の茶の湯」の衰退が深刻であり、家元の存在基盤が脆弱であったためと考えられる。 家元が広く庶民層に技芸を教え広めることにより苦境を克服するのは、大正期以降のことと考えられる。こうした状況の変化をみて、いったんは茶の世界から離れていた中小の流派の後継者たちは、茶の世界に復帰する。明治期に茶の文化を維持した近代数寄者の一部は、のちに家系中心の家元システムが整備されるなかで、"家元を預かった"人物として位置付けられることになる。