著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.405-419, 2007-05

古代日本における政治・軍事権力の頂点に立つ者に対して、天皇という称号が用いられたが、その称号が用いられる以前は大王であった。大王から天皇へと称号が変わったのは、いつ頃かについては、これまで多くの議論があった。現在においても、その時期については、断案がない。この問題についての、議論は、『日本書紀』推古紀、『隋書』倭国伝、「天寿国繍帳」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」などの解釈をめぐってなされてきた。天皇号が初めて使われた時期について、早稲田大学教授津田左右吉の見解がその後の議論の糸口になった。津田は、法隆寺薬師像光背銘が推古朝に書かれたと見なし、それに「天皇」という文字が刻まれていることと、『日本書紀』推古紀にみる「天皇」と対応させて、天皇号の成立を推古朝とした。それに対して、建築史家の京都大学教授福山敏夫は、法隆寺薬師像の銘文は、推古朝の年号が書かれてはいるが、それは後年に記されたもので、推古朝に天皇号が使われた根拠とすることはできないと論じた。天皇号が初めて使われた年代をめぐる議論は、津田と福山の見解の相違に集約することができる。だが、この議論は、主として、津田の見解を是認する古代研究者によって展開され、福山説にしたがう説は、近年になって発表されるようになった。津田の見解を大筋認める研究者たちについてみると、津田から直接影響をうけた、早稲田大学、東京大学に関わる者で占められ、その傾向は、今日まで及ぶ。時に、定説、通説として語られることさえある。しかし、天皇号が推古朝に初めて使用されたとする確実な論拠がない点からみると、一種の不思議な現象として目に映る。それは、あたかも、邪馬台国論争におけるかたくなな九州説の展開との類似性を指摘することができる。

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