著者
銭 国紅
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.15, pp.29-49, 1996-12

現実的危険に曝されながら世界への旅を敢行しようとした志士吉田松陰の渡海の試みから、幾たびかの「大君の使節」(一八六〇~一八六七)や留学生たちの時代に至ると、世界に連なろうとする志向が日本の激変をもたらし、実際に自分の目で西洋を見、現場に学ぶことを通して、西洋世界の新しい意味、西洋を含めた世界の実像が次々と日本知識人に再発見されていった。アメリカと出会った福沢諭吉は強烈な文化ショックを受けながら、そのなかから一つの新しい文明像を日本人に将来した。それは同時に新しい世界における新しい日本の新しい位置づけの試みでもあった。一方、十九世紀中国の知識人たちも世界像の拡大を経験した。その探索の軌跡は十九世紀中葉に既にアメリカ文明を中国に持ち込もうとする容閎の「少年留学生派遣計画」や、他に先駆けてヨーロッパ等を見回った清末の官僚知識人・張徳彝の新しい西洋文明像に見出すことができる。西洋諸国との外交折衝に取り組んだ清末の官僚知識人たちは、ヨーロッパに赴く船の中で、あるいはパリ・コミューンの最中で、あるいはそこから帰りの船で、思いがけずに新生日本の遣欧使節たちや留学生たちと巡り合って、それを契機に近代中国の「日本再発見」を始めたのも興味深い一幕であった。こうして本論文は近世日本における世界像の形成を中国を始めとするアジアとの連動において捉え、近代世界を迎えようとする日本知識人における「世界意識」の芽生えとその成長ぶりを分析した。特に、十八世紀初頭から十九世紀後半に至る日本と中国の知識人たちが、勇気を振るい、戸惑いを抱きながら、相前後して近代社会に入るためにそれぞれ独自の世界像を持つにいたった歴史とその意味を考察した。

言及状況

外部データベース (DOI)

Twitter (8 users, 8 posts, 11 favorites)

明治41年2月16日、建野郷三が死去。幕末の小倉藩士で、第2次長州征伐で小倉城が落城した際、赤心隊を結成した。明治期に大阪府知事、米国公使などを歴任。銭国紅「洋上の対話」(『日本研究』15)は、明治3年に英国留学した建野と、清国人・張徳彝との船中での対話を紹介。 https://t.co/HF64LWbedA

収集済み URL リスト