- 著者
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上垣外 憲一
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- no.11, pp.p41-57, 1994-09
明治日本の朝鮮との関係を論ずる場合、明治初年の征韓論はともかく明治九年の江華島条約を日本の朝鮮への侵略の第一歩として叙述する場合が多い。しかし、実際にその当時の新聞論調を読むと、むしろこの朝鮮との条約の締結を、ペリー来航時の状況に譬えて考えているものが多いことがわかる。 従って、朝鮮の頑固な排外的態度も、これを日本蔑視として糾弾する意見と同時に、かつての日本もまた同様であったではないかとして、寛容な態度でこれに臨むべきとする論調もまた少なくないのである。特に明治十五年の壬午軍乱では、多くの出版物が多種多様な論調を張った。この当時の論説では相反する意見を併記することがよく行われたが、これは対話体で、アジアに対する積極進出論者と穏健な同盟論者の意見の双方を平等に描き出した手法に対して先駆的な位置にあるものというべきである。 しかし、明治十八年の甲申政変に際しては、厳しい言論統制が行われ、日本側が、積極的にクーデターの後押しをしたという事実は全く国民には知らされなかった。以後、朝鮮に対しての情報が制限された中で、日本人の朝鮮への意見が自由に集約されるということは、国会開設という事態があったにもかかわらず、起こりえなかった。 日清戦争に際しては、戦争に熱中して日本勝利に酔い、朝鮮に対しては後進国という蔑視が目だつなかで、改革勢力としての東学党に対する評価は、自由党がわのみならず、政治的立場としては国家主義的なアジア進出を目指す東邦協会の論調においても、真摯な改革団体としての東学党を高く評価するものがある。 その東学党が日本軍、政府軍によって壊滅させられ、さらに国王のロシア公使館への避難によって、親露政権が誕生すると、これまで朝鮮の改革に深い関心をもって様々な論調を張ってきた福沢諭吉は、一切の同情心を捨てて朝鮮に対せよと説く。三国干渉において日本の憎悪の的となったロシアとの提携は、明治初年から十年代には豊かに見られた朝鮮に対する日本人の同情心に最後の打撃を与えたのである。