著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.7, pp.p89-104, 1992-09

慶長八年二月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を開いた。関ヶ原合戦の勝利によって覇権を確立し、天下人としての地位を不動のものとした家康が、この将軍任官によって徳川幕府という新たな政権を樹立し、豊臣家にかわる徳川家の天下支配を制度的な形で確定したとするのが、これまでの通説的な理解である。 しかし私の関ヶ原合戦に関する研究によるならば、同合戦において家康の下で戦った東軍(家康方)の軍事的構成が、専ら豊臣系諸大名を主力としており、本来の徳川軍の比重がきわめて低かったという事実が明らかとなった。すなわち家康の軍事的勝利は、専ら豊臣系諸大名の多大の貢献によってもたらされていたのであり、それ故に関ヶ原戦後の政治体制においては、豊臣系諸大名の勢力は強大なものとなっており、また大坂城の豊臣秀頼を頂点とする豊臣政権も解体されたのではなくて、潜在的な政治能力を充分に保っていた。 本稿は家康の将軍任官のより立ち入った意義を、このような政治状況との相関の中で検討し、さらにはそれを踏まえて、関ヶ原合戦より大坂の陣に至る近世初頭の政治史的展開、およびこの時期の国制の構造を考察する。

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