- 著者
-
東野 治之
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.114, pp.21-32, 2004-02
大嘗会の際に設けられる標の山は、日本の作り物の起源に関わるものとされ、主として民俗学の分野からその意義が注目されてきた。しかしその歴史や実態については、いまだ未解明の点も多い。本稿では、まず平安初期の標の山が中国風の装飾を凝らした大規模なものであったことを確認した上で、『万葉集』に見られる八世紀半ばの歌群から、新嘗会の標の山が、同様な中国風の作り物であったことを指摘する。大嘗会は本来新嘗会と同一の祭りであり、七世紀末に分離されて独自の意味をもつようになったとされるが、そうした経緯からすれば、この種の作り物が、当初から中国的な色彩の濃いものであったことも容易に推定できる。そのことを傍証するのが、和銅元年(七〇八)の大嘗会の状況であって、それを伝えた『続日本紀』の天平八年(七三六)の記事は、作り物の橘が金銀珠玉の装飾とともに用いられていたことを示している。従って、大嘗会の標の山は、大嘗会の成立に近い時点で中国的な性格を持っていたわけで、その特色はおそらく大嘗会の成立時点にまで遡るであろう。このように見ると、標の山は神の依り代として設けられたもので、本来簡素な和風のものであったが、次第に装飾が増え中国化したとする通説には大きな疑問が生じる。そこで改めて標の山の性格を考えると、その起源は、すでに江戸時代以前から一部で言われてきたように、儀式進行上の必要から設けられた標識にあり、それが独自の発展を遂げたものと解すべきである。なお、大嘗会の標の山について、その形態をうかがわせる史料は限られているが、元慶六年(八八二)の相撲節会に用意された標の山に関しては、菅原道真が作った文から詳細が判明し、大きさや装飾が大嘗会のものと類似していたことがわかる。この文についての従来の読みには不十分な点があるので、改めて訓読を掲げ参考とした。一部非公開情報あり