- 著者
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高橋 敏
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.115, pp.61-82, 2004-02
大原幽学の東総地域における活動の結晶ともいうべきは、性学教団のシンボル、改心楼であった。改心楼をめぐっては幽学弾圧の端緒となった関東取締出役の手先と博徒の乱入事件がここで引き起こされたことでも著名である。関東取締出役が幽学に疑いを持ったきっかけは改心楼の大造な建築であった。幽学はじめ関係者は江戸訴訟のなかで、質素を趣旨とした道友の寄進にもとづく簡素な建築物であると弁明している。改心楼建築に関しては、その普請の過程の中で作成された第一次史料が多数のこされている。嘉永二年(一八四九)四月十五日の「絵図面定幷材木見立」から翌三年正月十九日の「開校」まで道友寄進の「土普請」から大工方、屋根、畳、石工、左官の職人を雇い入れての建物本体の建造、つづいて家具、食器、蒲団、蚊帳等の生活用具の購入までを実証する。また同時に動員された道友の労働力を克明に追求した。道友の寄進行為こそ、大原幽学の性学教団の力量をはかるバロメーターであるからである。江戸訴訟の際、評定所に提出された幽学側の改心楼建築の費用は金九九両余、これを九名の有力な道友が立て替えたと申告している。ところが普請関係の諸帳面を精査したところ、実際は金四四九両余も費しており、申告の四・五倍にのぼる。しかも、幽学は江戸まで出かけ主要な木材を買い付け、ぜいたく品と思しき道具類まで著名な大店から購入している。これだけでも金七二両余に及んでいる。改心楼造営に動員した道友は一八〇日間で四四三二人に達し、二四カ村を包括している。幽学の改心楼造営がこの地域に与えた影響を、決して過小評価することは出来ない。規模といい、建築費用といい、動員された道友の数と広がりといい、関東取締出役が疑いを抱くのは一面当然であったともいえる。改心楼は江戸訴訟の敗北とともに取り毀され、廃墟と化した。今その偉容はのこされた二幅の絵画で偲ぶのみである。