1957(昭和32)年1月30日、当時の米軍群馬県相馬が原演習場内で弾拾い中の日本人農婦を米兵ジラード(William S. Girard)が射殺した事件、「ジラード事件」(当時の外務省は相馬ヶ原事件と呼称、また相馬が原演習場事件とも呼称)が起きた。事件は日米両政府(岸信介政権とアイゼンハワー=Dwight D. Eisenhower政権)間で、政治外交問題化し、特に刑事裁判権をめぐり両国政府と世論が対立した。これまでこの事件に関する先行研究 は極めて少数であった。事件の発生から裁判に至る詳細な経緯、日米両国政府の対応やマスコミ報道等の検証はほとんど行われていない。わずかに日米行政協定研究関連での検討、日本外務省公電による論究、米国議会の事件対応に関する研究、そして事件解決への日米両政府の「密約」の存在批判などである。しかし、最近、事件の全貌を解明しようとする本格的な研究書 (以下、山本2015と略)が刊行された。本論文では、山本(2015)の研究をふまえ、1950年代後半の米ソ冷戦当時の日米両政府の「ジラード事件」への対応、協議、合意、両国の世論、さらに日本をはじめとした米軍基地(米軍駐留)をめぐる問題等について、公開されている米国国務省の米国外交文書(U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, 以下、FRUSと略) 、公文書、新聞報道等により具体的に論述し、事件の意義と日米関係について検討を加える。