- 著者
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大河内 朋子
OKOCHI Tomoko
- 出版者
- 三重大学人文学部文化学科
- 雑誌
- 人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
- 巻号頁・発行日
- no.34, pp.109-114, 2017
W.G.ゼーバルト(1944-2001)は、発表した文学作品のすべてに図像を挿入している。拙稿では、図像の中でもゼーバルトによる利用度の高いメディアである写真を取り上げて、次の3点から考察した。まず、ゼーバルトが写真という媒体をどのように捉えているのかについて、ゼーバルト自身の言説を手がかりに考察した。ゼーバルトは、写真には被写体という「現実的な細胞核」があり、この細胞核の周りを取り巻いて「無の巨大な中庭」があると述べている。写真を観る者は、写真から聞こえてくる「物語りなさいという途轍もない呼びかけ」に応えて、この「無の中庭」を想像上の物語で埋めることになる。つまりゼーバルトにとって写真とは、過去を物語るための原動力であった。次に、言語テクストと写真の「開かれた」関係について考察した。写真に内包された「無の中庭」を埋める物語は、写真を観る者の想像力次第で、さまざまな内容の物語として紡ぎ出されてくる。この意味において、写真は多様な言語テクストの産出に対して「開かれて」いる。言語テクストと写真の間には、もう一つの「開かれた」関係がある。両者が交わす間メディア的な「対話」は、紡ぎ出された物語の信憑性や事実性を高めているようにも、また逆に物語の虚構性を暴露しているようにも見える。つまり、ゼーバルトの間メディア的テクストは、「事実性と虚構性の緊張関係」の中に「開かれた」対話を交わしているのである。3点目として、挿入された白黒写真の不鮮明な画質に着目した。画像の不明瞭さや暗さは、人の記憶の中の像にも似ていて、無常や忘却のアレゴリーである。ゼーバルトは、ぼんやりと写っている被写体を暗やみの地下世界に永遠に葬ってしまうのではなく、闇を追い払う光(過去を観察し思索する眼差し)の力と、その力で紡ぎ出された物語によって、読者に対して過去を想起せよと警告しているのである。