著者
大河内 朋子 Okochi Tomoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.26, pp.29-39, 2009

「描写できないものの同義語」とされるアウシュヴィッツの描写可能性を巡る論争は今なお決着を見ていないが、その一方ですでに数多くの芸術的表現や歴史的ドキュメントか存在する。本稿では、戦後のドイツにおけるコミックメディア(外国コミックの翻訳を含む)がドイツ「第三帝国」(特にホロコースト)をどのように描いてきたかについて検討する。結論を言えば、ドイツ国外のコミック作品においては、たしかにナチス・ドイツは加害者として描かれているが、主たる関心は、ホロコーストに関わる「過去の記憶」の保持と、語ることによる「過去の記憶」の再生にある。読者は、過去を忘却から救い、過去を現在と未来へ繋ぐように要請される。それに対して、ドイツ人コミック作家はユダヤ人虐殺を周縁的なテーマとして扱う。 作品中のナチ党員も加害者として一方的に断罪されるわけではなく、むしろ「第三帝国」下のドイツ市民全体がナチズムと戦争の犠牲者として捉えられている。
著者
大河内 朋子 OKOCHI Tomoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.34, pp.109-114, 2017

W.G.ゼーバルト(1944-2001)は、発表した文学作品のすべてに図像を挿入している。拙稿では、図像の中でもゼーバルトによる利用度の高いメディアである写真を取り上げて、次の3点から考察した。まず、ゼーバルトが写真という媒体をどのように捉えているのかについて、ゼーバルト自身の言説を手がかりに考察した。ゼーバルトは、写真には被写体という「現実的な細胞核」があり、この細胞核の周りを取り巻いて「無の巨大な中庭」があると述べている。写真を観る者は、写真から聞こえてくる「物語りなさいという途轍もない呼びかけ」に応えて、この「無の中庭」を想像上の物語で埋めることになる。つまりゼーバルトにとって写真とは、過去を物語るための原動力であった。次に、言語テクストと写真の「開かれた」関係について考察した。写真に内包された「無の中庭」を埋める物語は、写真を観る者の想像力次第で、さまざまな内容の物語として紡ぎ出されてくる。この意味において、写真は多様な言語テクストの産出に対して「開かれて」いる。言語テクストと写真の間には、もう一つの「開かれた」関係がある。両者が交わす間メディア的な「対話」は、紡ぎ出された物語の信憑性や事実性を高めているようにも、また逆に物語の虚構性を暴露しているようにも見える。つまり、ゼーバルトの間メディア的テクストは、「事実性と虚構性の緊張関係」の中に「開かれた」対話を交わしているのである。3点目として、挿入された白黒写真の不鮮明な画質に着目した。画像の不明瞭さや暗さは、人の記憶の中の像にも似ていて、無常や忘却のアレゴリーである。ゼーバルトは、ぼんやりと写っている被写体を暗やみの地下世界に永遠に葬ってしまうのではなく、闇を追い払う光(過去を観察し思索する眼差し)の力と、その力で紡ぎ出された物語によって、読者に対して過去を想起せよと警告しているのである。
著者
大河内 朋子 OKOCHI Tomoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences, Department of Humanities : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.35, pp.71-78, 2018

ゼーバルトの物語世界は「間テクスト性」を特徴とし、主副二つの声が響き合う多声音楽的な物語として捉えることができる。拙論においては、「引用・剽窃・暗示」されたテクスト断片が、ゼーバルトの物語世界を読み解くためのサブテクストであることを、『土星の輪』第7章の分析をとおして考察する。 第7章では、人生における「親和性と照応」という思想が展開されるが、挿入された引用テクストは、各人物相互の「親和性と照応」の根底に、「故郷の不在・喪失」や「中間地帯でのとどまり」というゼーバルト固有の問題圏が隠されていることを明かしている。