- 著者
-
大清水 裕
- 出版者
- 滋賀大学教育学部
- 雑誌
- 滋賀大学教育学部紀要 (ISSN:21887691)
- 巻号頁・発行日
- no.67, pp.123-137, 2018-03-30
ローマ帝国支配下の北アフリカにおける「ローマ化」を考える上で、皇帝礼拝は重視されてきたテーマの一つである。古代ローマにおける皇帝礼拝は、ヘレニズム諸王国における支配者崇拝に由来するとされるが、両者は必ずしも同一のものではない。スエトニウスは、以下のように述べている。 「属州が神殿の建立について、従来もよく総督のためにすら決議していることは知っていたが、アウグストゥスはいかなる属州の決議も、自分のローマ国民共通の名義以外は、受理しなかった。首都ではたいそう頑固にこの名誉を拒否した。」 アウグストゥスは、東方では女神ローマとの合祀を条件に自らに対する祭祀を容認する一方、生前の神格化に忌避感の強かった首都ローマでは厳にそれを慎んだとされる。他方、ヘレニズム諸王国のような支配者崇拝の伝統がなかった西方の諸属州においては、ローマ皇帝礼拝は、東方やイタリアとも異なる展開を見せている。本稿では、ラテン語で刻まれた碑文が数多く出土している北アフリカを舞台として、ローマ皇帝礼拝の展開について再考を試みたい。西方諸属州におけるローマ皇帝礼拝については、 D. Fishwick による造瀚な研究が知られている。彼は、ローマ皇帝礼拝の中でも属州単位で行われた祭祀に着目し、アフリカ・プロコンスラリス属州については、後70~72年頃に皇帝礼拝祭祀が確立されたと主張している。ネロ帝死後の内乱を経て成立したフラウィウス朝の下では、その帝位を正当化するための措置が必要とされた。アフリカ・プロコンスラリス属州におけるローマ皇帝礼拝の確立も、その一環であったということになる。ローマ帝政期北アフリカの宗教研究で知られる M. Le Glay がフラウィウス朝期の変革を重視していたこととも符合する見方である。 それに対して、アウグストゥス治世からコンモドゥス治世までの北アフリカ諸都市における皇帝権の表象について検討した F. Hurlet はフラウィウス朝期に画期を見出す Fishwick の見方に疑問を投げかけている。彼は、この時期に諸都市で皇帝に対して捧げられた碑文群の他、皇帝や帝室の人々の肖像、貨幣などの関連資料も網羅的に分析し、フラウィウス朝期には前後の時期と比べて大きな変化が見られないこと、北アフリカの諸都市で皇帝像が広くみられるようになるのは2世紀以降であることを指摘している。 実際、アフリカ・プロコンスラリス属州における属州単位での皇帝礼拝が行われていたことも知られている。 他方、 J. B. Rives は、皇帝礼拝の採用がローマの文化的アイデンティの採用と同時であったと思われる事例があることを認める一方、実態は考えられてきたよりも複雑であったと述べ、いくつかのケーススタディを通して、ローマ皇帝礼拝の導入が旧来の文化的伝統の放棄だったわけではなく、ポエニ系の祭祀がその基盤となっていた可能性も指摘している。北アフリカにおけるローマ皇帝礼拝の展開も」、その置かれた条件により多様であったと考えられる。 そこで本稿では、北アフリカの中でも、属州単位での皇帝礼拝の中心となっていた州都カルタゴとその周辺地域を取り上げる。まず、アウグストゥス期のカルタゴで見られた個人による最初期の皇帝礼拝の事例について確認したうえで、都市単位での皇帝礼拝の動向について考察する。その上で、フラウィウス朝期にアフリカ・プロコンスラリス属州の単位で皇帝礼拝が成立した根拠とされる碑文を再検討し、北アフリカにおけるローマ皇帝礼拝の展開について、その特色を考えてみたい。