- 著者
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谷本 晃久
- 出版者
- 北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
- 雑誌
- 北方人文研究 (ISSN:1882773X)
- 巻号頁・発行日
- no.11, pp.95-109, 2018
近世・近代移行期に札幌市中心部にみられたアイヌ集落の地理的付置については、従来ふたつの見解があり、判然としなかった。本稿ではこの問題につき、おもに開拓使の公文書を用いた検討をおこなった。その結果、1965年に山田秀三の唱えた見解に、より妥当性があることを考察した。
また、1935年に高倉新一郎の記した見解を支持する大きな根拠となっていた「偕楽園図」所載の「土人家」については、1879年に札幌を視察した香港総督ヘンネッシー卿(Sir John Pope HENNESSY)の要望に応じて札幌郡対雁村の樺太アイヌをして急遽作成せしめられた復元家屋であったことを実証した。
その背景には、札幌中心部のアイヌ集落が開拓政策の進展に伴い移転を強いられた経緯があったこと、ならびに対ロシア政策に伴い札幌近郊に樺太アイヌが移住させられていた経緯があったことを指摘した。くわえて、復元家屋設置の経緯は、ヨーロッパ人による当該集落墓地盗掘の動機と同様、当時欧米人がアイヌに向けていた関心がその背景にあった点も指摘した。