著者
石原 真衣
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.3-21, 2018-03-31

本論では、多くのアイヌ出自の人々が沈黙する現状に注目し、その歴史的経緯と、近現代の<アイヌ>が経験したもう一つの喪失を探ることを目的とする。現代ではアイヌ文化に対する理解や、先住民族の人権等に関する問題意識は多くの場合、市民に共有されているかに見える。しかし、近年の実態調査では、アイヌ民族の人口は減少傾向にある。それは、アイヌ民族の消滅を意味するのではなく、沈黙する人々が増加していることを示している。その背景には、いかなる歴史的要因があるのかを明らかにするために、事例として、「サイレント・アイヌ」である筆者自身の家族などの語りによるファミリーヒストリ―を扱う。発言しやすくなった現代において、なぜ「周縁的なアイヌ」が沈黙しているのか、その背景について分析することによって、このような現状をもうひとつの先住民問題、そして北海道におけるポストコロニアル状況として捉え直すことが可能となる
著者
永野 正宏
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-23, 2011-03-31

The Hakodate magistrate (bugyo) vaccinated the Ainu people for smallpox during the period from 1857 to 1859. Previous studies state that the Ainu people fled to the mountains for fear of the smallpox vaccination. This paper aims to clarify the actual situation that led to the Ainu people fleeing to the mountains and the factors that caused it. In section I, I studied all resources concerning the above-mentioned situation in previous studies. My research shows that the fleeing of the Ainu people to the mountains was recorded only in four places (yamukusinai, mororan, yuuhutu, and horobetu in east Ezo). In section II,I examined other resources concerning the smallpox vaccination and verified that the Ainu people reacted differently toward the smallpox vaccinations. In section III, I verified that one of the factors that caused the Ainu people to flee to the mountains was the attitude of the local administrative officers who forced them for the vaccination. Future research should clarify the reason for the emphasis on the Ainu people fleeing to the mountains in the historical study of the smallpox vaccination for the Ainu people.
著者
クズネツォフ S.I. 森永 貴子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-18, 2008-03-31

It is hardly possible to find the detailed description of history of diplomatic, business, cultural or religious activity of Russian people in the Russian historiography of the Russian- Japanese relations to Hokkaido, though mentions of it in 19th century were more than enough. The trouble is that the authors in their majority only repeat one another. There were also Russian travellers, many writers and publicists, clerics and seamen among them. Later, when diplomatic representatives have got over in Edo, Hokkaido has left on the second plan. At the same time this subject represents the big interest, as at Hokkaido, in Hakodate the relationship between Russia and Japan began to get regular character. There was a first Russian consulate in Japan here and, also, the first Russian church -《mother of Russian churches in Japan》, as priests say. The first deep impressions of Russian about Japan, its inhabitants and realities were also made here. Probably, the environment of Japan’s North was more close and clear to the Russian, than it’s South. The territorial affinity of Hokkaido to the Russian coast gave Russian businessmen the certain hopes for development of bilateral business activities, first of all -trade. However, at that time there were no necessary economic conditions for this purpose yet. If the Catholic church had come to Japan from the South, Russian orthodox mission arrived from the North. Russian priests christened the first Japanese here, the orthodox sermon sounded for the first time in Japan also. Distribution of Orthodoxy to Hokkaido (certainly not such successful as a Catholicism) can be considered as the certain mark at intercultural dialogue between two peoples -Japanese and Russian. Thus, it is possible to tell, that Hakodate’s period -one of the first pages in history of the Russian-Japanese relations, not only insufficiently studied in Russian historiography, but more likely -evidently forgotten.
著者
北山 祥子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.69-87, 2019

本稿は、建国神話が国民形成と国家推進にもたらす影響力に注目し、朝鮮総督府統治下における朝鮮と日本の建国神話の位相について考察する。植民地朝鮮で起きた「檀君論争」では、日本人研究者による圧倒的な檀君否定が支配的であり、その根底には、多様な神話群を認めない記紀の排他的な「一国一神話化」の論理があった。明治政府が天皇制の精神的支柱とした記紀は、その成立過程において、「一国一神話化」の淵源ともいえる「神話の淪滅」を行う。具体的には、記紀以外の神話が、天皇家の都合に合わせて取り込まれ、改変吸収され、抹殺されて記紀神話が成立した。長く続いた武家社会において、記紀の大衆的な認知度は低かったが、明治時代になると、天皇制とともに日本神話=記紀という「一国一神話化」が徹底される。その影響は当然のことながら植民地朝鮮にもおよび、歴史を四千年以上も遡る檀君神話は、朝鮮史編修会の御用学者らによって徹底的に批判された。朝鮮史編修会が編纂した『朝鮮史』に、檀君朝鮮の条はない。日本人研究者らの強引な「一国一神話化」の背景には、記紀しか認めない絶対的な排他性はもちろん、朴殷植や申采浩らが民族主義運動の精神的支柱に檀君を据えたことも要因となっている。彼らや、『三国遺事』の再発見により檀君復権をめざした崔南善、檀君神話の重用に懐疑的だった白南雲や金台俊らの檀君言説からは、立場の違いはあっても、朝鮮民族としての自負心や長い歴史への誇りがにじむ。日本人研究者と朝鮮人研究者の議論は、国民国家と建国神話の不可分性という点において、実は同質的であり、日本がもたらした「一国一神話化」の衝撃は、そのまま朝鮮民族が主体となる「一国一神話化」の希求へとつながった。
著者
谷本 晃久
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.95-109, 2018-03-31

近世・近代移行期に札幌市中心部にみられたアイヌ集落の地理的付置については、従来ふたつの見解があり、判然としなかった。本稿ではこの問題につき、おもに開拓使の公文書を用いた検討をおこなった。その結果、1965年に山田秀三の唱えた見解に、より妥当性があることを考察した。 また、1935年に高倉新一郎の記した見解を支持する大きな根拠となっていた「偕楽園図」所載の「土人家」については、1879年に札幌を視察した香港総督ヘンネッシー卿(Sir John Pope HENNESSY)の要望に応じて札幌郡対雁村の樺太アイヌをして急遽作成せしめられた復元家屋であったことを実証した。 その背景には、札幌中心部のアイヌ集落が開拓政策の進展に伴い移転を強いられた経緯があったこと、ならびに対ロシア政策に伴い札幌近郊に樺太アイヌが移住させられていた経緯があったことを指摘した。くわえて、復元家屋設置の経緯は、ヨーロッパ人による当該集落墓地盗掘の動機と同様、当時欧米人がアイヌに向けていた関心がその背景にあった点も指摘した。
著者
小田 博志
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.73-94, 2018-03-31

139年前に札幌から一体のアイヌの遺骨がドイツへと盗み出された。なぜそのようなことが行われたのか。その遺骨のrepatriation(返還・帰還)はどうあるべきか。本論文の目的はこれらの問題について、この遺骨のストーリーを辿りつつ考察していくことである。ここでは「エスノグラフィック・アクションリサーチ」のアプローチを通して明らかになった知見を述べていく。19世紀後半から20世紀前半にかけて、「グローバル人骨流通ネットワーク」を通して植民地化された人々の遺骨が大規模に収奪され、形質人類学の研究対象とされた。そのネットワークのハブのひとつが当時のベルリンであった。その頃ドイツの人類学・民族学では「自然民族/文化民族」の二分法が浸透していた。主体としての人間が文化と歴史を作り、客体としての自然を支配し収奪するという、この非対称的な分割は植民地主義と人種主義とを正当化する役割を果たした。この植民地主義的な歴史の文脈の中で、アイヌ遺骨の盗掘も行われ、主体性が奪われ、研究の客体に仕立て上げられ、ついには“RV33”と番号がふられた。近年、植民地化された人々のコミュニティから遺骨返還を求める声が上がっている。これはrepatriationという概念で論じ実践されているが、そこには法制度的な手続き論を超えて、ポストコロニアルな責任と脱植民地化という課題への広がりがある。“RV33”と番号がふられたアイヌの遺骨の故郷は、札幌にかつてあり、北海道/アイヌモシリの植民地化によって解体されたコトニ・コタンであったことが明らかになっている。その故郷への未完の旅の行く末を、「再人間化」をキーワードに考察したい。
著者
相庭 達也
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-17, 2019-03-25

本稿は、西南戦争へ従軍し、出征から帰道までの期間に「戦闘」「病気」「事故」で亡くなった屯田兵の慰霊について、その実態と特性について考察したものである。 その数は37名に及ぶが、戦闘死とされる者8名の内3名は「溺死」であった。病死とされる者は28名で、ほとんどが「コレラ」によるものであった。出征当日に同郷出身の兵士によって殺害された者が1名いたが、それを開拓使は「横死」と位置づけた。 それぞれの「慰霊」について、当時病死者は合祀対象ではなかった東京招魂社に対して、開拓使は溺死者を戦闘死とし、病死者を合祀対象にとする意向があった。一方現地(札幌)に「屯田兵招魂碑」の建立を計画し、その碑文には横死者1名を含めた37名全員の戦没者を記した。それが札幌護国神社の特性を生むことになった。 上記の慰霊に対する開拓使の意向は、陸軍とは異なる屯田兵の特殊性によるものであった。そして、その最も重要なポイントは、屯田兵は1兵士であると同時に「戸主」であった点にある。したがって、屯田兵士の死は戸主の死であり、屯田兵が一方で担う北海道開拓に大きな支障を来すものであったのである。 戦没した屯田兵士の慰霊とは、その名誉を顕彰することだけでなく、遺族への保護といった観点が含まれており、緒についたばかりの北海道開拓を確実に進めるためのものであったのである。
著者
山田 祥子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.159-172, 2012-03-31

This paper aims to present two texts of the Northern Dialect of Uilta (one of the Tungusic languages, distributed on Sakhalin Island in Russia). The first text (1-1) ~ (1-20) is told by Ms. Irina Jakovlevna Fedjaeva who was born in the village Val (Nogliki District, Sakhalin Oblast, Russia) in 1940, and the second one (2-1) ~ (2-29) is by Ms. Elena Alekseevna Bibikova who was born in a camping place Dagi (the same of the above) in 1940. The present author recorded their narration in August 17th 2011 in Val. On this paper the texts are transcribed with Roman-based symbols according to the phonological description by Ikegami (1997). The present author added the underlining forms, the morphological analysis and Japanese free translation. Both of the speakers told about their own experiences with Prof. Jiro Ikegami and expressed respect and thanks to him. They became acquainted with him in 1990, when he visited Sakhalin for the first time. The two local ladies supported him to gather linguistic data on the Northern Dialect of Uilta. After that, they worked together to decide a writing system of the Uilta language and to produce its educational materials. The ABC-book published in 2008 (Ikegami et al. 2008) is indeed a fruit of their great collaboration. They remember that Prof. Ikegami encouraged the speakers of the endangered small language with his ardor for the study and his deep consideration for the people.
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.49-68, 2019-03-25

明治中期に設立された北海道協会について、これまでの研究では北海道拓殖事業における後援団体、拓殖専門の政策団体、あるいは貴族院議員らの利益代表団体といったように、論者によって評価が分かれている。北海道協会の活動が政治、経済、拓殖事業、移民奨励事業、出版事業、あるいはアイヌ保護活動といったように広範囲に及んでおり、先行研究はその一側面を対象とし、局所的に評価したものが多数を占めている。これは基本的な協会の性格と組織構造が提示されていないことが原因といえる。 本論では明治中後期を対象とし、北海道協会の基礎的な組織や人的構成、活動内容とその経過を検討する。そのうえで協会の外郭団体としての多面的な性格を提示する。検討にあたり、協会を主導した近衛篤麿、行政側から協会を支えた北垣国道をキーパーソンとし、協会の成立からその盛衰を射程とした。その際、「内務省(中央官庁)― 北海道庁(地方官庁)― 北海道協会(民間)」という「官民調和」の政治構造に焦点をあてる。協会の成立により、民間レベルでの利害を行政に意見することが出来、一方、貴衆両院議員や官吏など、公的な地位を有する者が協会員となることで、行政機構の内外に渡る活動が展開できた点を解明した。また帝国主義下での人種競争という概念のもと、協会が行ったアイヌに対する活動も検討対象とした。こうした北海道協会の基礎的な性格を提示することは、それ以後に続いた植民地経営における外郭団体の祖型を考究することに結びつく。
著者
Tsumagari Toshiro
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-21, 2009-03-31

The present paper is intended as a grammatical sketch of Solon, a Tungusic language spoken in northern Inner Mongolia, China. The first section is a brief introduction including an explanation for dialects and previous literatures. The second section is devoted to phonology and the third to morphological description. In the fourth section, various types of noun phrase and sentence structure are illustrated. Finally,issues of lexical borrowing are briefly touched upon. Though the present sketch is far from a full grammatical description, it might be of some use for those who wish to get some general idea of this minority language. The first version of this sketch was contributed to a chapter of the Tungusic volume of grammatical description series. For some reason the volume has not appeared for several years, so that I will publish my chapter (with minor revisions) separately here with the permission of the volume editor Alexander Vovin.
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.19-47, 2019-03-25

本論は、日本領時代の樺太における郷土研究について、島内で発行された新聞・雑誌から、その形成と展開を考察したものである。 日本領樺太には大正期にパルプ・製紙工業が進出し、水産業に代わる基幹産業へと成長する。工場を中心とした市街地が拡大し、また、原材料を供給する林業により冬期間の労働が生まれたことで、移住民の定住を促進させた。 昭和期に入ると、内地での郷土研究・郷土教育の影響を受け、移住地であるこの地域を「郷土」として研究する取り組みが現れる。1930年に結成された樺太郷土会には、教職員、樺太庁の役人、新聞記者など、幅広い人脈が広がっている。その研究分野も、歴史、民族学、自然科学など樺太における様々な事象を対象にしており、研究成果は新聞や出版物で発表された。また、史跡保存、博物館の資料収集、図書館設立も企画し、樺太庁への運動も行っている。 樺太郷土会結成の契機には、樺太の有力紙『樺太日日新聞』の主筆菱沼右一による主導的役割があり、同紙は活動の広報媒体にもなっている。また樺太郷土会が活動した時期に、政府や樺太庁では、樺太を内地に編入し、自立した地方行政への転換が計画されたことも、住民の郷土意識が求められた背景に影響していると思われる。 会の活動は1932年にはなくなるが、参加した研究者は、個人や別の団体を結成し、研究活動を続ける。1930年に樺太郷土会により始められた様々な活動は、その後も公的な文化事業や個人の研究活動に影響している。
著者
相庭 達也
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-17, 2019

本稿は、西南戦争へ従軍し、出征から帰道までの期間に「戦闘」「病気」「事故」で亡くなった屯田兵の慰霊について、その実態と特性について考察したものである。 その数は37名に及ぶが、戦闘死とされる者8名の内3名は「溺死」であった。病死とされる者は28名で、ほとんどが「コレラ」によるものであった。出征当日に同郷出身の兵士によって殺害された者が1名いたが、それを開拓使は「横死」と位置づけた。 それぞれの「慰霊」について、当時病死者は合祀対象ではなかった東京招魂社に対して、開拓使は溺死者を戦闘死とし、病死者を合祀対象にとする意向があった。一方現地(札幌)に「屯田兵招魂碑」の建立を計画し、その碑文には横死者1名を含めた37名全員の戦没者を記した。それが札幌護国神社の特性を生むことになった。 上記の慰霊に対する開拓使の意向は、陸軍とは異なる屯田兵の特殊性によるものであった。そして、その最も重要なポイントは、屯田兵は1兵士であると同時に「戸主」であった点にある。したがって、屯田兵士の死は戸主の死であり、屯田兵が一方で担う北海道開拓に大きな支障を来すものであったのである。 戦没した屯田兵士の慰霊とは、その名誉を顕彰することだけでなく、遺族への保護といった観点が含まれており、緒についたばかりの北海道開拓を確実に進めるためのものであったのである。
著者
風間 伸次郎
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.83-101, 2013-03-31

Emotional adjectives cannot be used with the 3rd person subject in Japanese. This phenomenon is called as “person restriction”. The aims of this paper are as follows: (1) To contrast the emotional expressions in several languages from the viewpoint of person restriction. (2) To reconsider the reason for the person restriction. The result of elicitation is as follows: Table 1: The restriction in person and related features in some Altaic-type languages / Japanese Korean Nanai Mongolian Kirghiz Turkish / Person restriction (Adj) ○ ○ × ○ × ○ / Person restriction (V) ○ ○ × ○ × ○ / Ambiguity ○ ○ × × × × / Use as exclamations ○ △ ○ × △ △ / The conclusions of this paper are as follows: [1] The person restriction cannot be thought as any areal feature nor genealogic feature. And from the typological viewpoint, the appearance of the person restriction is not consistent in the languages of the similar type (in this case, Altaic-type). [2] The emotional predicates implicate some judgement of the speaker (i.e. 1st person). Therefore a kind of evidential markers is necessary to use an emotional predicate with a 3rd person subject. [3] The person restriction is observed not only in the emotional adjectives but also in the emotional verbs. Therefore the relation between the difference in word classes and the person restriction is not acceptable. [4] The ambiguous expressions of the emotional predicates (such as ‘kowai hito’ in Japanese) are not observed consistently in the languages which has the person restriction. [5] The emotional predicates are used frequently in the exclamational sentences in Japanese, but in the other languages not used so frequently as in Japanese.
著者
クズネツォフ セルゲイ・イリッチ 兎内 勇津流
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.155-165, 2019-03-25

この論文では、1945-1947年のモンゴルにおける日本人抑留の原因と結果について検討する。史料と文献について概観し、モンゴルにおける収容所の地理的配置と、モンゴル経済におけるその労働力の使用について示す。抑留者の死亡率とモンゴル人民共和国領内の埋葬地、祖国への帰国についてのデータを挙げる。モンゴルにおける日本人抑留者に関する歴史的記憶の保持についての資料が含まれる。
著者
宮野 裕
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.81-100, 2009-03-31

This paper translates and provides commentary on the "Church" Statute of Prince Jaroslav (d.1054). This Statute was originally drafted in the 11th century, but it was considerably revised in each Russian eparchy up to the 18th century, and served as the judicial basis of Russian society. Moreover, the Statute defines the jurisdiction of the church and prescribes punitive measures against wrongdoings that would be referred to the church. Although a large number of studies have been made of the textlogical and chronological investigation of the Statute since the 19th century, there was little consensus. For example, N. Karamzin (1842) asserted that the Statute was drafted in the 14th century, that is, it was not the work of Jaroslav. But in 1972, J.N. Shchapov finally provided detailed evidence of when and how the Statute was drafted. He recognized the Statute as authentic, compiled by Jaroslav, and dating from 11th century. His thesis on the Statute is widely accepted. But this paper criticizes his idea of the "historical" relations between the short and long versions of the Statute. The paper also provides translations of both versions.
著者
北山 祥子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.69-87, 2019-03-25

本稿は、建国神話が国民形成と国家推進にもたらす影響力に注目し、朝鮮総督府統治下における朝鮮と日本の建国神話の位相について考察する。植民地朝鮮で起きた「檀君論争」では、日本人研究者による圧倒的な檀君否定が支配的であり、その根底には、多様な神話群を認めない記紀の排他的な「一国一神話化」の論理があった。明治政府が天皇制の精神的支柱とした記紀は、その成立過程において、「一国一神話化」の淵源ともいえる「神話の淪滅」を行う。具体的には、記紀以外の神話が、天皇家の都合に合わせて取り込まれ、改変吸収され、抹殺されて記紀神話が成立した。長く続いた武家社会において、記紀の大衆的な認知度は低かったが、明治時代になると、天皇制とともに日本神話=記紀という「一国一神話化」が徹底される。その影響は当然のことながら植民地朝鮮にもおよび、歴史を四千年以上も遡る檀君神話は、朝鮮史編修会の御用学者らによって徹底的に批判された。朝鮮史編修会が編纂した『朝鮮史』に、檀君朝鮮の条はない。日本人研究者らの強引な「一国一神話化」の背景には、記紀しか認めない絶対的な排他性はもちろん、朴殷植や申采浩らが民族主義運動の精神的支柱に檀君を据えたことも要因となっている。彼らや、『三国遺事』の再発見により檀君復権をめざした崔南善、檀君神話の重用に懐疑的だった白南雲や金台俊らの檀君言説からは、立場の違いはあっても、朝鮮民族としての自負心や長い歴史への誇りがにじむ。日本人研究者と朝鮮人研究者の議論は、国民国家と建国神話の不可分性という点において、実は同質的であり、日本がもたらした「一国一神話化」の衝撃は、そのまま朝鮮民族が主体となる「一国一神話化」の希求へとつながった。
著者
木村 由美
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.43-71, 2018-03-31

本稿では国立公文書館所蔵『引揚者在外事実調査票』を基本資料とし、戦後、樺太深海村から北海道への引揚げについて分析した。これにより、樺太南部の漁村である深海村から北海道への引揚げについて実態を明らかにし、「樺太-北海道の上陸地-最初の住所-昭和31(1956)年現在の住所」と長いスパンで引揚者の動向を分析し、職業等と関連付けて定着地への軌跡を検証した。深海村では樺太全体と比べて「公式引揚」以前の、「緊急疎開」と「脱出」で引揚げた者の割合が高かった。また引揚出発港が、「公式引揚」で使用された真岡ではなく、大泊が最多であったことも特徴といえる。北海道では引揚げの最初の上陸地である稚内、函館、枝幸に定着した者が多く、また炭鉱都市へ定着した者も多かった。引揚げから昭和31年までの間に、6割以上の世帯が転居をしていることも明らかとなった。引揚後は漁業から、農業、炭鉱、日雇、公務員への転職が見られ、無職となった者もあった。深海村の公務員の引揚げについては、個別の事例を挙げて明らかにした。公務員は優先的に「再就職」されるよう考慮されたが、全員が「再就職」できたわけではなく、郵便局員と教員は同じ職に「再就職」したが、役場吏員の「再就職」は1名だけであった。学校は、教員の「再就職」先としてだけでなく、「小使」や「学校事務員」として転職した者もみられ、引揚者の受入先としても大きな役割を果たした。
著者
片桐 保昭
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.69-85, 2008-03-31

This study focuses on landscape design as practicing processes in designing workshop not regarded as modern system of depressing subjectivity. Hokkaido has been treated advanced area of landscape design. But residents are not always participating to construct public gardens. Administrative organizations of public parks want symbolic and clearly meaningful shapes by appropriating previous exiting objects in designing such spaces for the reasons of constructing needs. But designers regard these as capricious things and want more good shapes. These ‘good’ designs are often not objective and cannot explain by official needs. Hence, official symbolic objects are sighted on central symbolic place in the landscape and ‘good’ designed objects are sighted on peripherals and not conspicuous. In these processes, ‘aesthetical’ values without rationality or functionality in modern context are acted as agencies. Because of their ambiguous values, designers’ practices are rather not symbolic and peripheral on the landscape. These practiced designs have interpretative flexibility for each subject to feel the whole landscapes. On these processes of designing landscape, ambiguous agencies are acted to subjects. Landscapes are constructed not only meaningful symbolic objects but also rather not meaningful shapes felt by each subjects. These agencies are peripheral values constructed in each subjects’ experiences: and the processes of acting these agencies in landscape design processes are respected as subjects’ possibility.