著者
石原 真衣
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.3-21, 2018-03-31

本論では、多くのアイヌ出自の人々が沈黙する現状に注目し、その歴史的経緯と、近現代の<アイヌ>が経験したもう一つの喪失を探ることを目的とする。現代ではアイヌ文化に対する理解や、先住民族の人権等に関する問題意識は多くの場合、市民に共有されているかに見える。しかし、近年の実態調査では、アイヌ民族の人口は減少傾向にある。それは、アイヌ民族の消滅を意味するのではなく、沈黙する人々が増加していることを示している。その背景には、いかなる歴史的要因があるのかを明らかにするために、事例として、「サイレント・アイヌ」である筆者自身の家族などの語りによるファミリーヒストリ―を扱う。発言しやすくなった現代において、なぜ「周縁的なアイヌ」が沈黙しているのか、その背景について分析することによって、このような現状をもうひとつの先住民問題、そして北海道におけるポストコロニアル状況として捉え直すことが可能となる
著者
梅木 佳代
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.65-98, 2023-03-25

本稿は、北海道の公立動物園でこれまでに飼育されてきた海外産オオカミ(Canis lupus)の記録を整理し、その動向と特徴を確認することを目的とする。調査の結果、道内の公立動物園が1956年から2022年現在までの66年間で5亜種128頭のオオカミを飼育してきたことを明らかにできた。また、公立動物園で飼育されるオオカミには、過去には海外から「親善」のための使節として来園するなど特定の都市や地域と結びつけられる傾向がみられたが、2000年代以降は絶滅した在来種であるエゾオオカミと関連づけて飼育・展示されていることを確認した。道内の公立動物園におけるオオカミの飼育形態は、かつては単独あるいはペアを基本とする形を主流としていたが、1980年代以降は群れを飼育・展示することが目指されていた。 こうした変化は、オオカミに関わる知見の更新や議論の蓄積を反映して起きたものと考えられる。飼育史の解明を進めることで、在来種が絶滅した後の北海道におけるオオカミに対する理解のありかたやイメージの変遷過程を把握するための一助とすることができる。
著者
永野 正宏
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-23, 2011-03-31

The Hakodate magistrate (bugyo) vaccinated the Ainu people for smallpox during the period from 1857 to 1859. Previous studies state that the Ainu people fled to the mountains for fear of the smallpox vaccination. This paper aims to clarify the actual situation that led to the Ainu people fleeing to the mountains and the factors that caused it. In section I, I studied all resources concerning the above-mentioned situation in previous studies. My research shows that the fleeing of the Ainu people to the mountains was recorded only in four places (yamukusinai, mororan, yuuhutu, and horobetu in east Ezo). In section II,I examined other resources concerning the smallpox vaccination and verified that the Ainu people reacted differently toward the smallpox vaccinations. In section III, I verified that one of the factors that caused the Ainu people to flee to the mountains was the attitude of the local administrative officers who forced them for the vaccination. Future research should clarify the reason for the emphasis on the Ainu people fleeing to the mountains in the historical study of the smallpox vaccination for the Ainu people.
著者
谷本 晃久
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター = Center for Northern Humanities, Graduate School of Letters, Hokkaido University
雑誌
北方人文研究 = Journal of the Center for Northern Humanities (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.109-121, 2014-03-31

Dr. Yoshishige Hayashi (1922-2013) is an agricultural economic history researcher who had taught at Hokkaido University for a long time. His area of research is traditional agricultural culture of the Ainu. He is well known for his detailed field work conducted from the 1950s to the 1960s on Ainu society across Hokkaido. Also known for his research style which is heavily influenced by the interdisciplinary method of study at the Research Institute for Northern Culture, he was engaged in the compilation of Hokkaido history along with Dr.Shin-ichiro Takakura. This transcript, which is a recollection of research activities conducted by Dr. Hayashi in 2006, is arguably a valuable record that recounts in detail a side of Ainu and the northern culture studies developed out of Hokkaido University between the 1950s and 1980s.
著者
風間 伸次郎
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター = Center for Northern Humanities, Graduate School of Letters, Hokkaido University
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.51-74, 2011-03-31

本稿は3つの部分よりなる。1節では、調査のあらましについて述べる。2節では、コンサルタ ントより伺った人類学的な情報を示す。3節では短いウイルタ語のテキストを1つ示す。短期間で の調査であり、拙い報告となってしまったが、他にない情報が少しでも得られていれば幸いである。 誤謬等の御指摘を乞う。 The northern dialect of Uilta is spoken on northern Sakhalin. This paper consists of three parts:§1.a brief report on the fieldwork;§2.ethnological information by elicitation;§3.a small text. The topics of ethnological information are about reindeer breeding, fishing, stockfish and so on. The text is told by E.A.Bibikova (born in Daagi, 1940). The content of the text is a memory of her childhood.
著者
クズネツォフ S.I. 森永 貴子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-18, 2008-03-31

It is hardly possible to find the detailed description of history of diplomatic, business, cultural or religious activity of Russian people in the Russian historiography of the Russian- Japanese relations to Hokkaido, though mentions of it in 19th century were more than enough. The trouble is that the authors in their majority only repeat one another. There were also Russian travellers, many writers and publicists, clerics and seamen among them. Later, when diplomatic representatives have got over in Edo, Hokkaido has left on the second plan. At the same time this subject represents the big interest, as at Hokkaido, in Hakodate the relationship between Russia and Japan began to get regular character. There was a first Russian consulate in Japan here and, also, the first Russian church -《mother of Russian churches in Japan》, as priests say. The first deep impressions of Russian about Japan, its inhabitants and realities were also made here. Probably, the environment of Japan’s North was more close and clear to the Russian, than it’s South. The territorial affinity of Hokkaido to the Russian coast gave Russian businessmen the certain hopes for development of bilateral business activities, first of all -trade. However, at that time there were no necessary economic conditions for this purpose yet. If the Catholic church had come to Japan from the South, Russian orthodox mission arrived from the North. Russian priests christened the first Japanese here, the orthodox sermon sounded for the first time in Japan also. Distribution of Orthodoxy to Hokkaido (certainly not such successful as a Catholicism) can be considered as the certain mark at intercultural dialogue between two peoples -Japanese and Russian. Thus, it is possible to tell, that Hakodate’s period -one of the first pages in history of the Russian-Japanese relations, not only insufficiently studied in Russian historiography, but more likely -evidently forgotten.
著者
北山 祥子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.69-87, 2019

本稿は、建国神話が国民形成と国家推進にもたらす影響力に注目し、朝鮮総督府統治下における朝鮮と日本の建国神話の位相について考察する。植民地朝鮮で起きた「檀君論争」では、日本人研究者による圧倒的な檀君否定が支配的であり、その根底には、多様な神話群を認めない記紀の排他的な「一国一神話化」の論理があった。明治政府が天皇制の精神的支柱とした記紀は、その成立過程において、「一国一神話化」の淵源ともいえる「神話の淪滅」を行う。具体的には、記紀以外の神話が、天皇家の都合に合わせて取り込まれ、改変吸収され、抹殺されて記紀神話が成立した。長く続いた武家社会において、記紀の大衆的な認知度は低かったが、明治時代になると、天皇制とともに日本神話=記紀という「一国一神話化」が徹底される。その影響は当然のことながら植民地朝鮮にもおよび、歴史を四千年以上も遡る檀君神話は、朝鮮史編修会の御用学者らによって徹底的に批判された。朝鮮史編修会が編纂した『朝鮮史』に、檀君朝鮮の条はない。日本人研究者らの強引な「一国一神話化」の背景には、記紀しか認めない絶対的な排他性はもちろん、朴殷植や申采浩らが民族主義運動の精神的支柱に檀君を据えたことも要因となっている。彼らや、『三国遺事』の再発見により檀君復権をめざした崔南善、檀君神話の重用に懐疑的だった白南雲や金台俊らの檀君言説からは、立場の違いはあっても、朝鮮民族としての自負心や長い歴史への誇りがにじむ。日本人研究者と朝鮮人研究者の議論は、国民国家と建国神話の不可分性という点において、実は同質的であり、日本がもたらした「一国一神話化」の衝撃は、そのまま朝鮮民族が主体となる「一国一神話化」の希求へとつながった。
著者
谷本 晃久
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.95-109, 2018-03-31

近世・近代移行期に札幌市中心部にみられたアイヌ集落の地理的付置については、従来ふたつの見解があり、判然としなかった。本稿ではこの問題につき、おもに開拓使の公文書を用いた検討をおこなった。その結果、1965年に山田秀三の唱えた見解に、より妥当性があることを考察した。 また、1935年に高倉新一郎の記した見解を支持する大きな根拠となっていた「偕楽園図」所載の「土人家」については、1879年に札幌を視察した香港総督ヘンネッシー卿(Sir John Pope HENNESSY)の要望に応じて札幌郡対雁村の樺太アイヌをして急遽作成せしめられた復元家屋であったことを実証した。 その背景には、札幌中心部のアイヌ集落が開拓政策の進展に伴い移転を強いられた経緯があったこと、ならびに対ロシア政策に伴い札幌近郊に樺太アイヌが移住させられていた経緯があったことを指摘した。くわえて、復元家屋設置の経緯は、ヨーロッパ人による当該集落墓地盗掘の動機と同様、当時欧米人がアイヌに向けていた関心がその背景にあった点も指摘した。
著者
小田 博志
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.73-94, 2018-03-31

139年前に札幌から一体のアイヌの遺骨がドイツへと盗み出された。なぜそのようなことが行われたのか。その遺骨のrepatriation(返還・帰還)はどうあるべきか。本論文の目的はこれらの問題について、この遺骨のストーリーを辿りつつ考察していくことである。ここでは「エスノグラフィック・アクションリサーチ」のアプローチを通して明らかになった知見を述べていく。19世紀後半から20世紀前半にかけて、「グローバル人骨流通ネットワーク」を通して植民地化された人々の遺骨が大規模に収奪され、形質人類学の研究対象とされた。そのネットワークのハブのひとつが当時のベルリンであった。その頃ドイツの人類学・民族学では「自然民族/文化民族」の二分法が浸透していた。主体としての人間が文化と歴史を作り、客体としての自然を支配し収奪するという、この非対称的な分割は植民地主義と人種主義とを正当化する役割を果たした。この植民地主義的な歴史の文脈の中で、アイヌ遺骨の盗掘も行われ、主体性が奪われ、研究の客体に仕立て上げられ、ついには“RV33”と番号がふられた。近年、植民地化された人々のコミュニティから遺骨返還を求める声が上がっている。これはrepatriationという概念で論じ実践されているが、そこには法制度的な手続き論を超えて、ポストコロニアルな責任と脱植民地化という課題への広がりがある。“RV33”と番号がふられたアイヌの遺骨の故郷は、札幌にかつてあり、北海道/アイヌモシリの植民地化によって解体されたコトニ・コタンであったことが明らかになっている。その故郷への未完の旅の行く末を、「再人間化」をキーワードに考察したい。
著者
坂口 諒
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.123-134, 2021-03-25

本稿の目的は、『アイヌ語ロシア語辞典』(Dobrotvorskij 1875)の中のアイヌ語話者の居住地や経歴を明らかにすることである。アイヌ語話者に関するドブロトヴォルスキーの記述は断片的であり、大半の話者の居住地は明らかではない。同時代の史料と突き合わせることで、話者の居住地やその移動を明らかにできるだけでなく、アイヌ語資料としての辞書の可能性を高めることができる。ドブロトヴォルスキーと親しかったカシトゥルというアイヌ男性を例にすれば、同時代の他の史料から、1870 年代に至っても久春内の近くコミシラロポ(小茂白)で家族と暮らしていたことが確認できるが、カシトゥルの長女と長男は、1860 年頃のウショロ(鵜城)場所の人別帳に現れている。そのほか、他の資料と比較して辞典のアイヌ語が正確であることは、ロシア側、日本側の人名記録を修正する一助になると思われる。
著者
相庭 達也
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-17, 2019-03-25

本稿は、西南戦争へ従軍し、出征から帰道までの期間に「戦闘」「病気」「事故」で亡くなった屯田兵の慰霊について、その実態と特性について考察したものである。 その数は37名に及ぶが、戦闘死とされる者8名の内3名は「溺死」であった。病死とされる者は28名で、ほとんどが「コレラ」によるものであった。出征当日に同郷出身の兵士によって殺害された者が1名いたが、それを開拓使は「横死」と位置づけた。 それぞれの「慰霊」について、当時病死者は合祀対象ではなかった東京招魂社に対して、開拓使は溺死者を戦闘死とし、病死者を合祀対象にとする意向があった。一方現地(札幌)に「屯田兵招魂碑」の建立を計画し、その碑文には横死者1名を含めた37名全員の戦没者を記した。それが札幌護国神社の特性を生むことになった。 上記の慰霊に対する開拓使の意向は、陸軍とは異なる屯田兵の特殊性によるものであった。そして、その最も重要なポイントは、屯田兵は1兵士であると同時に「戸主」であった点にある。したがって、屯田兵士の死は戸主の死であり、屯田兵が一方で担う北海道開拓に大きな支障を来すものであったのである。 戦没した屯田兵士の慰霊とは、その名誉を顕彰することだけでなく、遺族への保護といった観点が含まれており、緒についたばかりの北海道開拓を確実に進めるためのものであったのである。
著者
TAKIGUCHI Ryo
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター = Center for Northern Humanities, Graduate School of Letters, Hokkaido University
雑誌
北方人文研究 = Journal of the Center for Northern Humanities (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.167-175, 2013-03-31

本論は、社会主義の記憶をめぐる個人の「語り」が有する資料的価値の検討を目的とし、インタビュー・データを通じて社会主義体制下の市民生活の一側面を明らかにする。近年の社会主義研究では、公的な史料ではとらえきれない社会主義体制下の市民生活の実態を明らかにする資料として、個人の経験や記憶の領域が注目されている。本論では、社会主義体制下のモンゴルにおいて非合法な個人商(転売)を営んでいた一人の女性のインタビュー・データを検討し、彼女が社会主義体制下の個人商に対する法的・倫理的な弾劾を巧妙に避けながら、創意工夫によって利益を生み出していた実践の具体像を明らかにする。最後に、社会主義体制下の市民生活に働いていた国家の管理が一様なものではなく、状況によって異なる多層的なものでありえたことを結論として提示したい。
著者
田中 佑実
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.43-61, 2022-03-25

フィンランドのサヴォ地方では、かつて死者のカルシッコと呼ばれる樹木が知られていた。死者のカルシッコは、家から墓場へと通じる道の途中に立つ木々の中から選ばれ、枝が切り落とされたり、死者のイニシャルや生没年が幹に刻まれることで作られた。それらの樹木は死者の帰還を防ぐものとして、17世紀以降、主にルーテル派教会に属するサヴォ地方の人々の間で機能していた。死者のカルシッコは人々の生活を守り、畏敬の念を集める対象であったが、19世紀後半以降の近代化によって、その認識は塗り替えられていった。 これまでの死者のカルシッコに関する先行研究では、その形式や起源、機能、分布、ヨーロッパやバルト地域との関係等について考察がなされてきた。死者のカルシッコに関する研究は1880年代から1990年代まで連綿と行われており、起源や機能、死者と生者のつながりに関する議論が中心である。しかし2018年以降、筆者が死者のカルシッコの風習を続ける家族のもとで行ってきたフィールドワークにおいて、風習に関して家族の口から頻繁に語られたことは、死者についてのものよりも、樹木と彼ら自身についてであった。 本論文では、まず死者のカルシッコを取り扱う土台として、フィンランドの宗教的文化的歴史背景を紹介し、先行研究をもとに死者のカルシッコの形成や変化について記述する。その後フィールドワークの情報を参照しながら、衰退の一途を辿る風習の現状を示し、死者のカルシッコの木と、ある家族の繋がりについて「エラマelämä」という言葉に着目し考察する。
著者
山田 祥子
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.159-172, 2012-03-31

This paper aims to present two texts of the Northern Dialect of Uilta (one of the Tungusic languages, distributed on Sakhalin Island in Russia). The first text (1-1) ~ (1-20) is told by Ms. Irina Jakovlevna Fedjaeva who was born in the village Val (Nogliki District, Sakhalin Oblast, Russia) in 1940, and the second one (2-1) ~ (2-29) is by Ms. Elena Alekseevna Bibikova who was born in a camping place Dagi (the same of the above) in 1940. The present author recorded their narration in August 17th 2011 in Val. On this paper the texts are transcribed with Roman-based symbols according to the phonological description by Ikegami (1997). The present author added the underlining forms, the morphological analysis and Japanese free translation. Both of the speakers told about their own experiences with Prof. Jiro Ikegami and expressed respect and thanks to him. They became acquainted with him in 1990, when he visited Sakhalin for the first time. The two local ladies supported him to gather linguistic data on the Northern Dialect of Uilta. After that, they worked together to decide a writing system of the Uilta language and to produce its educational materials. The ABC-book published in 2008 (Ikegami et al. 2008) is indeed a fruit of their great collaboration. They remember that Prof. Ikegami encouraged the speakers of the endangered small language with his ardor for the study and his deep consideration for the people.
著者
上田 哲司
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.99-118, 2022-03-25

近代の名望家に関する従来の研究では、彼らを近世の豪農層から連続する存在と理解する傾向が強かった。しかし近年では、近代になって新たに勃興した名望家がいることが確認され、改めて近代的な存在として名望家を把握しなおすことが提起されている。 近代的な存在として名望家の把握を試みた時、北海道は非常に重要なフィールドである。なぜなら、北海道の、特に内陸部においては、明治になって大挙して押し寄せた移民たちによって新村落の形成が相次いで行われたのであり、ここに登場した名望家たちには、近世以来の地縁的な連続性は一切ないからである。しかし、現在、北海道の名望家研究は量的に乏しい。それは、彼らが名望家としてよりも、北海道の開拓者として把握されてきたことが一因と思われる。 以上の研究史的背景を踏まえ、筆者は、北海道における名望家研究の事例を積み上げる必要を痛感した。しかし、そのためには、なによりもまず、名望家に関する史料を発掘しなければならない。そこで筆者は、北海道大学の関係者たちとともに、北広島市エコミュージアムセンターが収蔵する阿部仁太郎関係資料の調査に取り組んできた。仁太郎は、明治時代に豊平村(現在の札幌市豊平区)に入植し、近代的な名望家へと立身した人物である。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大のため、調査の中断が余儀ないものとなった。 そこで今回は、仁太郎の豊平入植以前の動向について、北海道立図書館・国立公文書館などの収蔵資料を用いて明らかにしていこうと思う。本稿においては特に、近代的な名望家となった仁太郎が、貧困層の出身であったことを明らかにする。この成果は、名望家と豪農は必ずしも連続しないことを、間接的に示すであろう。
著者
スクーチナ イリーナ
出版者
北海道大学大学院文学研究院北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.23-42, 2022-03-25

本研究は、17世紀にカムチャツカ半島を訪れたロシア側の探検家がまとめた資料を歴史的な背景を配慮しながらエスノグラフィーとして読むことによって、ロシア人は当時、カムチャツカ半島南端とカムチャツカに近い千島列島の島に居住していたクリル民族をどのように捉え、どのように表象したかということに焦点を当て、その意味と理由を考察することを目的とする。カムチャツカ半島は、17世紀の半ばにロシア帝国のコサックにより「発見」され、1697年にアトラソフの探検隊によってロシア領とされた。ロシアの一部となった他のシベリア地域のように、カムチャツカもあらゆる側面から調査の対象となった。もちろん、ロシア人はカムチャツカの先住民族にも興味をひかれたので、その身体的な特徴や言語、生活様式についても記述している。その先住民族の中の1つが、カムチャツカ南端と、半島から南に延びる千島列島の島々に住む「クリル人」とロシア人に呼ばれていた民族であった。19世紀の初めにその民族の姿がカムチャツカから消滅したが、カムチャツカを探検した人からの記述が少々残されている。その内の1つがコッサックのウラジーミル・アトラソフの『第一の話』、『第二の話』として知られている報告がある。本研究では特に『第二の話』を中心に、先住民族とロシア人との関係性、また先住民族に対するロシア人の姿勢を見ていく。