著者
川本 皓嗣 Koji KAWAMOTO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-26, 2011-03-31

いわゆる漢文、あるいはその日本における具体的な存在様式である漢文訓読は、考えれば考えるほどふしぎなものである。その曖昧さ、正体のつかみ難さという点と、それとは裏腹の存在の重さ、巨大さ、根深さという点で、それはまさに日本文化の特性を典型的に表わしているようだ。この重要な現象が、かなり最近まで十分な注意を惹くことがなかったのは、たとえば和歌や俳句などの特異な詩の形式と同様、それが日本人にはあまりにもなじみ深い、ごく「当たり前」の制度ないし決まりだったからだろう。とはいえ、ほぼ今世紀に入った頃から、訓読をめぐる議論がようやく活発になりつつある。これは大いに歓迎すべきことだが、ただ、訓読という現象に正面から理論的な考察を加えたものは、まだそれほど多くない(もっとも、俳句であれ連句であれ、掛詞であれ切れ字であれ、あえて理論的・原理的、比較論的な穿鑿の対象にしないことこそ、日本文化の特質なのかもしれない)。そこであらためて、あえてごく初歩的・常識的な要素をも考慮に入れながら、翻訳論と比較文化論の両面から、漢文訓読という異言語読解のシステムを問い直してみたい。

言及状況

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引用:この「ゆらぎ」はいまなお続いている。外来の漢字・漢文が隅々にまで浸透し、日本語の「本来語」と分かちがたく共存している日本語という言語がある限り、この不安定な宙吊りの状態が解消することはないだろう。 vid. 漢文訓読とは何か ー翻訳論と比較文化論の視点から https://t.co/2rLluYv98o
たいへん読ませる紀要論文。「唖不能語」という行(くだり)をどう解釈するかという視座における論点がみごとに整理されている。 vid. 漢文訓読とは何か ー翻訳論と比較文化論の視点から https://t.co/2rLluYv98o #CiNii

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