著者
川本 皓嗣
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.(1)-(26), 2010

いわゆる漢文、あるいはその日本における具体的な存在様式である漢文訓読は、考えれば考えるほどふしぎなものである。その曖昧さ、正体のつかみ難さという点と、それとは裏腹の存在の重さ、巨大さ、根深さという点で、それはまさに日本文化の特性を典型的に表わしているようだ。この重要な現象が、かなり最近まで十分な注意を惹くことがなかったのは、たとえば和歌や俳句などの特異な詩の形式と同様、それが日本人にはあまりにもなじみ深い、ごく「当たり前」の制度ないし決まりだったからだろう。とはいえ、ほぼ今世紀に入った頃から、訓読をめぐる議論がようやく活発になりつつある。これは大いに歓迎すべきことだが、ただ、訓読という現象に正面から理論的な考察を加えたものは、まだそれほど多くない(もっとも、俳句であれ連句であれ、掛詞であれ切れ字であれ、あえて理論的・原理的、比較論的な穿鑿の対象にしないことこそ、日本文化の特質なのかもしれない)。そこであらためて、あえてごく初歩的・常識的な要素をも考慮に入れながら、翻訳論と比較文化論の両面から、漢文訓読という異言語読解のシステムを問い直してみたい。
著者
川本 皓嗣
出版者
日本学士院
雑誌
日本學士院紀要 (ISSN:03880036)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-20, 2023 (Released:2023-11-22)

Of the many works of Earl Miner, former President of the International Comparative Literature Association, who died in 2004, the most important is Monkeyʼs Straw Raincoat (1981). It is a meticulous English translation of the whole of the Sarumino , a consummate anthology of haiku and linked poetry (haikai-renga) by Basho and his school, accompanied by Minerʼs extensive introduction and detailed interpretations. Typically, a linked poem comprises thirty-six verses, which are composed at one sitting by three or more persons taking turns. “Long” verses of seventeen syllables alternate with “short” verses of fourteen syllables. The initial long verse, called hokku, should be a complete poem in its own right, with mandatory season-word and cutting-word. Often composed and appreciated by itself, hokku came to be called haiku in the nineteenth century, thus exempt from its original role as “starting” verse. The ensuing thirty-five verses, although semantically autonomous, cannot stand alone as poems. Each of them makes “poetic” sense only in conjunction with adjacent verses, either preceding or following it. (View PDF for the rest of the abstract.)
著者
川本 皓嗣 Koji KAWAMOTO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-26, 2011-03-31

いわゆる漢文、あるいはその日本における具体的な存在様式である漢文訓読は、考えれば考えるほどふしぎなものである。その曖昧さ、正体のつかみ難さという点と、それとは裏腹の存在の重さ、巨大さ、根深さという点で、それはまさに日本文化の特性を典型的に表わしているようだ。この重要な現象が、かなり最近まで十分な注意を惹くことがなかったのは、たとえば和歌や俳句などの特異な詩の形式と同様、それが日本人にはあまりにもなじみ深い、ごく「当たり前」の制度ないし決まりだったからだろう。とはいえ、ほぼ今世紀に入った頃から、訓読をめぐる議論がようやく活発になりつつある。これは大いに歓迎すべきことだが、ただ、訓読という現象に正面から理論的な考察を加えたものは、まだそれほど多くない(もっとも、俳句であれ連句であれ、掛詞であれ切れ字であれ、あえて理論的・原理的、比較論的な穿鑿の対象にしないことこそ、日本文化の特質なのかもしれない)。そこであらためて、あえてごく初歩的・常識的な要素をも考慮に入れながら、翻訳論と比較文化論の両面から、漢文訓読という異言語読解のシステムを問い直してみたい。
著者
川本 皓嗣
出版者
岩波書店
雑誌
図書
巻号頁・発行日
no.787, pp.20-24, 2014-09
著者
川本 皓嗣 Koji KAWAMOTO
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.(1)-(26), 2010

いわゆる漢文、あるいはその日本における具体的な存在様式である漢文訓読は、考えれば考えるほどふしぎなものである。その曖昧さ、正体のつかみ難さという点と、それとは裏腹の存在の重さ、巨大さ、根深さという点で、それはまさに日本文化の特性を典型的に表わしているようだ。この重要な現象が、かなり最近まで十分な注意を惹くことがなかったのは、たとえば和歌や俳句などの特異な詩の形式と同様、それが日本人にはあまりにもなじみ深い、ごく「当たり前」の制度ないし決まりだったからだろう。とはいえ、ほぼ今世紀に入った頃から、訓読をめぐる議論がようやく活発になりつつある。これは大いに歓迎すべきことだが、ただ、訓読という現象に正面から理論的な考察を加えたものは、まだそれほど多くない(もっとも、俳句であれ連句であれ、掛詞であれ切れ字であれ、あえて理論的・原理的、比較論的な穿鑿の対象にしないことこそ、日本文化の特質なのかもしれない)。そこであらためて、あえてごく初歩的・常識的な要素をも考慮に入れながら、翻訳論と比較文化論の両面から、漢文訓読という異言語読解のシステムを問い直してみたい。