著者
谷村 要 Kaname TANIMURA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.187-199, 2012-03-31

本稿は、アニメのモデル地域(アニメ聖地)となった場所を訪れる旅行者=アニメ聖地巡礼者に焦点を当て、彼らがアニメ聖地となった地域に向ける欲望について論じることを目的とするものである。アニメ聖地巡礼者は、地域との関わり方で分類すると、さまざまなアニメ聖地を行き来し各地域の情報を発信する「開拓者型」、特定の地域を繰り返し訪れる「リピーター型」、両者に追随する「フォロワー型」の3類型に分けることができる。このうち、「開拓者型」と「リピーター型」は地域主催のイベントにボランティアとして参加するなど能動的に地域と関わっているが、この両者が地域に求めるものはそれぞれ異なる。彼らの語りからは、前者がアニメ聖地巡礼をしやすい環境を望んでおり、後者が承認される場所=ジモトの構築を望んでいることがうかがえる。これらは異なる方向の欲望でありながら、アニメ聖地巡礼者が地域と関わる契機(趣味縁を通じた社会参加)となっている。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.139-174, 2012-03-31

朝日新聞を創刊し、日本を代表する新聞社に育て上げた村山龍平(1850〜1933)は、阪神間(神戸市東灘区御影町)にある香雪美術館の美術作品のコレクターとして知る人ぞ知る人物である。一方、村山龍平の生まれた伊勢国田丸(現在の三重県度会郡玉城町田丸)には、村山龍平の功績を顕彰した村山龍平記念館が建っている。村山龍平とはどの様なことを成し、なぜ現代にもその影響を与えている人物なのか。村山龍平は幕末に生をうけ、田丸藩の士族として活躍、明治維新後、大阪に移り住み、明治・大正・昭和のわが国の激動期を逞しく生き抜き、世界の朝日(新聞)を創り上げ、文化に多大の功績を残した人物である。まさに、新聞界の英傑の名に相応しい。この小論では、村山龍平の人となりと当時の社会の動き、村山龍平記念館の活動と建築について考察しようと思う。さらに、香雪美術館の所有する旧村山家住宅(国重要文化財)を併せて紹介しようと思う。小論により、近代日本の黎明期を生き抜き、実業界のみならず文化・美術の方面にもその才能の華を咲かせた村山龍平の成そうとした志のもつ今日的な意義を考察したい。
著者
鈴木 基伸 Motonobu SUZUKI
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.017-039, 2018-07-31

本稿では、日本語の難易形式「〜やすい」「〜にくい」が、目的格名詞句を、ガ格をとる場合と、ヲ格をとる場合とで、どのような意味の違いが生じるのかについて考察を行う。コーパスから、同じ動詞句でありながら、ガ格とヲ格が使用されている例を抽出し、それらの意味について比較・検討を行ったところ次のようなことがわかった。まず、「〜やすい」においては、ヲ格を使用した場合、ガ格が使用された場合に比べ、「意志の希薄化」が見られる。「〜にくい」においては、ガ格が使用された場合、ヲ格が使用された場合と比べ、動詞によって表される行為の遂行に対して焦点が当てられるようになり、意志性がより強く読み取れるようになる。この結論の他、「〜やすい」「〜にくい」においてヲ格からガ格へ、ガ格からヲ格への交替をブロックする要因についても明らかにした。前者については動作の「非意志性」が、後者については「評価性」「主題化可能性」がそれぞれの格交替をブロックする要因である。
著者
松原 秀江 Hidee MATSUBARA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.87-109, 2011-03-31

堀辰雄の文学に大きな影響を与えた女性たちが、彼の前に常に親子がらみで現れることに注目して、その誕生及び幼少年期を見ながら、『聖家族』に至るまでの作品内容とそれらを比較し、親がらみと裏返しをキーワードに、『聖家族』の書名が「聖母子」ではなく、「聖家族」だったことの意味を考える。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.55-74, 2016-03-31

公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団は、二つの意義あるミュージアムを持っている。それは、日清食品の創業者、安藤百福の意思を具現化したものである。一つは、池田市にあるインスタントラーメン発明記念館であり、あと一つは、横浜市にある安藤百福発明記念館である。両者に共通するものは、人間の創造力を通して、発明・発見のヒントを来館者に提示して、来館者に発明・発見の萌芽を涵養させようとする点にある。この二つの体験型の食育ミュージアムは、「食足世平」(食足りて世は平らか)という安藤百福の語録の具現化したものである。安藤百福は、インスタントラーメン、カップヌードル、スペース・ラムを発明し、また食文化に革新をもたらした。さらに、人間の幸福とは何か、人類の平和とは何か、を食の分野から解明しようとした真のベンチャー・スピリットを持った起業家であった。本論考は、安藤百福の最初の発明であったインスタントラーメンを研究した池田市に建っている記念館に焦点をあて世界的起業家・日清食品創業者 安藤百福について論考するものである。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.157-185, 2008

芦屋市谷崎潤一郎記念館は、明治・大正・昭和の時代を通して文豪の名に相応しい文筆活動をした小説家、谷崎潤一郎(明治19年〜昭和40年)の原稿、書簡、書籍、美術工芸品、愛用の日用品などを展示して、世界の谷崎文学の普及を試みたもので、昭和63年、芦屋市に開館された。明治44年、小説『刺青』、『麒麟』を発表した谷崎は、永井荷風に絶賛され、文壇の第一線に登場した。大正12年、関東大震災の後、関西に移り住み、確実にその文学の才能を開花させていった。昭和8 年、代表作の『春琴抄』、『陰翳礼讃』を発表している。昭和9 年、兵庫県武庫郡精道村打出下宮塚16(現在の芦屋市宮塚町12富田砕花旧居)に住み、創作に精進している。昭和10年には、谷崎潤一郎のインスピレーションの源泉となった女性・根津松子と結婚した。昭和18年、58才の時、芦屋の風土と日本の文化の古典美に想をえた名作『細雪』を発表するにいたる。昭和24年、『細雪』により朝日文化賞を受け、同年、文化勲章を受章した。昭和40年、80才で死去。記念館は、谷崎好みの数寄屋風に設計、庭園は京都市左京区下鴨の旧居、潺湲亭(せいかんてい)の庭を模して作られている。関西、谷崎が好んだ芦屋という風土、そこから生まれた文学作品、文豪の創作を助けたたたずまい、これらの要素をこの記念館は総合的に理解できる様に設計されている。風土と文学と建築美について論考しようと考えている。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.101-125, 2012

明治・大正・昭和を通して、実業界で活躍し、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝映画、宝塚歌劇、阪急ブレーブス、コマ・スタジアム、逸翁美術館、マグノリアホール、池田文庫、小林一三記念館等の創設の基礎にその才能・才覚を発揮した不世出の実業家・小林一三(1873〜1957)について紹介する。 特にこの小論では、小林一三の成した事業のうち、文化・美術方向を中心に逸翁美術館に焦点をあて論考しようと思う。本来、事業はそれを成した人の人格の反映と考えられる。後年、今大閤と言われた小林一三であるが、幼年期は、愛情の薄い家庭に育った。だが、その小林一三がどの様にして、その才能を開花させていったのか。小林一三の志とは何か、逸翁美術館成立の礎となったコレクションを貫流する美とはどの様なものか、これらについて考察する。
著者
田中 紀子 Noriko TANAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.123-137, 2011-03-31

Robert De Niroの主演、Martin Scorseseの演出により出来あがった映画『タクシー・ドライバー』(Taxi Driver)は1976年に公開された。兵士としてヴェトナム戦争に赴き、アメリカへ戻ってニューヨークでタクシー運転手の職に就くTravis Bickleを主人公とする作品で、孤独な彼の目を通して当時の都会にはびこるセックス、麻薬、暴力など様々な問題が描き出されている。実際には、Paul Schraderの脚本のセリフや場面設定、色の使用において幾つもの手直しが施されたのであるが、その結果さらにインパクトの強い仕上がりとなり、アメリカ1970年代半ばを代表する作品と称することのできる作品となっている。
著者
貝柄 徹 Toru KAIGARA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.83-99, 2012-03-31

地球温暖化防止のために二酸化炭素(CO2)、メタン(CH4)および一酸化二窒素(N2O)などの温室効果ガスの排出量削減の数値目標が設定されて以来、「地球環境に優しい乗り物」として自転車が再認識され始めた。中・長距離輸送面では鉄道もまた同様である。この両者の相互利用の歴史は古い。本稿では、日常的な鉄道への自転車の持ち込みから、その後のレジャーとしてのサイクリング列車(サイクルトレイン)および自転車を分解し袋に詰めて持ち込む「輪行」に至るまでの歴史的展開をレビューし、2011年に近畿日本鉄道が実施したサイクルトレインの現状と問題点について考察する。
著者
川田 真弘 Masahiro KAWADA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.261-274, 2017-03-31

福島県会津若松市東部にある飯盛山は、白虎隊自刃の地として知られ、山の中腹には亡くなった白虎隊士を偲んだ墓があり、その墓の対面にはイタリアから送られたという記念碑がある。この記念碑が寄贈された当時(1928年)の新聞に、下位春吉(1883~1954)という人物が、売名目的で記念碑建立計画を会津出身者に持ちかけた、という内容の記事が掲載されている。本稿では、下位春吉とはどのような人物であり、白虎隊記念碑がどのような経緯で建立されることになったのかを検討する。本稿では、まず下位春吉がどのような人物であるのかを示し、また下位名義で出版された本を基に、彼がファシズムをどのように見ていたのかを考える。次いで、外務省外交資料館所蔵の『本邦記念物関係雑件/白虎隊記念碑関係 第一巻』を基にどのような経緯で白虎隊記念碑が建立されたのかを概観。そして最後に、下位がでたらめの白虎隊碑建立計画をもちかけた理由として、下位自身とムッソリーニとの近しさをアピールすることで、日本国内における下位のファシストとしての地位を明らかにすることを目的としていたと考察する。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.101-125, 2013-03-31

明治・大正・昭和を通して、実業界で活躍し、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝映画、宝塚歌劇、阪急ブレーブス、コマ・スタジアム、逸翁美術館、マグノリアホール、池田文庫、小林一三記念館等の創設の基礎にその才能・才覚を発揮した不世出の実業家・小林一三(1873〜1957)について紹介する。 特にこの小論では、小林一三の成した事業のうち、文化・美術方向を中心に逸翁美術館に焦点をあて論考しようと思う。本来、事業はそれを成した人の人格の反映と考えられる。後年、今大閤と言われた小林一三であるが、幼年期は、愛情の薄い家庭に育った。だが、その小林一三がどの様にして、その才能を開花させていったのか。小林一三の志とは何か、逸翁美術館成立の礎となったコレクションを貫流する美とはどの様なものか、これらについて考察する。
著者
加藤 恵梨
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.109-125, 2019-08-31

接続詞「ついては」とその丁寧形である「つきましては」は、ビジネス文書や手紙で多用される。その場合、それらはどのような機能と意味を有するのであろうか。本稿では、市販のビジネス文書文例集および『現代日本語書き言葉均衡コーパス』を用い、提示されているビジネス文書や手紙等を分析することにより、それらの機能と意味について分析した。分析の結果、次の三点が明らかになった。一つ目は、「ついては」および「つきましては」の機能についてである。それらが用いられるのは、文章中で主張したい点が二つある場合であり、より主張したい一点目を述べた後、一点目に付随して生じるお願いごと等(二点目)を切りだす際に用いられる。二つ目は、「ついては」および「つきましては」が表す意味についてである。それらは、「そういう理由で」と「そのことに関して」という二つの意味を有する。三つ目は、「ついては」が小説における会話文で使われる場合の機能や意味も、ビジネス文書などで使われる場合と同じであるということである。
著者
伊藤 博 Hiroshi ITO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.17-32, 2012-03-31

明治維新前後において、福沢諭吉ら洋学者達が近代科学を子どもにまで広めようとした。なかでも江戸末期の1868年(明治元年)に福沢諭吉が発行した『訓蒙窮理圖解 初編 上(中・下)』(上巻は表裏表紙含め全52葉)は、すべての漢字にルビを付し、所々にその頁の内容に沿った図などを挿入するなどはじめて子どもを対象とした科学読み物であったと考えられる。その後、この書物に触発されて明治五年から明治七年にかけて「窮理熱」と呼ばれる科学読み物がさかんに出版されるようになり、科学入門書の一大ブームが起きた。これは科学入門書が一般庶民の読み物として広がりつつあった事を裏付けるものである。こういった科学書が一般庶民の読み物として成立するためには、読者層において高いレベルの識字率が必要とされるのが前提である。さらに、各種の研究から明治維新前後の一般庶民の識字率は相当に高かったことが知られている。そこで本稿では、一般庶民にまで教育が施されるのはいつのことからであり、その教授法はどのようなものであったのかについて明治維新前後の当時の資料をもとにして考察していきたい。
著者
古田 榮作 Eisaku FURUTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.33-50, 2008-03-31

五十余人の善知識を訪問し、信仰を深めた善財童子は、愈々彌勒菩薩の所にやってくる。善財は彌勒に「どのように菩薩は菩薩行を学び菩薩道を修められるのでしょうか。お教えください」と懇願すると、彌勒は大樓観にいた大衆の前で「この童子は、不退轉の心で厭きることなく勝れた法を習得しようとして、善知識を求め。親近し供養し法を聞き受持しようとしてきた。この童子は、かって頻陀伽羅城で文殊師利の教えを受けて、善知識を求め、多数の善知識に菩薩行を問い、心に疲倦無く、とうとう私のところにやってきた。この童子のように大乗を学ぶものは甚だ稀有である。」と善財を讃えた上で、「このように学ぶ者は、則ち能く菩薩所行を究寛する。大願を成満し、佛菩提に近づき、一切刹を浄め、衆生を教化し、深く法界に入り、一切の諸波羅蜜を具足し、菩薩行を広め、一切の諸善知識に値遇し、生涯に能く普賢菩薩諸行を具えるであろう。……」と善財の成道の近いことを宣言し、文殊師利に諸の法門と、智慧の境界と、普賢の所行を問うよう勧めるが、善財の更なる菩薩の行を学び、菩薩の道を修する方法の問いにあなたは文殊師利をはじめとする善知識に遇うこともでき、それなりの器の持主でもある。善知識の教える所は諸佛を護念することである。悟りを求める気持である、菩提心は諸佛の種子であり、良田であり、大地であり、浮水であり、……と諭し、善財の成道への大願が不退転のものであるとして、大樓観の中に導き入れられる。樓観の中で自分自身の姿を見るとともに佛の描かれた世界が現出していた。その中で深い三昧に耽っていると彌勒は指を弾き、善財を三昧から覚醒させてお主は菩薩の神力をすべて目の当たりにしたと告げられ、彌勒の示した法門は「入三世智正念思惟荘嚴藏法門」であると示され、菩薩の十種の生庭を示され、その上あなたが先ほど目にしたすばらしい光景は文殊師利の威神力によるものであるとも告げられ、普門城に詣でると文殊師利は手を差し伸べて「でかしたぞ善財、若し信心の根を離れれば憂悔に埋没してしまうであろうし、功徳が具わらねば精勤しようとする心も失せてしまうであろうし、多少の功徳に満足しようものならそれで進歩は止まってしまったであろうに……」と善財の精進を讃え、更にすべての法門、大智光明、菩薩陀羅尼、無量三昧、無量智慧をお主は成就してので、普賢の所行の道場へ入らせるようにした。普賢菩薩は、一つ一つの毛孔より光を放ち、世界を照らし、衆生の苦患を除滅して菩薩の善根を出し、……とさながら盧舎那如来の光の世界を現ぜられる光景に接した。この光景を目の当たりにして善財は不可壊智慧法門をわがものにした。普賢菩薩は、「私は測り知れないほどの長期間に亘って菩薩の道を修め、菩提を求め続けてきた。その功徳で不壊の清浮なる色身を得たので、私の名を聞き、私の姿を見たものは必ず清潭の世界に往き、清浮なる身になるであろう」と諭し、普賢の現じた光の世界に觸れた善財の成道も実現したのである。「譬如工幻師能現種種事佛爲化衆生示現種種身」とされるのであり、「聞此法歓喜信心無疑者達成無上道與諸如来等」と結語する。善財の求道は師・善友(善知識)をを訪ねて教えを請い、その教えを通じて信を深めていくものであったが、ゴータマ・ブッダの場合は、修行法・瞑想法を学ぶための師は求めたが、師と仰ぐ師は見当たらない。瞑想し、思惟することを通じて人生の悩みの解決をはかり、苦行による悟りから離れ、悟りへの障りとなる欲望、嫌悪、飢渇、妄執、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、みせかけ・強情・名声と他人の蔑視という悪魔を斥けてきたのである。善財の修行の姿には慨怠も見られず、苦悩も見当たらない。経典の中で理想化された修行者の姿と生身の人物?との差異が表れているように思われる。佛教では勤習・数習・薫習という語を重要視する。それは「諸悪莫作諸善奉行自淨其意是諸佛教」を求める。なにげない行動の中に自ら善に趣き悪を避ける、身に染み付いた智慧の習得を求めているものであろう。
著者
丹羽 博之 Hiroyuki NIWA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-24, 2013-03-31

以前に「大和田建樹作詞「旅泊」と唐張継「楓橋夜泊」-明治唱歌による和洋中文化の融合-」(大手前大学人文科学部論集 第六号 二〇〇六年三月)、「大和田建樹作詞「旅泊」と唐張継「楓橋夜泊」と「灯台守」と英国賛美歌」(第十回東アジア比較文化国際会議(二〇〇八年一〇月 大韓民国 高麗大学)の論において、大和田建樹は唱歌「旅泊」において、「楓橋夜泊」詩を巧みに利用して、明治唱歌として、初めての芸術的な唱歌を作詞したことを述べた。 また、この曲は櫻井雅人氏によって、亜米利加のスクールソング"The Golden Rule"の利用が証明された。その後、「旅泊」の曲は、昭和二十二年文部省の音楽の教科書に「灯台守」として載り、更に同じ題で、韓国に伝わり、日本では殆ど歌われなくなった「灯台守」が今も韓国では歌い継がれていることを述べた。今回の発表では、(1)「旅泊」の題は『唐詩選国字解』の当該詩の解説の冒頭「旅泊ノコトナレバ」を参照して、大和田建樹は「旅泊」の題名を思いついたのではないかと推察した。(2)「楓橋夜泊」詩の日本での受容の例を探し、絶海中津(一三三六〜一四〇五)の詩を初め、五山文学のころから受容されたらしい。その他、日本国使と称して朝鮮半島に渡った玄蘇が一五八〇年に、慶州の奉徳寺の鐘をみて「楓橋夜泊愁眠客」の詩句を詠じた例がある。(3)韓国においては、高麗末の詩人李穡(一三二八〜一三九六)の詩集「牧隠詩藁」(巻十一)の「秋日。奉懐懶残子。因述所懐。吟成 五首(其一) 奉呈籌室」詩に、 「回首天台欲断腸、石橋人影掛夕陽、如今却似寒山寺、半夜鐘声到病牀」とあるのが、現在残る最古の例。(4)「月落烏啼」の名句は已に中唐劉禹錫の「踏歌詞四首(其三)」に、「新詞宛転遞相伝、振袖傾鬟風露前、月落烏啼雲雨散、遊童陌上拾花鈿」の例が見られ、韓国の漢詩に二十例見られる。等の事を指摘した。
著者
川本 皓嗣 Koji KAWAMOTO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-26, 2011-03-31

いわゆる漢文、あるいはその日本における具体的な存在様式である漢文訓読は、考えれば考えるほどふしぎなものである。その曖昧さ、正体のつかみ難さという点と、それとは裏腹の存在の重さ、巨大さ、根深さという点で、それはまさに日本文化の特性を典型的に表わしているようだ。この重要な現象が、かなり最近まで十分な注意を惹くことがなかったのは、たとえば和歌や俳句などの特異な詩の形式と同様、それが日本人にはあまりにもなじみ深い、ごく「当たり前」の制度ないし決まりだったからだろう。とはいえ、ほぼ今世紀に入った頃から、訓読をめぐる議論がようやく活発になりつつある。これは大いに歓迎すべきことだが、ただ、訓読という現象に正面から理論的な考察を加えたものは、まだそれほど多くない(もっとも、俳句であれ連句であれ、掛詞であれ切れ字であれ、あえて理論的・原理的、比較論的な穿鑿の対象にしないことこそ、日本文化の特質なのかもしれない)。そこであらためて、あえてごく初歩的・常識的な要素をも考慮に入れながら、翻訳論と比較文化論の両面から、漢文訓読という異言語読解のシステムを問い直してみたい。
著者
田中 紀子 Noriko TANAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.9, pp.187-202, 2009-03-31

John Steinbeck の小説Of Mice and Men は、1930年代のカリフォルニアの農場を渡り歩く労働者二人の友情を中核とし、彼らの夢とその崩壊を描いた作品である。最初の映画化は1939年に行われ、それ自体の評価は良かったが、原作との違いには喜ばしくない点も見受けられる。それ以後1992年にはGary Sinise 監督・主演で新たに制作された映画は、概ね原作に忠実だと認められてはいるが、それでもいくつかの変更箇所が目につく。本稿では、小説のテーマである孤独、それを表わす人物であるCandy とCrooks とCurley の妻、さらにオープニングとエンディングの描き方についてこの1992年版の映画と比較し、原作者の意図と照らし合わせながら検討する。
著者
石毛 弓 Yumi ISHIGE
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-14, 2016-03-31

さまざまな哲学者たちが人格の同一性に関する論を展開しているが、なかでもデレク・パーフィットは彼独特の一種ラディカルな見解を示している。それを端的に示せば、「人格の同一性は、私たちの生存にとってもっとも重要なものではない」になるだろう。この見解は彼自身が認めている通り、一般的な経験からすると受け入れることが難しいものである。本論は彼がこの見解に至った過程を考察するとともに、その妥当性を功利主義の観点から検討する。まずパーフィットにおける人格の同一性の概念を、彼の論に沿って「非還元主義」と「還元主義」に分けて解説する。非還元主義とは、人格はなにかによって説明され得るものではなく、それそのものとしか表しようがないとする考えを指す。他方、還元主義では、人格の同一性はなんらかの経験的なものによって説明され得るとみなされ、彼自身の考えは大きくくくればこちらに与する。人格の概念に対してパーフィット流の還元主義を選択した場合とそうでない場合では、私たちの思考や態度は変化するだろう。後半ではこの変化をとくに功利主義の観点から追い、人格に対する彼の主張を検証する。
著者
安藤 幸一 Koichi ANDO
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.21-31, 2010-03-31

FD (Faculty Development)とは、19世紀初頭の、ハーバード大学における有給長期研究休暇 (サバティカルリーブ)にその起源を求めることができると言われている。これは、大学教員の資質を担保するための研究活動支援と言い換えることもできるだろう。しかし、アメリカでは、第二次大戦後、大学の数が急増し学生が多様化することによって、また、不況により学生数の減少が顕著になると、教員は研究活動にとどまらず、広く教育活動、ことに授業におけるプロフェッショナルとしての資質を問われることになる。アメリカにおいては、各職業専門分野の資質は、プロフェッショナル・ディベロップメント (PD)という、極めて自主・自律的な活動によって保証されてきたが、大学におけるFDも、研究活動支援の枠を超え、このPDの一環としてその重要性が認識され、教育のプロフェッショナルとしての資質向上をめざす集団的自己教育活動としての道を歩むことになる。しかし、90年代以降、こうした異なった社会的・教育的環境の中で発達したFDが、日本においては政府主導で「輸入」され、2007年にはついに義務化されることになった。本来、極めて自主的な自己教育活動であったFDが「義務化」されることは、それ自体大きな矛盾である。あえて、これを「日本型FD」とよぶならば、私たちは、この事態にどのように対処したらよいのか、あるいは、むしろ大学改革の好機として積極的に捉えることも可能なのではないか、という思いをこめて記したものが、この研究ノートである。