著者
水野 恭一郎
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.509-543, 1971-07-01

個人情報保護のため削除部分あり嘉吉の乱から応仁・文明期の頃にかけて、多くの守護大名家において、その領国支配の実質が守護の代官的被官層の手に握られてゆく状勢が目立つ。しかし、このような守護代層の行動も、当時においては、なお室町幕府=守護体制の外での自立的行動として出てきたものではなかった。かれらは、衰退期にありとはいえ未だ権威を失いきってはいなかった将軍=守護権力を利用するに最も近い位置を占め、他面、領国における在地の勢力として成長しつつある中小領主層を直接に掌握し得る在地性を、守護よりもより多くもっていた。この衰退期の幕府=守護体制の中での上部権力と下部勢力の結節点を握る中間勢力的な存在が、この時期における守護代層の姿であり、そのことがまた、かれらの権勢を大ならしめた基礎条件でもあった。このような守護代層の姿を、応仁・文明期前後の守護赤松家において中核的な勢力を形成した宿老浦上則宗の動向を通じて考察を試みた。From the Revolt of Kakitsu (1441) up to the Wars of Ohnin and Bunmei the governance of the shugo families in their territories came gradually into the hands of the stewards who were originally the clients of those magnates. Though audacious their activities came to be, they could not appeal to thier own power independent of the government of the Muromachi Bakufu with its network of shugo families. True, the shugos were declining, but their authorities were recognized as such. It is why those stewardial classes still moved in the orbit of the established order, but at the same time they were in the far more advantagious status to get in contact with the medium-sized and smaller lords who were growing in power in the remotest and robust countrysides. In short, the stewards of those shugos placed themselves in the midway of the social ladder of the time with the result of the accumulation of power in any way and other. This is to clarify one of those stewards or a protégé in the person of Norimune of the Uragami family who were in the back of shugo Akamatsu who were in turn playing a conspicuous role in the political world before and after the Ohnin-Bunmei era.

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赤松政則と浦上則宗の関係は、水野恭一郎『赤松被官浦上氏についての一考察―浦上則宗を中心に―』で存分に語られています。40年前に発表されたものですが、守護代とはなんぞや、その「下剋上」に興味ある方には読んでいただきたい論文。(なお、則宗は守護代ではありません) https://t.co/8gP2x4rJSg
なお、この性説とは『南方御退治条々』に「為神璽出現計略、小寺藤兵衛入道性説、和州罷下、小河中務少輔相共、種々廻計略」とある、神璽奪還作戦の中心となった人物です。参考論文はこちら、水野恭一郎『赤松被官浦上氏についての一考察ーー浦上則宗を中心にーー』 https://t.co/8gP2x4rJSg
@shima_126 浦上祐宗については、水野恭一郎先生のこちらの論文以来、安富元家の子息という解釈で確定的な状況だと思います。『弘法寺文書』の古系図と『蔭凉軒日録』の記述内容の一致が決め手となっているようです。 https://t.co/8gP2x4rJSg
この一件は、水野恭一郎先生の『赤松被官浦上氏についての一考察―浦上則宗を中心に―』でも、守護を凌ぐ守護代層の武将たちの実力を示す事象の一つとして引用されていますね。(「依貧乏不可叶」でWeb検索してヒット。確かに印象的なフレーズです。笑) https://t.co/8gP2x4rJSg

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