- 著者
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佐久間 大介
- 出版者
- 史学研究会 (京都大学文学部内)
- 雑誌
- 史林 (ISSN:03869369)
- 巻号頁・発行日
- vol.90, no.3, pp.425-453, 2007-05
本稿では、アルプスの南北にまたがり、多数派のドイツ語系と少数派のイタリア語系住民から構成されるティロールにおいて、ドイツ語系エリートがどのように「地域」や「境界」を認識していたかを考察した。分析対象としたのは、ティロールでは一七世紀に出現し、一八世紀に活況を呈した領邦に関する地誌、すなわち領邦誌である。 一七世紀における領邦誌の成立は、ティロールを他とは異なる一つの「祖国」とする見方を前提としていた。だが、当時の領邦誌作者は、独立した聖界領であったトリエント司教領、ブリクセン司教領とティロール伯領の国制上の栢違を無視できなかった。一八世紀には、ティロール伯領とトリエント、ブリクセン司教領の区別が重視されなくなり、かわって、新たな「境界」設定の基準が浮上する。ここで、ティロール内部の言語や「民族」性の違いへの言及があらわれたことは確かである。だが、ドイツ語系エリートは、産業・農業の正確な把握をより重視し、気候や植生におけるアルプスの南北の相違を、「地域」区分のもっとも重要な指標としていた。 ティロールが、外部から完全に切り離された空間とされていたわけではないことも重要である。一七・一八世紀の領邦誌作者は、ティロールが神聖ローマ帝国に属していることを当然視し、「ドイツ」の一部としてティロールを捉える認識も共有していた。一八世紀の領邦誌では、これに加え、ハプスブルク帝国という枠組みの存在感も高まったが、中央集権化に抵抗する諸身分の議論も反映された。地理的位置の特殊性を指摘することで、ハプスブルク帝国におけるティロールの重要性を強調するようになったのである。 一九世紀以降に強まったドイツ語系とイタリア語系住民の対立や、第一次大戦後の分割の歴史を持つティロールでは、その「一体性」が常に強調されてきた。しかし、本稿で明らかにしたように、一つの固有の空間として領邦を把握する領邦誌においても、「地域」の複合的性格や「境界」の流動性を見てとることができるのである。