著者
小塩 慶
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.100, no.6, pp.641-677, 2017-11
著者
Millar Fergus G.B. 井上 文則
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.499-517, 2000-05

個人情報保護のため削除部分あり
著者
橋本 初子
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.62, no.5, pp.p671-696, 1979-09

個人情報保護のため削除部分あり今日、神社に伝来している古文書のなかに、「御奉行所候也」という書止め文言の文書がある。この文書は、様式的には御教書であり、公刊の史料集では、すでに御教書として扱われてきている。しかし、これらの文書はたんなる御教書ではなく、実際には院宣・綸旨として機能していた。本来、院宣は院司奉書、綸旨は蔵人奉書という形式が、いずれも原則であるが、本稿に紹介する「御奉行所候也」の院宣・綸旨は、かかる普通の院宣・綸旨をさらに下位の庁務主典代や蔵人所出納がもう一度奉じて、宛所に伝達するという二段構えの奉書形式である。本来の院宣・綸旨は、官職を帯し、政治機構内に位置しなければもらえなかった。そして官職についていないが、上皇 (天皇) の命令が伝達されねばならない時、本来の院宣・綸旨とは別形態の「御奉行所候也」の形式によって、院宣・綸旨が伝達された。本稿では、従来の古文書学では扱われなかった、この別形態の院宣・綸旨の実態について考察するものである。
著者
堀 裕
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.38-69,131, 1998
被引用文献数
1
著者
勝山 清次
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.97, no.6, pp.813-848, 2014-11

一一世紀前半以降、神社による怪異の訴えと朝廷でのト占(軒廊御卜) の実施が急増する。本稿はその要因と歴史的な意義を究明したものである。軒廊御トが増えはじめる一一世紀前半、貴族の間でその時代を乱れた末世とみる末代観が深まるにつれ、彼らは将来の災厄をもたらす神の崇りの予兆である神社の怪異に敏感に反応するようになり、神社側が自己主張を強化したことと相挨って、卜占の盛行をもたらすにいたった。卜占が盛んに行われるようになると、貴族たちは崇りをもたらす神事の違犯に鋭敏になり、穢れを避けようとして忌避を強化する。それは日常的に神事に関わっていた天皇周辺から始まり、次第に範囲を広げていった。一一世紀後半以降、天皇の名で行われる恩赦において、しばしば神社の訴えに触れるものを対象から除外する措置がとられるが、これも神慮に背く行為を慎み、神事不信による神の崇りを避けようとする点で、穢れ忌避の強化と同根である。神社における怪異はまた、神の崇りが現れる前に、それを人間に知らせ手立てをこうじさせる予兆の意味をもっていた。神はあらかじめ予兆することによって、崇りを避けるための対応を求め、そうした人間の行為に応えようとしているのであり、ここに中世的な「応える神」が明確な形をとって現れているとみることができる。一一世紀前半から中葉にかけては、こうした神が性格変化をとげる画期でもあったのである。
著者
吉本 道雅
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.3, pp.418-446, 2010-05
著者
藤本 博生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.59, no.6, pp.p902-929, 1976-11

個人情報保護のため削除部分ありパリ講和会議を控えて、日本と中国の進歩的知識人は、ウィルソン主義と自らの民主主義的運動とをオーバーラップさせ、これを賛美した。だが、日本の外務省は、中国に対する帝国主義的野心を満たすため、一方で外交部に対する圧迫を続けるとともに、他方で人種差別撤廃に名を借りて欧米先進帝国主義列強を牽制した。民本主義者は、このような「人種案」を批判したけれども、国家主義者やブルジョア新聞は、それぞれの立場からこれを「支持」した。国際聯盟規約から人種差別撤廃条項が除外された時、日本の世論における国際協調的傾向は影をひそめ、東亜モンロー主義が高らかに唱えられた。中国では、ウィルソン主義への期待から一時は楽観的な雰囲気が人々の心を覆っていたけれど、「五大国」のひとつである日本の相変らぬ外交姿勢、とくに小幡公使の恫喝に、戦後世界もまた権力政治の支配する場であることが認識された。この認識を通じて、中国の進歩的知識人は共産主義へより一層接近した。こうして日本と中国は、その歩む道を決定的に異にすることとなったのである。
著者
金 玄耿
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.100, no.4, pp.465-490, 2017-07
著者
松下 涼
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.91, no.4, pp.694-727, 2008-07

九三〇年頃の法と集会制度の成立から、一二六二/六四年のノルウェー王に対する臣従誓約に至るまでのアイスランドは、近代以降「自由国」と呼ばれ、大権を戴かない社会として知られている。本稿では、「自由国」とノルウェー王権受容との関係を再考する試みとして、アイスランド固有の散文物語「サガ」を主要史料とし、一三世紀のアイスランドにおける平和と権力の在り方を解析した。従来、一三世紀前半は、有力者間の権力闘争の激化により、王なき「自由国」を支えていた血讐(報復義務)を基盤とする平和維持システムに破綻を来す時期と捉えられてきた。しかし、ノルウェー王との関係も視野に入れると、支配者層に対し一定の発言力を保ち持ち続けていた農民集団が、新たな「平和維持者」としてノルウェー王を選択した可能性も窺える。また、王権受容後に関しては、王による法制度の改編のみに考察が偏ってきたが、同時期を描くサガに着目すると、血讐の存続も確認される一方、ノルウェー王の裁判権が直接対面することのない農民層にも徐々に拡大してゆく様子がみてとれる。すなわち、二二世紀アイスランドは、ノルウェー王権をも構成要素のひとつとする平和維持システムの緩やかな変容過程にあったのである。
著者
今谷 明
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.63, no.6, pp.p976-992, 1980-11

個人情報保護のため削除部分あり
著者
高橋 秀直
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.76, no.5, pp.p673-709, 1993-09

個人情報保護のため削除部分あり本稿は、最近研究が活発化している征韓論政変について、その実態と歴史的意義の解明を試みるものである。 留守政府期において、急速な近代化を目饗し野放図に開化政策を拡大しようとする諸省と、それを一定の枠内に抑えようとする大蔵省(これは木戸派が支配していた) との間で、激しい対立が生じた。さらに明治五年後半になると、木戸派を除く政府の大勢は対外強硬論に傾き、台湾への出兵を主張するようになり、これを阻止しようとする木戸派大蔵省と厳しく対立した。大蔵省は征台の阻止には成功した。しかし明治六年五月の政府改革で江藤新平らにより木戸派の大蔵省支配が打倒されると、対外強硬論への政府内の歯止めは失われてしまう。こうした中で朝鮮より広津報告が到着すると、留守政府の対外強硬志向は朝鮮に向けて噴出し、八月一七日、戦争につながる可能性の極めて高い、西郷隆盛の朝鮮への使節派遣が「内決」された。 一方外遊より帰国してきた岩倉使節団のメンバー、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは、江藤ら留守政府に反発し、政府改造を期した。また岩倉ら使節団派は、内治優先の立場より戦争は避けるべきと考えており、西郷の派遣に反対であった。このように権力闘争・朝鮮政策の両次元で使節団派と留守政府は対立した。しかし一〇月一一日西郷が自らの派遣の正式決定について強硬な意向を表明すると、逆に、朝鮮問題での政府の分裂を避けようとする妥協的な動きが、両者の間に生まれることになる。しかし一四、一五日閣議で西郷の固執により妥協は成立せず、両者は朝鮮政策について決定的に対立することになった。そして結局、三条実美の決断で西郷遣使が決定した。 敗北した使節団派は、閣議直後より逆転に向けて動き三条に圧力をかけた。このため一八日、三条は発病した。一九日、留守政府派を中心とする閣議は、岩倉の太政大臣代理就任と朝鮮問題再評議のための閣議開催を決定する。しかし天皇側近に対する工作により秘密のうちに天皇の支持をとりつけていた、岩倉らは、再評議を行わずこのまま先の閣議決定に反対する上奏を行うことを決めた。これに対し留守政府派は二二日岩倉を訪れ詰問するが、彼の意見を変えることはできなかった。二二日岩倉は上奏を行い、翌日裁可、使節団派は勝利をしめたのである。明治五年後半以降の留守政府内の対外強硬論の高まりは、開化政策の強行により生じた社会各層の不満をそらそうとする意図をもつものであり、明治四年以降の開化への競合の帰結と言えるものであった。 明治六年の一連の政変の結果、政府の中枢は大久保派がしめることになったが、これは明治二年以降続いていた行政における木戸派の優位の終焉、木戸派から大久保派への主導権の移行を示すものであった。This article attempts to elucidate the actual conditions and historical significance of the political changes surrounding the debates on the Expedition to Korea, an issue which has recently been the object of much research. During the fifth and sixth years of the Meiji period, fierce opposition developed between those ministries which attempted to enlarge haphazardly an "enlightened policy (開化政策)" in order to modernize rapidly and the Ministry of Finance, controlled by the Kido group, which tried to restrict This policy. During the latter of the fifth year of the Meiji, except for the Kido group, most people in government tended towards a hard line towards foreign countries and came to advocate an expedition to Taiwan. The Ministry of Finance firmly opposed this tendency and prevented the expedition. In the governmental reform of May, the sixth year of the Meiji period, the Kido group's control over the Ministry of Finance was broken by Eto Shinpei. As a result, this brake on taking a hard line towards foreign countries was lost. It was under these conditions that the Korean issue came to a head, and the government decided to dispatch Takamori Saigo, a man extremely likely to escalate matters to war, to Korea on August 17th. Members of the Iwakura Mission such as Iwakura Tomomi, Okubo Toshimichi, and Kido Takayoshi who returned from abroad opposed the Eto group and hoped to reform the government. The Iwakura group did not approve of sending Saigo, believing that domestic affairs should be given first priority and that war should be avoided. In this way, the opposition between the two groups took form on two levels of a struggle for power and a policy towards Korea. Thus, in August, whether or not to approve dispatching Saigo, who had been''decided upon informally (内決), " became a critical issue for the government. When Iwakura had returned in September, the government was faced with a number of outstading problems, the Korean issue being only one of them. However on October 11, Saigo demanded a formal decision as to whether ha was to be dispatched. The Korean issue having become so prominent, there arose a movement towards compromise between the groups to avoid splitting the party. Because of Saigo's intransigence in the cabinet session of October 14th and 15th, compromise was not possible and opposition between the two groups became absolute. By the decision of Sanjo Sanetomi, Saigo was dispatched to Korea. Immediately afetr the cabinet session, the defeated group began work to reverse the situation, applying pressure to Sanjo. On October 18th, Sanjo fell ill. On October 19th, the Eto group-led cabinent session decided to hold a cabinent session in order to appoint Iwakura to acting Prime Minister and to discuss the Korean issue once more. However, the Iwakura group secretly gained the Emperor's support, maneuvering matters to the close advisors of the Emperor. Iwakura decided not to discuss the issue and instead addressed a memorial directly to the throne in which he objected to the previous decision reached by the cabinet. In response, on October 22nd, the Eto groups cross-examined Iwakura, but he did not change his opinion. The same day, Iwakura addressed a memorial to the throne which was approved the next day, and the victory of the Iwakura group was clear. The rise of a hard-line stance towards foreign countries within the government from the latter half of the fifth year of the Meiji period onwards was to divert the discontent of various social strata which had emerged from the forced implementation of the enlightned policy. In a sense, it was the end of the competition for enlightenment begun in the fourth year of the Meiji era. As a result of a series of political changes in the sixth year of the Meiji era, the Okubo group occupied the heart of the government. This brought an end to the control of the Kido group in the administration which had lasted from the second year of the Meiji era and ushered in a shift in political initiative from the Okubo group to that of the Kido group.
著者
小塩 慶
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.99, no.2, pp.290-311, 2016-03
著者
藤井 讓治
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.93, no.3, pp.361-389, 2010-05
著者
松村 寛之
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.272-302, 2000-03
著者
水野 恭一郎
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.1-35, 1971-07
著者
坪井 剛
出版者
史学研究会
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.98, no.1, pp.32-68, 2015-01