- 著者
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瀧本 哲哉
- 出版者
- 京都大學人文科學研究所
- 雑誌
- 人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
- 巻号頁・発行日
- no.115, pp.193-222, 2020
戦間期の京都には花街(貸座敷免許地)が16か所あり, 京都府内外から大勢の遊客が花街を訪れていた。全国的にみた京都花街の特異性は, 人口や工業生産額との対比でみて娼妓数が他府県と比べて際立って多いことである。当時の京都は「繊維の街」であったが, 「遊廓の街」でもあったのである。1920年代前半に芸娼妓数が急増し, 遊客数や遊興費も増加して, 花街はおおいに賑わった。その背景としては, 府内の繊維産業の業況回復に伴って遊客の遊興費支出額が増加したこと, 1928年(昭和3年)の昭和の大礼による観光客の増加が遊客数の増大につながったことが挙げられる。戦間期の京都府内の花街は, 芸妓主体の花街と娼妓主体の花街(遊廓)に分化していく過程にあった。芸妓主体の花街は, 1930年代に入ってから芸妓数が減少し, 遊興費も落ち込んで地盤沈下していった。一方, 娼妓主体の花街(遊廓)では, 1930年代前半も郡部を中心に娼妓数や遊客数の増加が続いた。京都花街の経済的な位置付けをみると, 芸娼妓は毎月多額の賦金や雑種税を京都府に納付していた。その金額規模は, 商工業者等に課される京都府税の3割前後にまで達しており, 不況期には芸娼妓の税額が府税落ち込みの下支えの役割を果たした。そして, この恩恵を享受していたのは専ら京都府民である。また, 花街が吸い上げた遊興費は, 1920年代前半には京都府歳入総額にほぼ匹敵する規模にまで達していた。さらに, 花街では数多くの芸娼妓が稼業を営んでおり, 衣装代などの多額の支出を行っていたことから, 呉服商など関連業界は大きな恩恵を受けていた。このように, 花街は消費経済の主要な事業体として京都経済に組み込まれており, 地域経済の循環の一翼を担っていた。芸娼妓は賤業と蔑まれながらも, 納税などを通じて京都経済の発展に寄与していた。京都府民も間接的に芸娼妓から搾取していたのである。