著者
水内 勇太
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.108, pp.85-96, 2015

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第II部 :近代日本宗教史における〈皇道〉のポリティクス≫本稿は, 民衆宗教, 近代民衆宗教の代表的な一つであり, その中でも特異な存在といえる大本教が「皇道大本」と自称するに至るまでの過程を, 大本聖師, 出口王仁三郎と「皇道」言説の展開を中心に再構築する事を試みる。「皇道」の語は彼の自伝である『本教創世記』執筆時である明治37 年(1904)頃に理論の中核として意識され始められ, その理論は教団内での対立と孤立を受けて, 新たな自分自身の教学を体系化しようとする中で打ち立てられたものであった。大本教の初期教団とされる金明霊学会も, 出口なおとなおが所属する金光教, そして自身の霊学会との三竦みの対立の中で形成され, 王仁三郎はその対立を超克するために「皇道会」という名称のもとに組織改革をはかろうとしている。こうした対立の中で王仁三郎が錬成していった, 「皇道」理論の志向性の結実こそが, 「皇道大本」という自称であった。王仁三郎の「皇道」理論は, 「皇道」という言説自体が持つ「包容性」から免れぬものでありつつも, その内実にズレや過剰さを有することによって, むしろその「包容性」を利用する形で展開する事となった。This paper attempts to reconstruct the process by which Ōmoto-kyō, a major yet unique shin shūkyō (new religion) and minshū shūkyō (folk religion), came to call itself "Kōdō [imperial way] Ōmoto", mainly focusing on its Seishi (sacred master) Deguchi Onizaburō and the development of its kōdō discourse. Onizaburō began to use the idea of kōdō as his theoretical core in 1904 in Honkyōsōseiki ("The Genesis of Ōmoto-kyō"), his autobiography. He created the theory of kōdō as part of his new doctrinal systematization that attempted to overcome opposition and isolation in his religious community. "Kinmeirei Gaku Kai", an early period Ōmoto-kyō religious community, was formed out of the three-way deadlock between Nao Deguchi (the founder of Ōmoto-kyō), the "Konko-kyō" that she belonged to, and Onizaburō's "Kōdo Reigaku Kai". He aimed to overcome this situation by engaging in organizational reform under the name "Kōdō kai". The aspirations found in his kōdō theory came to fruition under the name "Kōdō Ōmoto". While the kōdō theory of Onizaburo could not avoid the subsumptiveness of the kōdō discourse itself, because the discourse had gaps and excessiveness, his theory actually developed in a way that utilized this subsumptive nature.
著者
コーカー ケイトリン
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.107, pp.73-101, 2015

本稿の目的は,1960 年代年に土方巽が創始した暗黒舞踏(以下舞踏) における身体・肉体の 位置づけと,土方を中心とする共同生活の意義を,土方の弟子たちからの聞き取り調査に基づ いて考察することにある。それはまた,舞踏を追求する中で,その弟子たち,すなわち舞踏家 たちが日常実践を通じていかに自らの肉体を模索してきたのかを明らかにすることである。そして,その発言をもとに,肉体として生きることが,いかに人間の在り方を探究し,そして既存概念へ抵抗することになるのかを考察する。 舞踏は日本で始められた前衛的パフォーマンスであり,舞踏家は舞踏を踊る人の呼称である。 舞踏は革命と言われているほど,舞踊の世界に衝撃を与えた。そして,舞踏家は一生舞踏を踊る道を選ぶことで一般社会から外れていった。ここでは,肉体への重視が舞踏における芸術的かつ社会的姿勢であり,これは日々の実践によって実現していると主張する。本研究は,舞踏家7 人に聞き取り調査を行うとともに,それぞれの舞踏稽古の参与観察に基づいたものである。
著者
手嶋 英貴
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.115, pp.27-49, 2020

インドの大叙事詩『マハーバーラタ』第14巻「アシュヴァメーダの巻」は, 同族戦争の後に行われる主人公ユディシュティラ王のアシュヴァメーダ祭を主題としている。この祭では, 供犠にする馬を事前に一年間放浪させ, それを軍勢が追跡・守護することになっている。叙事詩では, その儀礼を題材とする挿話「祭馬追跡譚」が織り込まれ, この巻のハイライトとなっている。注目すべきは, この挿話の内容が, 仏典に現れる転輪王の代表的説話「輪宝追跡譚」に類似することである。「輪宝追跡譚」は, 仏教の理想的君主である転輪王が, 天の輪宝を軍勢とともに追跡し, かつ同時に, 武力を用いることなくただ威徳によって四方を平定する説話である。叙事詩と仏典, 双方の物語には主に次の共通点が見られる。(1)「追跡される対象(祭馬/輪宝)が東・南・西・北の順に大地を巡回する」, (2)「追跡者が行く先々で他国の王たちを帰服させる」, そして(3)「諸王に対し『殺されるべきではない』(パーリ語 na hantabbo/サンスクリット語 nahantavyās)という王の言葉が繰り返し語られる」という三つである。これらの共通点を手掛かりに, 本稿では諸文献の比較を通じて, 仏典の「輪宝追跡譚」が叙事詩の「祭馬追跡譚」に影響を及ぼしていたことを明らかにする。さらに, 叙事詩作者が仏教説話の要素を取り入れた背景を探るため, 『マハーバーラタ』第14巻の主題, つまり「戦争の生き残りたちが抱える怨嗟と悔恨を鎮める」というテーマに目を向ける。結論として, 叙事詩作者が, 「武力を用いず徳力によって人々を帰順させる」という仏教的「転輪王」の観念を反映させることで, ユディシュティラの人物像を物語のテーマに即したものへと発展させたことを推論する。Yudhisthira's Aśvamedha depicted in the Āśvamedhika-Parvan (ĀśvP) of the Mahābhārata (MBh) is characterised by the long episode of chasing the sacrificial horse, in which Arjuna as the chief of horse guards often fights against the bereaved kin of Kauravas, and finally subjugates them by expressing a merciful message from King Yudhisthira. The most remarkable thing in our discussion is that the horsechasing episode in the ĀśvP shows some similarities to an episode of Cakravartin found in some early Buddhist texts: (1) the monarch tours in all directions while chasing the royal symbol (horse or cakra 'wheel'); (2) the monarch subjugates the kings in all directions; (3) the monarch repeatedly expresses his merciful message with the same word "not to be killed" (Pa. na hantabbo/Skt. na hantavyās). Based upon some examinations, including the comparison with the above-mentioned Buddhist texts, we may suppose that the horse-chasing episode in the ĀśvP borrowed its outer frame from some sort of the cakra-chasing episode in the Buddhist tradition, which was circulated at the time of compiling the ĀśvP. On the other hand, the story of ĀśvP focuses on the "peace of survivors' minds". Yudhisthira's Aśvamedha itself has the function of purifying his all sins. The remaining issue is "appeasing the grudge of bereaved opponents after war", and the horse-chasing episode depicts on how Yudhisthira accomplishes this difficult task. The cakrachasing episode in the Buddhist tradition was probably an important source of the entire plot of the horsechasing episode in the ĀśvP, and it provided also the conceptual basis of Yudhisthira's figure in the ĀśvP, viz. the "merciful ruler" who appeases the grudge of opponents with his own virtue.
著者
永岡 崇
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.108, pp.143-158, 2015

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第III部 :神の声を聴く --カオダイ教, 道院, 大本教の神託比較研究--≫本稿は, 近代日本において「神の声を聴く」という営みがどのような宗教史的・思想史的可能性をもちえたのかを, 大本を事例として検討するものである。大正期大本の思想・実践は, 異端的な神話的世界を語り出しながら, 近代国家が排除した霊魂との直接的交流の道を開くものであった。しかしそれは, 霊魂を統御するという志向性を, 近代天皇制ないし靖国神社などと共有していた部分もあったのではないだろうか。鎮魂帰神法は, 霊魂を発動させて, 鎮静させ, 序列化する試みといえるのだが, それは逆にいえば, 鎮静化させ, 序列化するための発動であり, 高級霊/低級霊, 立替立直/病気治しのヒエラルキーを確認・創出するものでもあったのだ。ただし, 実践のレベルではそのプロセスには不確定領域が広がり, 統御を逃れ出る霊魂の運動を可能にすることになる。出口王仁三郎や浅野和三郎の意図する秩序は越境する霊魂と過剰な欲望によって裏切られてしまうのだ。国家主義的神道の秩序世界を掘り崩す可能性を内包していたのは, じつは王仁三郎の思想・実践そのものではなく, 人びとの野放図な欲望の法‐外さではなかったか。そして, その欲望を賦活する仕掛けとして, 鎮魂帰神法システムは再評価しうるのではないだろうか。近代日本に生きた多くの人びとは, おそらく天皇制国家を下支えする心性と, そこから逸脱しようとする欲望の双方を抱えていたのであり, 鎮魂帰神法の思想と実践は, その両義的なありようを浮かび上がらせ, そこにはらまれる緊張関係を開示してみせるものだったということができる。こうして, 鎮魂帰神法が霊魂をとらえ損ねる営みであったというところにこそ, 近代天皇制国家の論理へと還元されえない民衆宗教としての大正期大本の可能性を読み取ることができるのではないだろうか。This essay reevaluates the significance of the technique of listening to divine speech in the history of religion in modern Japan, examining in particular the case of the Ōmoto sect. The thought and practice of Ōmoto in the Taishō period opened the way to direct communication with the spirits, and their mythical worldview was considered to be heterodox by the modern nation. Yet their practice shared with the modern emperor system and Yasukuni shrine an orientation towards controlling and organizing the spirits. The Ōmoto spirit-listening technique chinkon-kishin invoked, appeased, and assigned a hierarchical ranking to the spirits ; it invoked them in order to appease and assign the ranks of higher/lower and reconstructive/healing. In actual practice, however, indeterminate factors limited this control and let the spirits escape. The order established by Deguchi Onisaburō and Asano Wasaburō was betrayed by uncontrollable spirits and surplus desire. It was the excessive desire of the believers, not Onisaburō's system, that had the potential to undermine the premise of the State Shinto. Chinkon-kishin should be reappraised as a system that activated the desire of the people against the desire of the nation. This practice and theory illuminated the ambiguity of a popular desire that supported the emperor system and deviated from it at the same time, and thereby disclosed the unmitigated tension within the disposition of the people. This failure to capture the spirits illustrates the potential of Taishō period Ōmoto as a popular religion that could not be reduced to the logic of the emperor system.
著者
上野 大樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.107, pp.31-72, 2015

古典派経済学を確立し,それにもとづいて政府の市場介入を否定する徹底した自由放任策を 主張した論者としてアダム・スミスをとらえる見方は,こんにち様々な観点から相対化されつ つあるが,スミス像の多様化はひとつのイメージを結ばないほどに拡散の傾向を強めている。 本稿はまずスミス理解の見直しの動向をいくつかの類型に整理する。そして,スミスの全体構 想のなかで狭義の経済学は決して自己完結した体系ではなく,人間本性をめぐる道徳理論や公 法学での歴史社会学的考察を前提としたものであったことを指摘する議論とは別に,スミス経 済学じたいが実は統治技法ないし立法者の科学として構築されたことを強調するタイプの議論 を区別し,後者に焦点をあてる。P. ロザンヴァロンやI. ホントの古典的研究を,この統治技法 としての政治哲学の伝統のうちにスミスを位置づけた研究として再解釈し,従来の政治哲学が 長きにわたって格闘してきた統治の根本課題を把握しなければ,スミスがその経済学によって 解決しようとした問いがどのようなものであったか理解できないということを指摘する。その 意味で,スミスの経済学とされるものは現代的な意味での「経済学」ではなく,なによりまず 政治哲学として理解されねばならない。そのうえで,スミスの試みが同時にその政治哲学の伝 統を大幅に刷新するものであったことも銘記する必要がある。社会の総体を「市場社会」とし て再描写することによって,社会介入という伝統的な政治の手法に拠らずとも,社会全体の分 業の進展によって全般的富裕が達成されてよく秩序だった社会は自生的に形成されることを, スミスはあきらかにしたのである。また,社会的分業が作為的な介入を受けずに自然な順序に 従って進んでいくならば,国内的には農工商の均衡のとれた安定的な国民経済が実現するとと もに,国際商業も重商主義者が考えるようなゼロサム・ゲームの下での苛烈な国際競争である ことをやめ,国内商業の延長に全般的富裕を可能にするような「穏和な商業」が出現するとス ミスは見通した。政治的境界に規定されない可変的な国民経済は,それぞれが市場を拡大する なかでやがて非政治的に統合された帝国を現出させるというのが,スミスの「ユートピア的資 本主義」のヴィジョンであった。
著者
水野 直樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.205-238, 2015

特集 : 領事館警察の研究朝鮮の独立運動,共産主義運動が盛んな間島に置かれた領事館警察は,日本の外務省警察組織の中でも最大規模のものだった。朝鮮人の運動を取り締まるため,在間島の領事館警察と朝 鮮総督府司法当局とは,協力して朝鮮人活動家らを逮捕・裁判・投獄する仕組みをつくった。 間島の領事館警察が逮捕し,朝鮮の裁判所に被告を送るというシステムである。 このシステムによって処理された最大の事件が,1925年から1932年まで5回にわたる間島共産党事件であった。領事館警察と朝鮮総督府は,被疑者が多数に上ると,取り調べや司法処理 の方法,拘禁場所の確保などをめぐって,意見の食い違いを見せた。さらには,中国共産党に加入した朝鮮人への治安維持法適用の可否をめぐっても,両者は対立することになった。その ため,5回の間島共産党事件で間島領事館から朝鮮の京城に移送された767名のうち344名 (45%) が不起訴,免訴,無罪となった。 治安維持法適用問題に関しては,朝鮮総督府の司法当局が間島領事館の見解に合わせて,中国共産党員にも同法を適用するという拡大解釈をしたため,間島と朝鮮の当局の見解が一致することになったが,事件の処理をめぐる両者の対立,軋轢は解決しなかった。1932 年日本は満洲国を樹立し軍事支配を強めたが,それに対応する形で間島の領事館は,間島と朝鮮との間の司法共助システムを変更した。それは,被疑者を朝鮮総督府に移送せず,間島で予審にかけることとし,間島に近い清津地方法院の裁判に送る一方,共産党員を検挙時に殺害するという方 策であった。
著者
中村 ともえ
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.279-294, 2015

特集 : 領事館警察の研究大正末の「戯曲時代」には,多くの戯曲集が刊行され,雑誌の創作欄に多くの戯曲が発表され た。この時期,戯曲は小説と同様,読むものとして流通し受容されていたのである。本稿では, この時期の谷崎潤一郎の二つの戯曲,『愛すればこそ』と『お国と五平』を取り上げ,読むものとしての戯曲がどのような表現を作り出していたかを明らかにした。戯曲時代には,谷崎や正 宗白鳥など小説家として名の知られた作家たちが戯曲の制作に取り組んだが,それらの諸作は 「小説的」と形容され,戯曲史の上では概して評価が低い。たとえば『愛すればこそ』『お国と 五平』は,登場人物たちがほとんど動かずに堂々巡りの議論を行い,その台詞は冗長である。 そのため上演に当たっては,俳優に動きをつけ,台詞を削ることが望ましいとされてきた。本稿では,谷崎の戯曲の台詞が備えるこの冗長な文体を,読むものとしての戯曲が作り出す,小 説ではなく戯曲の形式においてはじめて可能となる表現として捉えなおした。まず,『愛すればこそ』『お国と五平』のト書きが谷崎の旧作と比べて簡潔であること,特に『愛すればこそ』は改稿過程で台詞を発する人物の様子を描き出すト書きを多数削除していることに着目した。次 に,松竹大谷図書館が所蔵する『お国と五平』の上演台本を調査し,戯曲と対照した。台本で は一つの台詞,また一つながりの台詞がまとめて削除されており,それによって戯曲にあった台詞と台詞の言葉の上での連続性が失われている。『愛すればこそ』『お国と五平』では,台詞 はト書きの機能を代替するような語句を含み,また直前の台詞の中のある語句を反復し反転して連なる。これらの語句は,人物と人物が相対する場面の中の発話としては過剰であり不要で あるが,それによって台詞は発話に回収されない表現を作り出しているのである。
著者
廣岡 浄進
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.169-204, 2015

特集 : 領事館警察の研究間島出兵(1920-21年) に呼応して,在間島日本総領事館は朝鮮人民会の再編を進めた。民会に組織された朝鮮人は,移民として総じて弱い立場にあった朝鮮人の生活基盤を固めることに,その存在意義を見出していった。その要求が在満朝鮮人総体の帰趨に関わるときには帝国 はそれに応じざるを得なかった。しかし,治外法権を領事館警察が行使するための方便として 活用された朝鮮人の「自治」は,それが満洲国において地方行政の桎梏とみなされるようになった時点で,「民族協和」を掲げる満洲国協和会へと合流させられた。 本稿は,植民地近代の隘路について考えた。朝鮮人民会においては,「親日派」になることが「民族」への敵対行為なのではなく,むしろ「民族」の生活を守りさらに改善するための交渉の 場を作り出すこととして再設定された。それはつまり,植民地帝国日本の人種主義に即応して, 帝国臣民として領事館警察の保護を受けるべき在満朝鮮人として主体化することでもあった。 在満朝鮮人の生活そのものが帝国の国策に重なりあうものとして指し示されたとき,そこに救済が発動されたのである。
著者
原田 敬一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.111, pp.163-207, 2018

特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War1894年の東学農民運動は, 現代韓国では朴孟洙氏の研究に見られるように, 李朝末期の政治改革運動の中で捉えなおし, 東学農民戦争とも東学農民革命ともいう。現代日本では, 日清戦争研究の深まりとともに実態の解明が進み, 中塚明・井上勝生両氏により「もう一つの日清戦争」と呼ばれる。本稿では, 日本のメディアが東学農民運動をどのように伝えていたのかを究明した。戦争は国家による内外への機密情報排除をもって進められる。大本営の設置も, 帝国議会にもメディアにも秘匿されたまま行われた。日本政府は, 戦争の大義名分を得るため, 「遅れた朝鮮の政治を改革する」といい, 協力しない清国を武力で朝鮮半島から駆逐するという筋に従って外交交渉を進め, 朝鮮王宮占領作戦も成し遂げた(7月23日戦争)。日本メディアは, 日本政府の筋書きに沿う「遅れた朝鮮政治」という報道を展開したが, その報道は, 朝鮮政府を批判して起った東学農民運動に対する「期待」を生んだ。日本メディアには幕臣が多いという出自から「反政府」色があり, さらに日本近代のジャーナリストには「アジア主義」の影響が強いという特色があった。日本近代の有力新聞である『東京朝日新聞』, 発行部数はそれに劣るもののオピニオン・リーダーとしての有力紙『日本』(主筆 : 陸羯南), 日本の雑誌ジャーナリズムを形成していった有力雑誌『日清戦争実記』(博文館)の3紙誌をとりあげ, 3紙誌の「東学農民運動報道」を総て採集して分析した。その結果, 当初「改革派東学党」というイメージでの取材・報道であった『東京朝日』と『日本』が, しだいに「暴徒東学党」に傾いていったことが辿れた。この変化は, 東学農民運動が抗日運動として有力になることと並行している。日本と同伴する「改革派」というイメージを棄てた2紙は, 独自取材を減少させ, 大本営発表を転載するように変化した。雑誌ジャーナリズムの嚆矢と言われる『日清戦争実記』は当初より東学農民運動を大本営発表の転載のみだったことも明らかになった。This paper explores how Japanese mass media communicated the Donghak Peasant Movement. Generally, war involves confidential information control by the state. Installation of the imperial general headquarters was proceeded secretly to mass media and the imperial diet. To present a just cause, the Japanese government claimed that they would reform the premodern politics of Korea. Japan proceeded diplomatic negotiation to expel uncooperating Qing China and planned military occupation of the Korean palace. This paper analyzes all the reports on the Donghak Peasant Movement by the major journalistic magazine "Nisshin Senso Jikki" and two of the most influential newspapers "Tokyo Asahi Shinbun" and "Nippon". The analysis shows that although "Tokyo Asahi" and "Nippon" saw the Donghak Peasant Revolution as reformists, they gradually reported it as rioters. This change parallels the transition of the Donghak Peasant Movement to a major anti-Japanese resistance. The two newspapers which renounced reformist image of the Donghak Peasant Movement reduced their own coverage and began to reprint the announcement of the imperial general headquarters. It is demonstrated that although sometimes seen as the first journalist magazine, "Nisshin Sensou Jikki" had only reprinted the anouncements of the imperial general headquarters from the beginning.
著者
近藤 俊太郎
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.108, pp.117-121, 2015

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第II部 :近代日本宗教史における〈皇道〉のポリティクス≫
著者
松田 利彦
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.53-79, 2015

特集 : 領事館警察の研究朝鮮総督府は,韓国併合当初から中国との陸接国境地域の治安を重要課題と見ていた。間島 地域では,総督府から憲兵と朝鮮人警察官を派遣・駐在させていた。在間島領事館の要請で憲 兵を治安維持のために派遣する場合もあった。他方,鴨緑江岸では,総督府の憲兵・警察官は 常駐しておらず,現地領事館との連携の度合いは小さかった。 とはいえ,基本的な行動の枠組みは両地域とも共通していた。憲兵による対岸地域の内偵や 組織的調査,憲兵・守備隊による対岸への出動と警察活動・軍事行動といった点である。総督 府・朝鮮憲兵隊は,豆満江岸(間島)・鴨緑江岸の両地域を一体の国境警備問題として認識して いた。 このような認識のもと,総督府は,1910 年代後半以降,国境警備体制の刷新に着手した。 1916 年秋,寺内正毅総督は,朝鮮軍守備勤務規定の改訂を通じて,対岸への憲兵・守備隊の越 境派遣体制を整備した。さらに翌年秋以降には古海厳潮朝鮮憲兵隊司令官・長谷川好道総督が 対岸に憲兵を常駐させる構想を打ちだす一方で,間島領事館に総督府から大量の警察官を送りこんだ。 1910年代は,20年代のように国境対岸からの武装抗日運動勢力による朝鮮内侵攻が現実的な 脅威となってはいない。しかし,国境対岸地域に対して直接的な警察力を行使しようとする総 督府の志向は,早くもこの時期に確認することができ,それは具体的な活動や構想として展開 していたのである。
著者
梶原 三恵子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.109, pp.33-102, 2016

前六-五世紀のインドでは, 当時主流であったヴェーダの宗教思想に, 秘儀的祭式の創出や輪廻思想の発達などの革新的展開が生じ, さらに仏教など新興の思想勢力も現れた。本稿は, 古代インドにおけるヴェーダの宗教と初期の仏教の接点を, ウパニシャッド文献および初期仏典にみられる入門・受戒儀礼の比較を通して論じる。ヴェーダの宗教における入門儀礼は, 初期ヴェーダ文献『アタルヴァヴェーダ』(前十世紀頃) 以降連続的に発達し, 後期ヴェーダ文献のグリヒヤスートラ群(前三世紀頃) にて儀礼形式が完成する。ただし, 中期ヴェーダ文献のウパニシャッド群(前六-五世紀頃) には, 通常の入門儀礼とは意義と形式をやや異にする独特の入門儀礼が現れる。すでに入門儀礼を経てヴェーダ学習を終えたバラモン学匠たちが, 当時創出されつつあった秘儀的な祭式や思弁を学ぶために師を探訪し, 通常の入門とは異なる簡素な儀礼を行い, 改めて入門するというものである。いっぽう仏教における入門儀礼は, 一般には戒律を受けて僧団に加入する受戒儀礼をさすが, 本稿では組織的な受戒儀礼が成立する前に行われていたであろう仏陀その人への直接の入門の儀礼を扱う。初期仏典にみられる仏陀への入門の場面は, ウパニシャッドにみられるバラモン学匠たちの入門場面と, 語りの枠組みも入門儀礼の形式も顕著な相似を示す。そのかたわら, グリヒヤスートラが規定するヴェーダ入門式との類似を特には示さない。仏陀の在世年代がウパニシャッドの成立時期と重なることを考慮すると, 後に初期仏典が編纂された際に, ウパニシャッド時代の知識人たちの間で行われていた入門の形式が, 当時の知識人の一人であった仏陀とその弟子たちの間でも行われたように伝えられ, あるいは想像されて, 説話の枠組みに取り入れられた可能性がある。This paper examines the particular similarities between the initiation rituals in the Upanisads and the early Buddhist texts. Around 6-5 BCE in India, the Brahmanical philosophy and rituals developed significantly. In this context, the Brahman scholars in the Upanisads are said to have sought those who knew the then-arising esoteric ideas and rituals, and asked them for initiation in order to learn. They are initiated through a peculiar rite, which is different from the traditional Vedic initiation ritual found since the Atharvaveda through the Grhyasūtras. As those Brahman scholars had already gone through the regular initiation and study, their initiation for learning such esoteric subjects is the "scholars' [repeated] initiation." On the other hand, in the early Buddhist texts, a number of stories include the scenes where people hear the Buddha's preaching and ask him in person to make them his disciples. The style and the significance of this "initiation to the Buddha in person" are quite similar to those of the "scholars' initation" in the Upanisads. These kinds of initiation were performed through a practical and simple rite not by mere beginners but by learned scholars or ascetics who hoped to learn the innovative knowledge.
著者
上尾 真道
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.109, pp.1-32, 2016

本論は, フロイトの代表的著作である『夢解釈』の冒頭にかかげられた銘, 「天上の神々を説き伏せられぬのなら, 冥界を動かさん」から出発して, 精神分析の始まりを印すフロイト思想に新たな光を投げかける試みである。第一節では, 『夢解釈』が出版される一八九九年以前のフロイトに着目しつつ, この著作の執筆が, 神経症論の著作の断念によって可能となったものであることを確認する。またそこでは, 上記の銘の由来であるヴェルギリウスの『アエネーイス』を参照しながら, 『夢解釈』の執筆が, この断念に対する一種の復讐であり, 一般的神経症論の転覆を企図するものであったことを確かめる。そこにおいて我々は, 正常と異常のあいだの分断を撹乱し, これに代えて諸葛藤の平面の理論を構築しようとするフロイトの姿を認めることとなる。続く第二節では, このようなフロイトの姿を『ヒステリー研究』における抑圧理論との関連から吟味する。そこでは連続的な表面のうえを伝播する力としての抑圧概念の意義が確認される。さらに第三節では, 『夢解釈』におけるフロイト独自の叙述スタイルが, 臨床的な夢解釈のスタイルと平行的であることを論じ, その特徴としての多重性について明らかにする。第四節においては, 上記のような視座を反映するものとして, 迷宮状の心的構成を描き出す『ヒステリー研究』の一節を検討するとともに, 同時にそれとは異なる理論化の方向性との関係を見る。この後者とは, 心的構成を階層化によって整理しようとするものであり, 力の伝播の問題を垂直的な分断性に変換するものと考えられた。最後に第五節では, この後者の理論化の方向性を, 『夢解釈』の背景でフロイトが取り組んだ父性の問いとの関連で考察する。そこでは父への「畏敬」との関連のもとで, 夢の荒唐無稽性が, 諸葛藤の平面としてではなく, 地下性として上層に対立するようになることを確認した。こうして本論はフロイトが, 深層を理論化するにあたり二重の立場のあいだで揺らぎつつ, 思考していることを明らかにした。This paper will try to shed a new light onto Freud's thoughts that mark the birth of psychoanalysis, by rethinking the epigram of his The Interpretation of Dreams, Lectere si nequeo superos, acheronta movebo. In the first section, it will be argued that Freud's renouncement to write a book on the topic of neurosis allowed him to engage in another project, a philosophical work about dreams. According to the original context of the epigram, Virgil's Aeneid, this book could be thought of as revenge as well as a subversion of general neurological discourse of that era. Here we can find Freud disrupting the division between normality and abnormality, and constituting a surface of plural conflicts. In the second section we reconsider the notion of "repression" in his Studies on Hysteria, in order to clarify the significance of this notion as a force circulating on the continuous surface. In the third section, we take a closer look to Freud's discursive style in The Interpretation of Dreams, which would be parallel to that of clinical procedure of interpretation of dreams, featured by overdetermination. In the fourth section, we examine several passages from Studies on Hysteria illustrating psychical arrangement like labyrinth, as well as another type of organization considered opposed to the former. Finally, in the fifth section we consider the problem of paternity in order to see how it would make it possible to reorganize the absurdity of dreams as undergroundness. We will thus find two alternating figures of Freud theorizing "the depth".
著者
中空 萌
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.107, pp.159-187, 2015

本論文では,現代インドにおいてアーユルヴェーダが生物医療,代替医療,知的所有権制度 といった異なる知識制度との関連の中でその性質を定義され続けている過程を,接触領域における「翻訳」に焦点を当てながら描く。 インドにおけるアーユルヴェーダと他の知識システムの混交をめぐるこれまでの研究は,「アーユルヴェーダの根底的なパラダイムは他のシステムと接触しても不変のままである」あるいは「生物医療の導入がアーユルヴェーダの身体・人格観を根本的に変容させた」という二極的な立場に収斂していた。これらの議論は両者とも,アーユルヴェーダとその他の知識を首尾一貫した知識=治療パラダイムとして捉えている。それに対し本論文では科学人類学的アプローチに従い,知識を固定的な知識「体系」ではなく,常に生成し続けている不安定な実践と捉えた上で,異なる知識間の接触領域においていかに翻訳可能性が部分的かつ偶発的に見いだされるのか,複雑な交渉と比較の過程を照射する。 具体的には,(1)独立後にアーユルヴェーダの制度化を推進しようとしたmisra 派の知識人たちによる,生物医療概念とアーユルヴェーダの諸概念の翻訳,(2) 1980年代以降のグローバルな代替医療の潮流の中で欧米人患者を受け入れる,アーユルヴェーダ医師の実践,(3) 2000年以降,グローバルな製薬開発をめぐる動きの中でアーユルヴェーダを知的財産化しようとする「国家」研究機関の科学者たちのプロジェクトを取り上げ,それぞれ具体的な翻訳の文脈の中で,「アーユルヴェーダとは何か」がいかに立ち表れているかを素描する。それにより,アーユルヴェーダと他の知識システムとの具体的接触場面で展開している事象とは,「アーユルヴェーダ の本質の残存/喪失」といった一面的プロセス,すなわち知識間の差異の消失ではなく,翻訳可能性と不可能性の間の曖昧な領域において,新たな知識や思想,アイデンティティを生み出すものであると主張する。
著者
重田 みち
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.109, pp.143-184, 2016

「夢幻能」という近代的概念は, 前後二場からなる幽霊能を主に指し, 世阿弥が確立したと説明されており, 20世紀後半以降, 能楽の専門的研究のみならず, 演劇論ほかさまざまな分野の論にひろく用いられている。しかし, 1920年代の佐成謙太郎の説にはじまるこの近代的概念が, 世阿弥周辺において作られた幽霊能の歴史的実態を的確に反映しているかどうかは疑問である。そこで, 20世紀後半以来の能の専門的研究の進展の成果に基づき, 「夢幻能」が能の様式に着目して導かれた概念であることを考慮して, 「夢幻能」と称されている当時の作品群について, あらためてその劇構造の類型的要素を比較分類し, 「夢幻能」の概念にとらわれずに整理すると, それらは制作史上の展開の観点から6種の段階に分類される。それは世阿弥を中心とした能役者が能の上演の中心の場を各地の寺社などから足利将軍家文化圏に移したことによって, 宗教性が濃厚なものから希薄なものへと, 能の質が変化していったことに伴う劇構造の型の時期的段階を示している。すなわち, 霊が夢中にではなく現実の場に姿を現す早い段階の〈現うつつ能〉, その後仏教説話の夢の話型を摂り入れて成立した〈夢能〉, 〈夢能〉の劇構造の要素が変容し, 夢の要素が曖昧化した〈半夢能〉, 夢の要素が脱落した世阿弥晩年期の〈脱夢能〉などの段階がある。また, 「夢幻能」の基本とされてきた幽霊能の二場物の形成も, 〈夢能〉以前に遡ると推測される。この中で, 足利義持時代には, 〈夢能〉の話形を活かして, 前代の義満時代とは異なる美意識に沿った, 奥深さや逆説的な発想を有する作品が新たに作られた。〈半夢能〉はそのような中で成立した型であると言える。したがって, これらの能は歴史的に見れば「夢幻能」として一括できないことが明らかである。能を歴史的に見る場合にも今日の能を論じる場合にも, これらの能を的確に位置づけるべく「夢幻能」の概念を新たにとらえ直し, 歴史的実態に見合った新しい概念や呼称を模索すべきである。本稿はその新たな方向へ踏み出そうとする試みである。Modern scholars established the concept of mugenNoh 夢幻能 or Noh of dream and illusion, and explain that it refers to the Noh plays on ghosts which consist of two acts and such idea was established by Zeami 世阿弥(1364?-?). Since the the latter half of the 20th century the word Mugen Noh has been broadly used in arguments among various fields, however, it is questionable that this modern concept accurately reflects the actual condition of Noh in Zeami's time. In this article, I try to make a new arrangement of the collective plays which have been treated as so-called mugen Noh, and through this reconsideration, it is clarified that these plays can be divided into six steps according to the each change of the style of Noh plays, from the deeply religious ones which were played at temples and shrines to the less religious ones which adapted the new circumstance around the Ashikaga Shogunate. Thus the earlier plays had traces of the religious connection and did not contain the element of dreams, in contrast, the plays which are written around the Shogunate freshly adopted dream. And after the adoption of dreams, the writers started to make some elaborate but ambiguous plays on which one cannot tell whether those situations are dream or not. In spite of the existence of such historical development, especially the earlier plays did not contain dream, scholarship have ignored this historical background and recognized the mugen Noh is one type. Through this study, I propose the new terms such as utsutsu Noh 現能 or Noh of real world and yume Noh 夢能 or Noh of dream for these six steps and use the term yurei Noh 幽霊能 or ghost Noh to refer to the collective plays.
著者
永岡 崇
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.107, pp.103-129, 2015

本稿は,漫画家・エッセイスト辛酸なめ子の諸作品を読み解くことを通じて,現代日本におけ る象徴天皇制やスピリチュアリティ文化と批判的に対峙する作法について思考するものである。 現在,天皇は非政治性を建前とした「象徴」として,またスピリチュアリティ文化は過酷な競 争社会を生きる現代人につかの間の「癒し」を提供するものとして,柔和で無害な相貌で存在しているようにみえる。だが,これらの文化/制度は,それを中心にして形成される「空気」のなかで,ときとして暴力性や抑圧性を露わにすることがある。このような暴力性・抑圧性に対 する批判は多いが,外部的な視点に立ったイデオロギー批判に代表される従来の批評的言語は, ポストモダンな天皇制やスピリチュアリティ文化を前に,有効性を喪失してしまっているように思われる。そのようななか,興味深い批評の言葉を創出しているのが,辛酸なめ子の作品である。なめ子は,作品のなかで,皇室やスピリチュアリティ文化を題材として積極的に取り上げ,それらを戯画化することでユーモラスな世界を創造する。彼女の手法として重要なのは, 第一に,皇室ファン,またスピリチュアリティ文化の愛好者として,つまり作品の題材となる 文化のインサイダーとして自己規定しながら,同時にアウトサイダーとしての視点をも導入す る姿勢であり,第二に,さまざまなジャンル(皇室,スピリチュアリティ,女子校文化,芸能 ゴシップなど) の間の境界線を混線させて笑いを生みだすスタイルである。そのことにより,なめ子の作品は天皇制やスピリチュアリティに内包される権威性や差別性を機能不全に陥らせることに成功している。それは,外部者の立場から"本当のこと"を突きつけるという批判のスタイルが通用しない領域が広がっているなか,天皇制やスピリチュアリティ文化を構成する「空気」に亀裂を入れる批評の言語の可能性を示すものといえるのではないだろうか。
著者
エッセルストロム エリック
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.81-96, 2015

特集 : 領事館警察の研究本稿が考察するのは,日本と欧米列強の狭間で起こった日本領事館警察に関連しての外交的紛争の本質である。朝鮮と南満州のいくつかの事例を考慮しつつ,1919年の天津租界での日米衝突事件に対しより深い分析をして,最終的に1930年代の日本領事館警察の正当性について日本 と欧米学者間で行われた国際法的論争に注目する。特に論じたいのは,欧米各国も不平等条約 体制による利権を得たから日本領事館警察に対しての欧米批判は,中国側のその体制による国 家主権が被害された主張と同情心によって生まれたものではなく,欧米各国の権利が侵された 時だけに起こるという事である。その他,1930年代の日中関係の悪化は日本領事館警察の活動 が一つの原因であると信じてた欧米評論家が確かに数人いたが,領事館警察の正当性と必要性 を完全に認められなかった者は非常に少なかった。一方で日本人評論家は,中国本土や世界中 の植民地で欧米列強によって敷かれた治外法権体制こそが日本領事館警察制度の正当性を示す ものであるとよく論じた事。
著者
小野 容照
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.110, pp.1-21, 2017

本稿は, 朝鮮独立運動と第一次世界大戦の終結の関係を考察するものである。1917年にアメリカが連合国側で参戦すると, 朝鮮人活動家は日本の敗戦に乗じて独立を達成するという戦略を諦め, 来るべき講和会議で少しでも多くの権利を獲得する方針に切り替えていく。第1章では, ニューヨークで在米ヨーロッパ人によって結成された弱小従属民族連盟の分析を通して, これに参加した朝鮮人活動家のウィルソンに対する認識を明らかにした。第2章では, 終戦後に民族自決原則が講和会議の議題として浮上するなかで, 朝鮮人活動家がこの原則にどのように対応していたのかを論じた。ウィルソンにとって自決の担い手である「民族(ネイション)」とは, 民主的自治の能力を持つ政治共同体を意味していた。朝鮮人活動家はこうしたウィルソンのネイション観を理解しており, それを踏まえて, パリ講和会議に向けて民主主義国家の運営能力をアピールした。第3章では, 1920年代前半に朝鮮半島で展開される民族改造運動が, 第一次世界大戦経験を反映したものだったことを明らかにした。This paper aims to examine the relationship between the Korean Independence Movement and the end of World War I. After the United States entry into the war in 1917, Korean activists gave up the plan to achieve independence taking advantage of Japan's defeat and made preparations to expand their rights during the forthcoming peace conference. Chapter 1 elucidated how Korean activists recognized the President of the United States Woodrow Wilson's peace plan, analyzing the League for Small and Subject Nationalities which Koreans took part in. This organization was formed in New York by Europeans residing in the United States. Chapter 2 discussed how Koreans reacted to the principle of self-determination while this principle became major agenda of the Paris Peace Conference. Wilson's view on "nation" with an emphasis on a political community's capability of democratic self-governing. Korean activists had understood such Wilson's concept of the "nation". Therefore, they appealed about their democratic self-governing capabilities to Paris Peace Conference. Chapter 3 dealt with Reconstruction Movement developed in Korean Peninsula in early 1920s. This movement was reflected in Korean's WWI experiences.
著者
川村 朋貴
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.110, pp.253-283, 2017

本稿が対象とする「イースタン・バンク」とは, 19世紀半ばのロンドン, インド, 香港において設立されたアジア市場向けのイギリス系株式銀行群のことで, これまでも, そして現在でも, 多くの歴史家の関心の的となっているイギリス国際銀行群の一類型である。イースタン・バンクは, 1880年代以降, 植民地内部の商品流通や産業金融へ関与するようになったとはいえ, 為替取引を主体とする国際的商品流通部門の割合が極めて高かったという特徴から「東洋為替銀行」と呼ばれていた。本稿の目的は, イースタン・バンクの立地場所やそこでの営業実態を解明し, それが南アジアとその周辺地域経済圏の形成に果たした役割と影響を論及することである。具体的には, 史資料の残存状況が比較的良好なマーカンタイル銀行を事例として取り上げる。マーカンタイル銀行は, アジア各地でおもに対外貿易の金融を行なっていたが, 1870年代後半からの銀価格の下落による大きな為替差損を経験した。それへの対応策の一つが, インドや東南アジアでの割引・貸付業務の強化という「関所」ビジネスの多様化であった。こうした国際的商品流通部面以外での銀行業務は, 植民地内部とその後背地の商品流通と生産過程への関与を意味し, イギリスの植民地支配体制の形成と確立を背景にして, 非ヨーロッパ商人・金融業者との日常的な取引関係につながったのである。ここでの強調点は, イースタン・バンクの植民地金融ネットワークとアジア系有力商人の金融ネットワークとの相互の関わりというのが, 「独占」を属性とする「関所資本主義」の世界で成立したということである。本稿では, 「関所資本主義」という概念を援用しながら, イースタン・バンクの存在と「ヨーロッパとアジア」の出会いのあり方を再解釈し, イギリス国際銀行史研究の新境地を開拓する。This paper aims to provide historical knowledge on the pattern of development of South Asian regional economy in the late nineteenth century, with special reference of the British Eastern exchange banks including the Chartered Mercantile Bank of India, London, and China. And it also offers the ways in which they came to play a vital role in a rapid growth and formation of "Gateway capitalism" in South Asia under the impact of British imperial administration. The paper attempts to suggest a new perspective of the exchange banks for the understanding of British multinational banks. From the late 1850s onwards, South Asia became included in the networks of the British Eastern exchange banks. After the opening of the Suez Canal, these banks in Asia rapidly increased their activities and began to play a key role, both in the expansion of international trade between Europe and Asia and in the rapidly growing intra-regional Asian trade. The well-established patterns of trade in that period were reflected by the geographical distribution of their offices in London and larger port-cities of Asia known as so-called "Gateways". This paper explores the business of the Chartered Mercantile Bank in Bombay, Calcutta, Rangoon, and Penang, mainly on the basis of the bank's relevant records held at the HSBC's Group Archives, and contemporary sources that include important information of its key activities.