- 著者
-
長島 忠美
- 出版者
- 一般社団法人 日本農村医学会
- 雑誌
- 日本農村医学会学術総会抄録集 (ISSN:18801749)
- 巻号頁・発行日
- vol.56, pp.374, 2007
平成16年10月23日午後5時56分、新潟県中越地方を襲った強い地震によって私達は生活の場を失い、ふる里を失う事になりました。突き上げられ、投げ出されて、立ち上がる事もできない激しい揺れの中で私達は誰もが死を覚悟する事になりました。強い揺れが納まり、何とか外に出る事が出来ましたが、その時は何が起こったか分かりませんでした。近所の人、皆が集まった頃、一回目の強い余震がありました。月明かりの中で家が揺れる様子が見えて、初めて想像できない強い地震にふる里が襲われた事が分かりました。当時、村長でしたから、とにかく役場で指揮を執ろうと思って、軽トラックで向かう事にしましたが、200メートルも行かないうちに道路が根こそぎない事が分かりました。4つのルートの全てが破壊され尽くしていました。村中、土石流で、歩く事さえ危険な状態でした。何とか救援を求めなければ。それがその時の実感です。電気も電話も道路も全て失っていました。携帯電話の通じる所を何とか探して、電話を掛け続けましたが、通じませんでした。焦る気持ちの中で3時間後やっと私の電話が県庁に繋がりました。そんな状況の中で一夜を過ごし、夜が白み始める頃、再び役場を目指して歩き始めました。目に映るのは変わり果てたふる里の姿です。信じられない光景に何もする術はありませんでした。山を越え、谷を下り、やっと役場が見える山古志中学校に辿り着き、目にしたのは人の力の及ばない世界でした。山が頂から崩れ落ち、住宅を飲み込んでいました。20数戸の集落が全て地すべりでぶら下がっていました。わずか直線で500メートルの役場に行けないのです。中学校のグラウンドを災害対策本部にする事にし、救援のヘリコプターの到着を待つ事になりました。やがて次々に自衛隊・警察・消防のヘリコプターが救援にやって来てくれました。その時はまだ村の状況の全部を私は知りませんでした。まず、ケガ人の救助、情報の収集からです。午前10時までにそれぞれの情報を総合してみました。山古志村は周辺の道路を失い、孤立していたのです。そればかりか14の集落の全ても孤立をしていました。そして住宅の半数が壊れているらしい事、公共施設の全てが被災をした事。その時はまだ村の中で命と財産を守るために何が出来るかを考え続けていました。状況が分かるにつれ、その事が困難に思えました。午後1時、一番したくない「全村避難」を決断する事になりました。それから26時間、信じられない早さで避難を完了し、私は最後の村内点検をし、私も皆の待つ長岡市へ避難する事になりました。避難を指示した村長として、絶望の中ではありましたが、「村を捨てるんじゃない。必ず戻って緑の村を取り戻す。」 と私が私に約束しました。それを成し遂げるのが村民に対して責任を果たす事になるとも思っていました。コミュニティの力と感謝の力に私は勇気をもらいました。皆様を始め多くの方々の御支援に「ありがとうございます」と言う事が出来ました。「帰ろう、山古志へ」これが私達の合言葉になりました。地震から2年6ヶ月。私達は数え切れない支援と温かい思いを頂きながら、最後の戦いをしています。私も最後の一人として今秋、仮設住宅を出るつもりです。一度は失ったふる里で、私達は新しい生活を再び一から歩み始めます。そこには山の暮らしがあり、心温まるふる里がある。そんな村で皆さんをお待ちしたいと思います。今学会が意義あるものになります事を心から祈念して御挨拶に致します。