- 著者
-
神田 孝治
- 出版者
- 人文地理学会
- 雑誌
- 人文地理学会大会 研究発表要旨
- 巻号頁・発行日
- vol.2011, pp.24, 2011
<B>I.はじめに</B><BR> 1970年代に観光ブームを迎えた与論島は、観光客と地域社会の間でコンフリクトが見られた典型的な事例であった。こうしたコンフリクトは、特に外部から付与された与論島のイメージと、そこから生じた観光客の諸実践をめぐって生じていた。この与論島は近年、映画『めがね』の舞台として注目を集めているが、そこで喚起される与論島のイメージも現地の対応も1970年代のそれとは大きく異なっている。本発表では、これらの比較を通じて、観光地のイメージとそれへの現地の対応について考察を行う。<BR><B>II. 与論島の観光地としての系譜</B><BR> 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は1945年の終戦によりアメリカ合衆国軍政統治下におかれたが、1953年に沖縄に先駆け日本に復帰した。そのため、1972年に沖縄が日本に復帰するまで、与論島は南の最果ての地となっていた 。<BR> この与論島に行くのは簡単なことではなく、例えば1968年段階で、鹿児島から最速船で約23時間を要し、船は1日1便であった。しかしながら、1967年に財団法人日本海中公園センターの田村剛が「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」として与論島を賞讃し、翌年にNHKの「新日本紀行」で与論島が放映されると、旅行業者の活動も盛んになるなかで観光客は増加していき、1979年には150,387人の入込客数を記録した。けれどもその後、石垣島への航空機の就航、沖縄の観光開発の本格化などの影響を受け、1980年以降は観光客が漸次減少し、2009年には58,048人となっている。<BR><B>III. 観光最盛期における与論島のイメージとコンフリクト</B><BR> 1970年代の与論島の魅力について、当時の新聞記事では、日常生活を営む都市との対比によってもたらされた「自由」を若者が感じていると指摘していた。さらに当時のマスメディアはさらなる幻想を与論島に付与しており、例えば1971年の週刊誌の記事では、「ブームの与論島の聞きしにまさる性解放」と題してそこを性の楽園として描き出していた。<BR> このように外部から来る観光客の欲望の対象とされた与論島では、地元住民による反発も生じていた。なかでも先の週刊誌の記事は地元住民の大きな怒りを買い、「夜ばいだの、フリーセックスだの、週刊誌の記事はまるで"南洋の土人"扱いではないか。未開の土地を探険する文明人の発想ではないか。」(『南海日日新聞』1971.7.2)と、本土側からのまなざしが批判の対象となっていた。<BR><B>IV. 映画『めがね』による与論島観光と現地の対応</B><BR> 2007年9月に公開された映画『めがね』は、「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとし、都会から南の島にやって来た女性が、観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。<BR> この映画は、与論島に自由を見出しており、それは1970年代の観光ブーム時と同じである。しかしながら、そのイメージは、性的な部分が強調される楽園ではなく、ゆったりとした気持ちで「たそがれる」島というものである。そして、この映画の影響を受けた主に若い女性が、与論島を訪れるようになっている。<BR> 映画『めがね』の提起する与論島のイメージや、それに憧れてやってくる観光客に対して、現地における聞き取り調査では地元住民の反発の声を聞くことはなかった。しかしながら、与論島観光協会への聞き取りでは、制作会社の意向により、そこが与論島であると積極的に宣伝することができないとのことであった。また、そうした宣伝を行うことは、インターネット等を利用して自分で情報収集してやって来る観光客に対しては逆効果であるとも考えており、いくつかの情報提供を行い、またそれによる観光振興への期待は高いものの、映画で与論島をアピールすることはするつもりがないとのことであった。<BR> 地元住民への聞き取り調査では、与論島ブーム時のような観光地化に対する反発は今でも根強い。そうしたなかで、映画『めがね』の喚起する与論島イメージやそれにともなう静かなブームは、地元住民にとっては受け入れやすいものだといえるだろう。しかしながら、それが産み出す与論島のイメージとその魅力は、観光への否定に基づいており、そのなかで映画の舞台であることを積極的に発信できないというジレンマも産み出している。与論島では、観光と地域がどのように関わるかという課題が、イメージの問題を中心に、形を変えながら現在でも続いているといえる。