著者
神田 孝治
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.321, 2013 (Released:2013-09-04)

Ⅰ. はじめに 近年,映像メディアの撮影地を訪れて映像の世界を追体験する、フィルム・ツーリズムが注目を集めている。こうした観光が既存の観光地を舞台とする場合、映像メディアによる同地の空間表象は、それまで魅力を生じさせていたものと必ずしも同じではない。本研究では、映像メディアによってかつてない新しい空間表象が観光地にもたらされた場合、現地の地域社会がどのように反応するのかについて、映画『めがね』の舞台となった与論島と、アニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルとされる白川郷を取り上げて検討する。Ⅱ.映画『めがね』と与論島 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は、1953年から1972年の沖縄本土復帰まで、南西諸島における日本最南端となっており、1970年前後にはサンゴ礁と美しい海の観光地として人気を博した。かかる観光ブーム時の与論島は、若者にとっての「自由」の島、「恋愛」の島であるとされ、ある週刊誌ではそこを奔放な性の楽園として描き出した。そうした与論島の空間表象や、それをもとに展開される若い観光客たちの実践は、地域社会の大きな反発を招いた。しかしながら、沖縄観光の本格化などを背景に、1979年をピークに観光客が漸減するなかで、次第に観光客と地域社会の対立は表面化しなくなっていった。 2007年に公開された映画『めがね』は、この与論島をロケ地としており、そこに新しいイメージを付与している。「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとする同映画は、都会から南の島にやって来た女性が、いわゆる観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。この映画は、1970年代の観光ブーム時と同じく、与論島に自由のイメージを喚起する。しかしながらその表象は、男性にとっての性的な楽園から、恋愛等をせずにゆったりとした気持ちでたそがれるという、特定の働く若い女性にとって魅力あるものへと変化している。こうした映画に対して、与論島の住民から反発の声を聞くことはない。そうしたなかで、地元の観光協会は、製作会社の意向や自分で情報を探して来島しようとする観光客の性質などから、大々的に観光宣伝を行わない方針をとっているが、時間が経過するなかで、映画『めがね』を観光に活用する取り組みを着実に進展させている。Ⅲ.アニメ『ひぐらしのなく頃に』と白川郷 白川郷は、1995年に世界文化遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」に登録され、観光地として人気を博している地域である。1994年に日帰り宿泊計約67.1万人であった観光客は、2009年には約173.1万人にまで増加している。同地は近年、観光パンフレット等において、しばしば「日本の原風景」と表象されている。 この白川郷は、2006年に公開されたアニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルであると考えられたことから、惨劇の村・雛見沢という新しいイメージを喚起することになった。雛見沢のイメージは、のどかな日本の原風景と、その裏に存在する隠された惨劇の村という両義的なものである。かかるイメージを消費する観光客は、世界遺産としての白川郷を訪れる人々とは異なる特徴を持っている。そうした観光客は、主として2~3名グループの若い男性で、多くがインターネットで情報収集し、しばしば白川郷のガイドマップを改変して作成された雛見沢の地図を持参して、アニメで登場したと考えられるポイントを見物するのであり、場合によってはアニメキャラクターのコスプレをしている。 地元の観光協会は、先の与論島の事例と同じく、こうした観光客の性質上、積極的な宣伝を行わない方針をとっている。しかしながら、住民の反応は大きく異なり、一部で許容する声があるものの、アニメの内容やこうした観光客に対して嫌悪感を抱き、そのイメージが白川郷にふさわしくないと考える住民が存在する。こうしたなかで、白川郷においては、同アニメを活用した観光振興の動きを確認することができない状態にある。
著者
神田 孝治
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

<B>Ⅰ. はじめに</B><BR> 近年,映像メディアの撮影地を訪れて映像の世界を追体験する、フィルム・ツーリズムが注目を集めている。こうした観光が既存の観光地を舞台とする場合、映像メディアによる同地の空間表象は、それまで魅力を生じさせていたものと必ずしも同じではない。本研究では、映像メディアによってかつてない新しい空間表象が観光地にもたらされた場合、現地の地域社会がどのように反応するのかについて、映画『めがね』の舞台となった与論島と、アニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルとされる白川郷を取り上げて検討する。<BR><B>Ⅱ.映画『めがね』と与論島</B><BR> 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は、1953年から1972年の沖縄本土復帰まで、南西諸島における日本最南端となっており、1970年前後にはサンゴ礁と美しい海の観光地として人気を博した。かかる観光ブーム時の与論島は、若者にとっての「自由」の島、「恋愛」の島であるとされ、ある週刊誌ではそこを奔放な性の楽園として描き出した。そうした与論島の空間表象や、それをもとに展開される若い観光客たちの実践は、地域社会の大きな反発を招いた。しかしながら、沖縄観光の本格化などを背景に、1979年をピークに観光客が漸減するなかで、次第に観光客と地域社会の対立は表面化しなくなっていった。<BR> 2007年に公開された映画『めがね』は、この与論島をロケ地としており、そこに新しいイメージを付与している。「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとする同映画は、都会から南の島にやって来た女性が、いわゆる観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。この映画は、1970年代の観光ブーム時と同じく、与論島に自由のイメージを喚起する。しかしながらその表象は、男性にとっての性的な楽園から、恋愛等をせずにゆったりとした気持ちでたそがれるという、特定の働く若い女性にとって魅力あるものへと変化している。こうした映画に対して、与論島の住民から反発の声を聞くことはない。そうしたなかで、地元の観光協会は、製作会社の意向や自分で情報を探して来島しようとする観光客の性質などから、大々的に観光宣伝を行わない方針をとっているが、時間が経過するなかで、映画『めがね』を観光に活用する取り組みを着実に進展させている。<BR><B>Ⅲ.アニメ『ひぐらしのなく頃に』と白川郷</B><BR> 白川郷は、1995年に世界文化遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」に登録され、観光地として人気を博している地域である。1994年に日帰り宿泊計約67.1万人であった観光客は、2009年には約173.1万人にまで増加している。同地は近年、観光パンフレット等において、しばしば「日本の原風景」と表象されている。<BR> この白川郷は、2006年に公開されたアニメ『ひぐらしのなく頃に』の舞台のモデルであると考えられたことから、惨劇の村・雛見沢という新しいイメージを喚起することになった。雛見沢のイメージは、のどかな日本の原風景と、その裏に存在する隠された惨劇の村という両義的なものである。かかるイメージを消費する観光客は、世界遺産としての白川郷を訪れる人々とは異なる特徴を持っている。そうした観光客は、主として2~3名グループの若い男性で、多くがインターネットで情報収集し、しばしば白川郷のガイドマップを改変して作成された雛見沢の地図を持参して、アニメで登場したと考えられるポイントを見物するのであり、場合によってはアニメキャラクターのコスプレをしている。<BR> 地元の観光協会は、先の与論島の事例と同じく、こうした観光客の性質上、積極的な宣伝を行わない方針をとっている。しかしながら、住民の反応は大きく異なり、一部で許容する声があるものの、アニメの内容やこうした観光客に対して嫌悪感を抱き、そのイメージが白川郷にふさわしくないと考える住民が存在する。こうしたなかで、白川郷においては、同アニメを活用した観光振興の動きを確認することができない状態にある。
著者
神田 孝治
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.430-451, 2001
被引用文献数
3 4

This paper examines the development process of Nanki-Shirahama Spa Resort, located in southern Wakayama Prefecture in the modern period, in terms of its association with images of other places. In this paper, an attempt is made to examine the triple relationships of "tourism", "otherness", and the "spatiality of capitalism", current concepts stemming from the "cultural turn".<br>To understand the images of other places in tourism space, such images are characterized into two dimensions and their mutual relationship is analyzed. In the first dimension, the image of the tourism space as an "other" place contrasts with images of ordinary and familiar places. In the second dimension, images of geographically remote "other" places are evoked in the imagination. Thus, tourism space becomes the site of "other" encounters. Since the modern period is an age of globalism and nationalism, images which imply a connection to distant "other" places tend to evoke desires and idyllic thoughts and contribute to national identity, and are thus more suitable as the core image of tourism space than one which merely contrasts with ordinary images. In addition, liminal place-myths are more easily formed by this core ima ge through combining a set of images in tourism space.<br>This study aims to further understand the relationship between images of other places and the material creation of tourism space. H. Lefebvre's work (1991) on the outline of space recognition in "The production of space" was therefore consulted. In short, the production of tourism space is treated as a triple dialectic of spatial practice, representation of space and space of representation. Using R. W. Butler's hypothesis (1980) of a tourist area cycle of evolution, three evolutionary stages of the modern tourism space are distinguished: exploration, involvement, and development. The relationship between the images of other places and the process of producing tourism space is considered for each stage.<br>In the Nara Period, the beginning of the exploration stage in this tourism space, Emperors visited Muro-no-onyu, which was called the Yusaki or Shirahama spa, and was counted among the three oldest Japanese hot springs after the modern term. Later, it became popular with spa and sightseeing guests from the Kishu clan in the Edo era. In the early modern period, because it could be reached by ship, explorer-type tourists came from the city. At that time, the spa, renowned for its therapeutic qualities, was called the Yusaki hot spring.<br>The involvement stage began in 1919, when the Shirahama Land Development Company built a resort. Created by Honda Seiroku, the father of the Japanese national park system, this development project was modeled after the German-created beach resort of Qingdao. The Shirahama Land Development Company utilised modern development techniques, such as digging hot springs, creating a road, cottage and park area, and constructing recreational facilities. The core "other" image of this tourism space was the whiteness of "Shira-ra-hama", a clean, white, sandy beach in Shirahama, because it contrasted with the dark images of cities caused by smoke and labor. This whiteness image evoked liminal place-myths, such as making love, curing the body and healing the mind by connecting with other whiteness images of a modern woman's skin and modern infrastructure. Because of these modern white images, many tourists experienced European and American geographical images, which evoked ideal modern culture or free love place-myths. However, these modern and occidental images also evoked images of the modernized city, the "ordinary" place, which is destructive to nature and the whiteness of the beach. Therefore, white and occidental images gradually became poor symbols of "other",
著者
神田 孝治
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.430-451, 2001-10-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
149
被引用文献数
6 4

This paper examines the development process of Nanki-Shirahama Spa Resort, located in southern Wakayama Prefecture in the modern period, in terms of its association with images of other places. In this paper, an attempt is made to examine the triple relationships of "tourism", "otherness", and the "spatiality of capitalism", current concepts stemming from the "cultural turn".To understand the images of other places in tourism space, such images are characterized into two dimensions and their mutual relationship is analyzed. In the first dimension, the image of the tourism space as an "other" place contrasts with images of ordinary and familiar places. In the second dimension, images of geographically remote "other" places are evoked in the imagination. Thus, tourism space becomes the site of "other" encounters. Since the modern period is an age of globalism and nationalism, images which imply a connection to distant "other" places tend to evoke desires and idyllic thoughts and contribute to national identity, and are thus more suitable as the core image of tourism space than one which merely contrasts with ordinary images. In addition, liminal place-myths are more easily formed by this core ima ge through combining a set of images in tourism space.This study aims to further understand the relationship between images of other places and the material creation of tourism space. H. Lefebvre's work (1991) on the outline of space recognition in "The production of space" was therefore consulted. In short, the production of tourism space is treated as a triple dialectic of spatial practice, representation of space and space of representation. Using R. W. Butler's hypothesis (1980) of a tourist area cycle of evolution, three evolutionary stages of the modern tourism space are distinguished: exploration, involvement, and development. The relationship between the images of other places and the process of producing tourism space is considered for each stage.In the Nara Period, the beginning of the exploration stage in this tourism space, Emperors visited Muro-no-onyu, which was called the Yusaki or Shirahama spa, and was counted among the three oldest Japanese hot springs after the modern term. Later, it became popular with spa and sightseeing guests from the Kishu clan in the Edo era. In the early modern period, because it could be reached by ship, explorer-type tourists came from the city. At that time, the spa, renowned for its therapeutic qualities, was called the Yusaki hot spring.The involvement stage began in 1919, when the Shirahama Land Development Company built a resort. Created by Honda Seiroku, the father of the Japanese national park system, this development project was modeled after the German-created beach resort of Qingdao. The Shirahama Land Development Company utilised modern development techniques, such as digging hot springs, creating a road, cottage and park area, and constructing recreational facilities. The core "other" image of this tourism space was the whiteness of "Shira-ra-hama", a clean, white, sandy beach in Shirahama, because it contrasted with the dark images of cities caused by smoke and labor. This whiteness image evoked liminal place-myths, such as making love, curing the body and healing the mind by connecting with other whiteness images of a modern woman's skin and modern infrastructure. Because of these modern white images, many tourists experienced European and American geographical images, which evoked ideal modern culture or free love place-myths. However, these modern and occidental images also evoked images of the modernized city, the "ordinary" place, which is destructive to nature and the whiteness of the beach. Therefore, white and occidental images gradually became poor symbols of "other",
著者
神田 孝治
出版者
観光学術学会
雑誌
観光学評論 (ISSN:21876649)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.93-110, 2017 (Released:2020-01-13)

本研究では、2000年代以降の社会科学において注目されている「移動論的転回」にかかる議論を参照しながら、観光のための場所が、多様な移動が関係するなかでどのようにして創り出されているのか、そしてその場所自体がいかに移動しているのか、といった点について考察した。こうした動的な様相を明らかにするにあたり、対象とする場所に意味の競合が見られる傾向にあるダークツーリズムに注目した。事例として、沖縄本島における墓地を対象とした観光について検討した。 まずⅡ章では、戦前期における沖縄本島において、様々な移動を通じて墓地を対象とする観光がいかに生じたのかについて、大阪商船の役割や辻原墓地の観光地化に焦点をあてて考察した。続くⅢ章では、観光対象としての墓地の移動について、関連する諸移動や社会・政治的状況の変化に注目しながら、戦後における辻原墓地の整理や南部戦跡観光に焦点をあてて検討した。そしてⅣ章では、ダークツーリズムという概念そのものの移動をふまえ、沖縄本島における墓地を対象とした観光の新しい変化について論じた。
著者
神田 孝治
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.24, 2011

<B>I.はじめに</B><BR> 1970年代に観光ブームを迎えた与論島は、観光客と地域社会の間でコンフリクトが見られた典型的な事例であった。こうしたコンフリクトは、特に外部から付与された与論島のイメージと、そこから生じた観光客の諸実践をめぐって生じていた。この与論島は近年、映画『めがね』の舞台として注目を集めているが、そこで喚起される与論島のイメージも現地の対応も1970年代のそれとは大きく異なっている。本発表では、これらの比較を通じて、観光地のイメージとそれへの現地の対応について考察を行う。<BR><B>II. 与論島の観光地としての系譜</B><BR> 与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は1945年の終戦によりアメリカ合衆国軍政統治下におかれたが、1953年に沖縄に先駆け日本に復帰した。そのため、1972年に沖縄が日本に復帰するまで、与論島は南の最果ての地となっていた 。<BR> この与論島に行くのは簡単なことではなく、例えば1968年段階で、鹿児島から最速船で約23時間を要し、船は1日1便であった。しかしながら、1967年に財団法人日本海中公園センターの田村剛が「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」として与論島を賞讃し、翌年にNHKの「新日本紀行」で与論島が放映されると、旅行業者の活動も盛んになるなかで観光客は増加していき、1979年には150,387人の入込客数を記録した。けれどもその後、石垣島への航空機の就航、沖縄の観光開発の本格化などの影響を受け、1980年以降は観光客が漸次減少し、2009年には58,048人となっている。<BR><B>III. 観光最盛期における与論島のイメージとコンフリクト</B><BR> 1970年代の与論島の魅力について、当時の新聞記事では、日常生活を営む都市との対比によってもたらされた「自由」を若者が感じていると指摘していた。さらに当時のマスメディアはさらなる幻想を与論島に付与しており、例えば1971年の週刊誌の記事では、「ブームの与論島の聞きしにまさる性解放」と題してそこを性の楽園として描き出していた。<BR> このように外部から来る観光客の欲望の対象とされた与論島では、地元住民による反発も生じていた。なかでも先の週刊誌の記事は地元住民の大きな怒りを買い、「夜ばいだの、フリーセックスだの、週刊誌の記事はまるで"南洋の土人"扱いではないか。未開の土地を探険する文明人の発想ではないか。」(『南海日日新聞』1971.7.2)と、本土側からのまなざしが批判の対象となっていた。<BR><B>IV. 映画『めがね』による与論島観光と現地の対応</B><BR> 2007年9月に公開された映画『めがね』は、「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとし、都会から南の島にやって来た女性が、観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。<BR> この映画は、与論島に自由を見出しており、それは1970年代の観光ブーム時と同じである。しかしながら、そのイメージは、性的な部分が強調される楽園ではなく、ゆったりとした気持ちで「たそがれる」島というものである。そして、この映画の影響を受けた主に若い女性が、与論島を訪れるようになっている。<BR> 映画『めがね』の提起する与論島のイメージや、それに憧れてやってくる観光客に対して、現地における聞き取り調査では地元住民の反発の声を聞くことはなかった。しかしながら、与論島観光協会への聞き取りでは、制作会社の意向により、そこが与論島であると積極的に宣伝することができないとのことであった。また、そうした宣伝を行うことは、インターネット等を利用して自分で情報収集してやって来る観光客に対しては逆効果であるとも考えており、いくつかの情報提供を行い、またそれによる観光振興への期待は高いものの、映画で与論島をアピールすることはするつもりがないとのことであった。<BR> 地元住民への聞き取り調査では、与論島ブーム時のような観光地化に対する反発は今でも根強い。そうしたなかで、映画『めがね』の喚起する与論島イメージやそれにともなう静かなブームは、地元住民にとっては受け入れやすいものだといえるだろう。しかしながら、それが産み出す与論島のイメージとその魅力は、観光への否定に基づいており、そのなかで映画の舞台であることを積極的に発信できないというジレンマも産み出している。与論島では、観光と地域がどのように関わるかという課題が、イメージの問題を中心に、形を変えながら現在でも続いているといえる。
著者
神田 孝治 遠藤 英樹 須藤 廣 松本 健太郎 吉田 道代 高岡 文章 藤巻 正己 藤木 庸介 濱田 琢司 鈴木 涼太郎 山口 誠 橋本 和也
出版者
立命館大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2017-04-01

本研究は,近年におけるツーリズム・モビリティの新展開に注目し,それを特定の地域に焦点をあてるなかで検討するものである。その際に,「科学技術の進展とツーリズム」,「ダークツーリズム」,「サブカルチャーとツーリズム」,「女性とツーリズム」,「アートとツーリズム」,「文化/歴史遺産とツーリズム」という6つのテーマを設定している。本年度は初年度であったが,各テーマに関連するいくつもの成果が生み出された。特に,「科学技術の進展とツーリズム」に関わるものは,神田孝治・遠藤英樹・松本健太郎編『ポケモンGOからの問い─拡張される世界のリアリティ』(新曜社, 2018)を筆頭に,多数発表されている。本研究課題の成果が,モバイルメディアがもたらす新しいツーリズムに関する研究を牽引するものとなっていると考える。また,研究会も積極的かつ有益な形で実施された。第1回研究会は,観光学術学会や人文地理学会地理思想研究部会と共催するなかで,Durham UniversityのMike Crang氏による“Traveling people, things and data: borders and global flows”と題した講演とそれを受けたシンポジウム「ツーリズム,モビリティ,セキュリティ」を実現した。第2回研究会は,観光学術学会との共催によるシンポジウム「おみやげは越えていく―オーセンティシティ・ローカリティ・コモディティ」と,和歌山大学・国際観光学研究センターのAdam Doering 氏による“Mobilities for Tourism Studies and “beyond”: A Polemic”と題した講演会を実現した。こうした取り組みが,モビリティに注目した先端的な観光研究の知を,広く関連する研究者に提供する役割を果たしたと考える。
著者
神田 孝治
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.59-76, 2004-02-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
66

In this paper, I explore various aspects of the geographical concept of homeland and the case of some homeland movements in Wakayama city in the early days of the Showa era.Generally, homeland is considered to be an important geographical concept because it is deeply related to forming individual and national identities. More precisely, I regard a homeland not only as the center of one's identity, but also as the other place upon which one's ideals or desires are projected. That is, one can realize a homeland in another place. To consider this ambivalent geographical concept, I focus attention on individual and social relationships, imaginary and material factors, and some geographical points of view: moving, positionalities, spatial scales, and so on.In 1931, Iba Takeshi, who advocated promoting the Homeland Art Movement, founded a magazine, "The Nanki Art", in Wakayama city. Nanki, another name for Kishu, is the old name for the geographical region covering Wakayama city and the areas to its south. He said that his lovely homeland of Nanki was suffering severely low cultural activity, despite the fact that Nanki had flourished culturally during the old Edo period. This was because most cultural activities had become excessively concentrated in Tokyo in modern Japan. Influenced by discussions of Romain Rolland's "The People's Theatre", Iba dreamed of his homeland of Nanki becoming a center of culture that could produce better works and a happier life than Tokyo. Thus, he published an enlightening magazine to stimulate a renaissance in his homeland, including many high cultural works created by famous writers and painters. Ironically, he had been a Tokyo dweller, and Nanki had not been his birthplace. When moving to Wakayama city from Tokyo, however, he felt that Nanki was his homeland. Thus, the homeland of Nanki for Iba was not his birthplace but an other place. Therefore, this homeland concept had the ambivalent nature, that was to say, he regarded it as a culturally inferior place, yet idealized it as a region that had the potential for new creations.After this magazine was discontinued in 1934, some of its contributors and local intellectuals organized a cultural group called "The 10th Day Club". This group hoped to boost Wakayama city's cultural life and improve its comfort level. The group's key person was Kitamura Susumu, who had contributed some writings to "The Nanki Art" and, in 1933, had returned from Tokyo to his birthplace of Wakayama city because he had felt a fondness for his homeland. He also felt that there was a possibility of leading a humanistic life, as opposed to the mechanical lifestyle of Tokyo. However, on his return, he criticized Wakayama as a confused and dirty city. He wanted to emphasize the city's attractions for tourists and boost the City Beautiful Movement. At first, the concept of homeland for him had been almost the same as Iba's, but, because his practices had a closer relationship to a real homeland, he gradually noticed his homeland's negative aspects. Furthermore, he criticized Wakayama people because he felt that they were too egotistical and needed to possess a public spirit from his city dweller's point of view.To compensate for his disillusionment, he gradually focused on his homeland's great history, and paid attention to the discussions of the Homeland Education Movement, which was concerned with nourishing the public spirit, the love for one's homeland, and the national soul. Because of these changes, The 10th Day Club's activities eventually ceased. The Research Institute of Kishu Culture was established in Wakayama city in 1936, and was joined by several intellectuals involved with participants of the Homeland Art Movement and many local teachers.
著者
高木 彰彦 遠城 明雄 荒山 正彦 島津 俊之 中島 弘二 山野 正彦 源 昌久 山本 健児 熊谷 圭知 水内 俊雄 久武 哲也 山野 正彦 源 昌久 山本 健兒 熊谷 圭知 水内 俊雄 内田 忠賢 堤 研二 山崎 孝史 大城 直樹 福田 珠己 今里 悟之 加藤 政洋 神田 孝治 野澤 秀樹 森 正人 柴田 陽一
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

公共空間と場所アイデンティティの再編について、地理思想史、理論的研究、経験的研究の観点から検討を行った。研究成果として、『空間・社会・地理思想』10(2006)、『空間・社会・地理思想』11(2007)、『空間・社会・地理思想』12(2008)を毎年刊行したほか、英文報告書として『Reorganization of public spaces and identity of place in the time of globalization : Japanese contribution to the history of geographical thought(10)』(2009)を刊行した。