著者
高橋 昂輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

本発表の対象は,トロントのポルトガル人街である。当該地域の出現とその空間的移動,および質的変容の過程を明らかにすることが本発表の目的である。トロントにおけるポルトガル系移民の歴史は,1950年代以降に確認される。単身男性を中心とした初期のポルトガル系移民は,トロントに定着するとポルトガルから家族を呼び寄せた。これにより1960~70年代において,トロントのポルトガル系移民は急増する。同時期におけるポルトガル系移民急増の背景には,ポルトガル国内の政治情勢が大きく関係した。1930年代以降,ポルトガルではサラザールを中心とした独裁的政権体制が執られており,ポルトガル国民は貧困に窮していた。さらに,1961年アフリカ植民地において開戦された独立戦争は74年まで続き,ポルトガルの財政および国民生活を苦しめた。また,徴兵制度により,多くの若年男性は戦地に出兵することとなった。このようなポルトガル国内の政治的・社会的問題を背景とし,貧困からの脱出,サラザール政権への反発,出兵の回避を目的としてポルトガル人は国外への移住を選択した。1950年代および60年代において,ポルトガル系移民はケンジントンマーケットに集中して居住した。ケンジントンマーケットは,移民集団の最初の居住地として著名な地区であり,ポルトガル系移民の到着以前はユダヤ人,アイルランド人,イタリア人などが居住した。1960年代後半,ポルトガル系移民の居住地域は約2Km西方に位置するリトルポルトガル周辺に移動した。現在,同地区を中心とするトロント市中西部は,ポルトガル系人の集住地区である。リトルポルトガルは商業地区であり,ポルトガル系地区の核心部として位置づけられる。1960年代末以降,同地区にはポルトガル系経営者による商店が相次いで開業した。ポルトガル系人にとって居住,商業の中心地となったリトルポルトガルは,集団内外においてポルトガル人街として認識されていった。2003年において,トロント市からBIA(Business Improvement Area)の指定を受けると,同地区はリトルポルトガルと命名された。リトルポルトガルにおける経営者の過半数は,依然ポルトガル系人である。これらの商店では,従業員としてポルトガル系人が雇用される。このことは,顧客の大半が英語を十分に解さない,ポルトガル系一世であることを示す。移住最盛期から約50年が経過した現在,一世は高齢化しており,トロントのポルトガル系コミュニティは二世または三世へと世代交代しつつある。リトルポルトガル周辺には一世が集中する一方,二世以降は郊外に居住域を拡げる。また,近年ポルトガル系経営者による商店は減少し,新たに発生した空き店舗には非ポルトガル経営者が出店している。先述したBIAは官民一体の地域経済活性化事業であり,地元経営者・土地所有者の参画が求められる。有志の経営者らはBIA委員会を組織し,月次会議において活動内容を策定する。2003年の指定以来,ポルトガル系二世の経営者Rが,BIA委員会の代表を務めてきた。しかし,2012年において代表は非ポルトガル系経営者Kに交代した。BIA委員会の人選は,地域の発展の方向を左右する重要事項である。近年における非ポルトガル系経営者の進出,および域内における権力の掌握は,リトルポルトガルの性格を変容させる要因として捉えられる。

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