著者
高橋 昂輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.50-67, 2018 (Released:2018-03-16)
参考文献数
21
被引用文献数
4

本論は,鹿児島県奄美大島の瀬戸内町嘉鉄において,Iターン者の価値観と集落の機能に注目し,Iターン者を取り入れた集落の維持形態を明らかにした.1990年代末以降,嘉鉄には大都市圏からの移住者が継続的に流入している.彼らは島内の都市的地域を避け,選択的に嘉鉄に居住する.Iターン者が嘉鉄に住居を確保するには,住宅所有者の社会的ネットワークに参加することが求められる.また移住前,住民は会合を開き,移住希望者に対し集落行事への参加を確認する.閉鎖的な住宅市場と集落行事に関する合意形成は,地域社会に適合する人材を選別する役割を果たす.移住後,集落行事は従前の住民がIターン者を受け入れる場所となる.非都市的生活を希求するIターン者と彼らを選別して受け入れる集落の機能が結びつき,嘉鉄ではIターン者を空間的・社会的に取り入れた集落維持が行われている.本論は,限界集落論を反証する事例として位置づけられる.
著者
高橋 昂輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

従来,都市の移民街に関する研究は,居住,事業所,コミュニティ施設の分布など,エスニック集団内部の物理的構成要素から捉えられてきた。しかし,近年,欧米の諸都市ではジェントリフィケーションが進行し,移民街をはじめとしたダウンタウン周辺に対するホスト社会住民の居住選好が指摘されている。すなわち,近年における移民街の変容を明らかにするためには,エスニック集団内部の変化のみならず,集団外部(ホスト社会)の動きと連関して考察することが求められている。また,ジェントリフィケーションの進行過程において,エスニック集団とジェントリファイアーは空間的に混在すると考えられ,両者の関係性に注目することにより,都市空間の変容をより詳細に描出できると考えられる。<br> トロントにおいても,ダウンタウン周辺部に移民街が形成されたが,近年,ホスト社会住民の都心回帰現象が進展している。その結果,ダウンタウンに隣接するリトルポルトガルとその周辺では,既存のポルトガル系住民と近年流入した非ポルトガル系住民の混在化が進行している。商業地区であるリトルポルトガル内部においても,ポルトガル系から非ポルトガル系へと経営者の交代が進行し,現在,両者は域内に併存している。本発表ではリトルポルトガルの主要なアクターである事業所経営者に注目する。現地でのインタヴュー,質問票調査などによって得られた資料をもとに,個人属性にくわえ,経営者間のソシオグラムを作成することにより,社会関係を分析し,ジェントリフィケーションに直面するリトルポルトガルの動向を明らかにする。なお,現地調査は2012年10~11月,および2013年7~10月におこなった。<br> リトルポルトガルを含むトロント市中心西部は建築年代の比較的古い半戸建住宅(semidetached house)が集積し,従来,ホスト社会住民の関心を引かなかった。しかし,近年における社会的多様性,古い建築様式への肯定的評価,通勤時間縮減への志向など,都心周辺部への価値観の転換にもとづき,ホスト社会住民は同地区に流入している。これにより,リトルポルトガル周辺の地価は2001~2006年の間に約1.5倍上昇し(Statistics Canada),2006年以降,さらに高騰している。地価の上昇は土地所有者にとって固定資産税の増加をもたらすとともに,賃借者にとっても家賃の上昇を引き起こす。すなわち,1960年代以降同地区に形成されたポルトガル系人の集積形態はホスト社会住民との関係性によって変化しつつある。<br> リトルポルトガルに立地する非ポルトガル系事業所32軒のうち,28軒は2003年以降に出店した。非ポルトガル系経営者はポルトガル系経営者が閉鎖した空き店舗に開業するため,両者は域内にモザイク状に分布する。また,各経営者に「域内で最も親しいと思う経営者」を最大3人答えてもらい,得られた回答からリトルポルトガル内の社会関係を示すソシオグラムを作成した。分析の結果,ポルトガル系・非ポルトガル系の両経営者集団はリトルポルトガルという同一の空間に併存する一方,それぞれが社会的には異なるネットワークを形成していることがわかった。<br> こうした両経営者集団の社会的な分離状態は,地域自治組織であるBIA(Business Improvement Area)の運営において,顕在化する。前身の地域自治組織が設立された1978年以降,ポルトガル系経営者が組織の代表を務めてきたが,2012年において非ポルトガル系経営者の中心的人物であるK氏が代表に就任した。K氏の就任以降,BIAの委員はポルトガル系から非ポルトガル系中心の人員構成へと変化し,まちづくりにおいてもポルトガル系に特化しないフェスティバルの開催などが企画されるようになった。K氏が代表に就任した初年度にあたる2012年には,ポルトガル系経営者の反対により,フェスティバルの開催は実現に至らなかった。K氏は6名の非ポルトガル系経営者から親しい人物として支持され,非ポルトガル系社会の中では最も高い中心性を示す。しかし他方,同氏はポルトガル系社会のネットワークには接続しておらず,地域自治組織の運営において課題を有しているといえる。ジェントリフィケーションに直面するリトルポルトガルを社会関係の観点から分析することによって,今日における多民族都市トロントの展開を端的に説明することができる。
著者
高橋 昂輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

近年,エスニック・タウンの観光地化や機能の変化が指摘されてきた。時間の経過に伴い,エスニック集団の居住機能はエスニック・タウンから離脱するが,域内にはその後もエスニック・ビジネスなど一部の機能が残存する。したがって,エスニック・タウンはその形態を変えるものの,エスニック集団にとって一定の中心性を維持する。Zelinsky and Lee(1998)によれば,現代の都市においてエスニック集団は居住,就業など活動の内容に応じて異なる空間を利用しつつも,エスニシティを共通項として社会的な結合を保持する。エスニック集団の諸機能を要素として,一体のエスニック社会が形づくられることから,居住,エスニック・ビジネス,エスニック組織など各機能の空間配置を複合的に捉えることはエスニック社会の空間構造の変容を明らかにすることに通ずる。<br> 本発表で取り上げる,トロントのポルトガル系集団は移住から約50年を経て,世代交代期を迎えている。本発表の目的はトロントのポルトガル系社会における空間構造の変容を明らかにすることである。<br> 本発表は2012年10~11月,および2013年7~10月の現地調査にもとづく。調査方法には資料収集,聞き取り,質問票調査,景観観察,および参与観察を用いた。<br> 1960年代末~1980年代初頭,ポルトガル系社会の諸機能はトロントのダウンタウンに近接する,リトルポルトガルに集中した。しかし,1980年代以降ポルトガル系人の居住域は市内北部,および西部郊外へと集塊性を維持しつつ拡散した。現在,ポルトガル系人は①リトルポルトガルにくわえ,②市内北部,および③西部郊外にも居住核を形成する。1990年代末以降においては,居住地移動に呼応してエスニック組織が市内北部に相次いで移転した。<br> ポルトガル系事業所は,現在においてもリトルポルトガル内部に一定の集積を維持するものの,2003年以降ホスト社会住民が出店を続け,その数は減少傾向にある。都市のインナーエリアに対する,ホスト社会住民の再評価は地価の上昇を促進し,低所得のポルトガル系人を域外へと押し出している。ポルトガル系集団のリトルポルトガルからの拡散は,ホスト社会への同化過程としてのみならず,ホスト社会による閉め出しという観点からも捉えられる。また,域内の地域自治組織であるBIA(Business Improvement Area)では,2007年の創設以降ポルトガル系社会の中心人物が代表を務めたが,2012年において代表はカナディアンに交代した。まちづくりにおいても,リトルポルトガルからポルトガルのエスニシティは希薄化している。しかし域内の経営者のうち,ポルトガル系人は依然約半数を占め,リトルポルトガルはポルトガル系商業の核心地として機能を維持している。ポルトガル系経営者の大半は市内北部,または西部郊外から通勤する。他方,ポルトガル系顧客は買物のためにそれぞれの居住地からリトルポルトガルを訪れる。<br> 今日,トロントのポルトガル系集団は3つの居住核を中心に居住,就業,買物,組織への参加など活動の内容に応じ,複数の空間を利用する。ポルトガル系集団の諸機能は空間的に拡散したものの,それらはエスニシティに根差した社会的結合を維持しており,一体の空間的ネットワークを形成している。<br>
著者
高橋 昂輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

本発表の対象は,トロントのポルトガル人街である。当該地域の出現とその空間的移動,および質的変容の過程を明らかにすることが本発表の目的である。トロントにおけるポルトガル系移民の歴史は,1950年代以降に確認される。単身男性を中心とした初期のポルトガル系移民は,トロントに定着するとポルトガルから家族を呼び寄せた。これにより1960~70年代において,トロントのポルトガル系移民は急増する。同時期におけるポルトガル系移民急増の背景には,ポルトガル国内の政治情勢が大きく関係した。1930年代以降,ポルトガルではサラザールを中心とした独裁的政権体制が執られており,ポルトガル国民は貧困に窮していた。さらに,1961年アフリカ植民地において開戦された独立戦争は74年まで続き,ポルトガルの財政および国民生活を苦しめた。また,徴兵制度により,多くの若年男性は戦地に出兵することとなった。このようなポルトガル国内の政治的・社会的問題を背景とし,貧困からの脱出,サラザール政権への反発,出兵の回避を目的としてポルトガル人は国外への移住を選択した。1950年代および60年代において,ポルトガル系移民はケンジントンマーケットに集中して居住した。ケンジントンマーケットは,移民集団の最初の居住地として著名な地区であり,ポルトガル系移民の到着以前はユダヤ人,アイルランド人,イタリア人などが居住した。1960年代後半,ポルトガル系移民の居住地域は約2Km西方に位置するリトルポルトガル周辺に移動した。現在,同地区を中心とするトロント市中西部は,ポルトガル系人の集住地区である。リトルポルトガルは商業地区であり,ポルトガル系地区の核心部として位置づけられる。1960年代末以降,同地区にはポルトガル系経営者による商店が相次いで開業した。ポルトガル系人にとって居住,商業の中心地となったリトルポルトガルは,集団内外においてポルトガル人街として認識されていった。2003年において,トロント市からBIA(Business Improvement Area)の指定を受けると,同地区はリトルポルトガルと命名された。リトルポルトガルにおける経営者の過半数は,依然ポルトガル系人である。これらの商店では,従業員としてポルトガル系人が雇用される。このことは,顧客の大半が英語を十分に解さない,ポルトガル系一世であることを示す。移住最盛期から約50年が経過した現在,一世は高齢化しており,トロントのポルトガル系コミュニティは二世または三世へと世代交代しつつある。リトルポルトガル周辺には一世が集中する一方,二世以降は郊外に居住域を拡げる。また,近年ポルトガル系経営者による商店は減少し,新たに発生した空き店舗には非ポルトガル経営者が出店している。先述したBIAは官民一体の地域経済活性化事業であり,地元経営者・土地所有者の参画が求められる。有志の経営者らはBIA委員会を組織し,月次会議において活動内容を策定する。2003年の指定以来,ポルトガル系二世の経営者Rが,BIA委員会の代表を務めてきた。しかし,2012年において代表は非ポルトガル系経営者Kに交代した。BIA委員会の人選は,地域の発展の方向を左右する重要事項である。近年における非ポルトガル系経営者の進出,および域内における権力の掌握は,リトルポルトガルの性格を変容させる要因として捉えられる。