- 著者
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岡 秀一
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- vol.2013, 2013
はじめに気候景観とは、気候現象がある地域的な広がりを持って、しかも目に見える姿で地表、植物、人間の生活などにその影響の痕跡を残したものである(青山ほか 2009)。2012年春季学術大会シンポジウムでも報告されている通り,日本の現在および過去の気候はきわめて特徴的であり、地形や植物、人間生活などに大きな影響を与えている。これらの姿かたちを仔細に注目すれば,その影響の内容や程度を読み解くことも可能である。このような気候景観の視点は、地域の様々な資質を背景にしており、大地の遺産を理解する視点としても重要な意味を持つのではなかろうか。本報告では気候景観の視点が大地の遺産選定にどうコミットできるのか、対馬の石屋根板倉の発達過程を紐解きながらその試案を述べる。板倉とは 日本海南西端に位置する対馬の集落の一角には板倉が敷設され、独特な景観をつくっている。板倉は湿度を適切にコントロールし、すぐれた貯蔵機能を持っている。中には衣類や食料、季節的な用品などが収納される。この板倉は火災に弱いのが難点である.対馬では冬や春に強風に見舞われ、大火が頻々とした歴史を持つ。住居は山麓に沿って風を避けるように立地しているのに対し、板倉は居住に適さない谷底の河岸や海岸沿いなど群れ、火気のある住居からは隔離されている(青山 2009)。屋根は石で葺かれているものも多い。石屋根板倉である。これは対馬が頁岩や砂岩などで構成される対州層群(漸新統~中新統)からなっており、屋根に葺く頁岩が入手しやすかったからではあるが、瓦の使用が許されなかった時代の板倉機能の維持と強風対策、火災防備に大いに貢献してきた。石屋根板倉の存在は強風環境の反映でもあるのだ。板倉の有無 集落単位でみると板倉が発達している集落と発達していない集落があることが分かる。これは土地所有と深いかかわりを持っている。対馬では寛文年間(1661~1673)に農地制度や税制の改革が行われた。これは島を郷村と府中に分け、郷村には郷士を置き給人として防衛の任に当て、少しばかりの土地を与えて自給生活をさせる一方、その他の土地は公領として村の百姓の戸数に分けて耕作させるものであった。耕地を所有する農民は、地先と呼ばれる磯で藻をとる権利や網漁権を持った。これらの農民は給人とともに本戸と呼ばれた。多くの権利を有していた本戸は相続人にのみ引き継がれ、分家したり漁業のために他国から移り住んだものは寄留戸と呼ばれてこのような権利は一切所有することができなかった(青山 2009)。本戸の多数占める集落と寄留戸からなる集落を比べてみると、前者には多数の板倉が見出されるのに対し、後者では皆無だったり、数はきわめて少ない。板倉の分布 1990年代の調査では板倉は全島的に見出された(岡 2001)。とくに北東部には新築の板倉が目立つ。しかし、石屋根をもつものに注目すると西岸域に偏在している。これは何を物語るのか。対馬の地形をみると、分水界が東偏していることが分かる。傾動的隆起・沈降が生じた結果である。西岸域に流出する河川は、東岸域に流出するそれと比べ大きく、谷底平野は西部に広く分布し、水田は西岸域に広がっている。必然的に本戸からなる集落は西岸域に成立したはずである。したがって板倉も発達したに違いない。しかし、西岸は東岸に比し風が強い。浅茅湾や南西部の豆酘は石材の切り出し地となっており、石屋根に供する石材の入手は容易であった。強風対策として石屋根板倉が発達する道理である。一方、漁業を生業とせざるを得なかった寄留戸は平地の少ない風の比較的弱い東岸に居住せざるを得なかった。このすみ分けに基づけば、もともとは板倉は島の東西で大きく偏在していたに違いない。だが昭和24年、新漁業法の施行により地先の買い上げで占有権がなくなり、離島振興法による港湾整備も相まって自給的農民の兼業漁民化が進み、本戸と寄留戸のすみ分けが不明確になっていった。その結果、無差別的な板倉の普及が全島に進行したのであろう。対馬における板倉の分布形成にはこのような背景があり、その中で強風環境が景観形成に寄与しているとみなすことができる。石屋根板倉に象徴される対馬は大地の遺産にふさわしい 対馬の石屋根板倉は西岸域に偏在する。そこには地質や地形の成り立ちと、それらに規制され、またそれらを利用しながら生活する人々の生産様式・生活様式の複合的な関わり合いという背景があり、強風環境が相まって形成された景観であるといえよう。気候景観分析の視点は大地の遺産選定にあたっても有用であり、石屋根板倉を持つ対馬は大地の遺産としてふさわしいと考える。