著者
山下 翔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>Ⅰ.はじめに</b> 本研究は,近代日本最大の民衆運動とよばれる,1918年の米騒動に,人々の行動に着目して,再検討を試みるものである.米騒動とは,1918年に富山県から始まった,米の安売りを求める民衆運動である.当初は,警察の説得で解散するほどの小さなものだったが,これが都市部へと波及すると,全国を巻き込んだ大規模な暴動へ発展した.これまで,主にその原因や結果の解明に焦点が置かれていた米騒動に対し,その展開過程,特に群集行動に着目して,1日ごとの時間スケールで,詳細な復元を行った.<br><b><br>Ⅱ.名古屋の米騒動</b> 名古屋の米騒動は,1918年8月9日に,人々が鶴舞公園に集まったことに始まる.9日の騒動は,大きな暴動には発展しなかったが,10日以降,鶴舞公園では,連日にわたって,飛び入りの弁士たちによる演説が行われ,演説が終わると,人々は公園を出発し,市役所や米屋へ向かった.米屋だけでなく,交番や商店,民家も多くの被害を受けた.<br><b><br>Ⅲ.集合場所</b> 鶴舞公園は,米騒動だけでなく,1914年の電車焼打事件の際にも,人々の集合場所となっていた.しかし,3日間続いた電車焼打事件では,演説が1日目に行われたのみで,2日目以降の暴動の際には,人々は,襲撃目標である家の付近に直接集合していた.米騒動で群集の主な目的地となったのは,米穀仲買人の密集地である米屋町だった.鶴舞公園は米屋町から4km以上離れた場所で,暴動のために集まるには,集まりにくい場所といえる. では,なぜ人々は連日にわたって,鶴舞公園に集まったのだろうか.電車焼打事件,米騒動の双方において,人々は,演説がなければ,公園を出発して暴動に出ることなく解散している.このことから,米騒動において,人々が鶴舞公園に集まったのは,暴動のためというよりも,演説の聴衆として集まった意味合いが強いと考えられる.すなわち,鶴舞公園は,米騒動において,演説の場所として利用されていた.<br><b><br>Ⅳ.移動経路と襲撃地</b> 公園を出発した後の行動について,新聞記事,裁判記録より移動経路と襲撃地を抜き出して図化し,群集の目的性を検討した.さらに,演説文の主張を併せて考察すると,演説に表れた米屋批判,警察批判が,そのまま群集行動となってあらわれていた.すなわち,群集の大きな目的地は演説の影響を強く受けて決定されていたといえる.しかし,演説では,米屋や警察の批判が行われる一方で,「むやみな暴動は起こすべきではない」という主張も多かった.それにも関わらず,街路での暴動が数多く行われていることには疑問が残る. これに関して,本研究では,これまでほとんど検討されてこなかった『予審終結決定』の後半部分を分析した.この史料には,被起訴者178名がどこから集団に加わり,どのように行動したかが記載されている.この史料を整理すると,名古屋の米騒動の被起訴者は,鶴舞公園から米騒動に参加した者よりも,群集が米屋町に向かう中で,途中の街路から加わってきた者が多い. その行動をみると,鶴舞公園から集団に加わった者は,演説の通りに,暴動を起こすことなく米屋町まで移動している者が多い.街路での暴動を起こしたのは,途中から集団に加わってきた者が中心だった.すなわち,演説を聞いていなかった者が暴動の主体だったと考えることができる.<br><b><br>Ⅴ.おわりに</b> 本研究では,米騒動における群集行動を詳細に復元することによって,「名古屋の米騒動は,鶴舞公園に集まった集団が街路で暴動を起こしながら米屋町に向かった」という通説に対し,実際には米屋町に向かう途中で騒動に加わってきた者が主体となって騒動を起こしていたことを指摘できた.

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こんな論文どうですか? 名古屋の米騒動における群集行動に関する研究(山下 翔),2014 https://t.co/8CI0g1f2cv <b>Ⅰ.はじめに</b> 本研究は,近代日本最大の民衆運動とよばれる,1918年の米騒動に,人々の行動に着目…
名古屋の大正デモクラシーの中心地は鶴舞公園。米騒動のときは弁士が連日講演。へぇー。論文読んで見たい。 CiNii 論文 -  名古屋の米騒動における群集行動に関する研究 https://t.co/k5OgLUhoYM

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