著者
石井 久生
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>アメリカ西部のバスク系移民</b><br> バスク人は19世紀後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国西部に主に羊飼いとして入植した。その多くは短期労働査証で入国して故地バスク地方との間を頻繁に往来し,ある程度の蓄財の後にバスク地方に戻った。しかし,一部のアメリカ西部に残った者は,牧羊業やホテル業に参入した。2010年センサスで「バスク系」と回答しているのは全米でわずか約5万人である。数的に極めて少数であるうえ,出稼ぎ目的の還流者が多かったため,エスニック・エンクレイブのように彼らの存在が景観として可視化することはほとんどない。その反面,移民宿であるバスク・ホテルは彼らの重要な活動拠点になった。そのためアメリカ西部主要都市には,バスク・ホテルの集中する地区が形成された。バスク・ホテルは1970年代にバスク地方からの移民が激減するのにともない各地で姿を消し,集中地区も周囲の景観に吸収されていったが,その中で唯一アイダホ州の州都ボイジーではそれが保存・強化されている。<br><b>ボイジーのバスク・ブロック</b><br> ボイジーにバスク系移民がみられるようになったのは20世紀初頭であった。彼らはバスク・ホテルを活動拠点として,牧羊業をはじめ,建設業,鉱業などに就業した。ボイジーのバスク・ホテル集中地区は,鉄道駅の北東側数ブロックの狭い範囲に形成され,最盛期の1920年代から1940年代にかけては10以上のバスク・ホテルが立地した。その中の一区画であるグローヴ通り600番街は,現在「バスク・ブロックBasque Block」と呼ばれ,バスクのエスニックな景観が保存されている。<br> バスク・ブロックは,バスク関係諸施設が集中する世界的にも特異な空間である。このブロックには1940年代までにバスク・ホテルやバスク・センター(バスク人会が運営する集会場)が建設された。しかし1950年代頃から退廃化が進行し,1970年代に進行した再開発計画では,この付近にはショッピング・モールの建設が予定された。しかしバスク系の不動産所有者らからの要望により,1980年代半ば以降,個人と公的機関が協調しつつ既存景観を保全改修する方針に転換された。そして1985年にバスク博物館が開業したのを皮切りに,バスク人会による資金援助もあり,バル,マーケット,レストランなどの諸施設が開業した。<br><b>バスクのポストモダンなエスニック景観</b><br> バスク・ブロックは景観演出においてもバスク色が強調されている。図中⑥にはバスク地方とアメリカ西部のバスク人をモチーフにした巨大な壁画が掲げられている。グローヴ通りの路面には,バスク地方を象徴するラウブルLauburuのイメージが組み込まれている。これらの街路景観整備は, 5年に一度ボイジーで開催される世界最大規模の国際バスク・フェスティバルであるハイアルディJaialdiの会場としてバスク・ブロックが2000年に採用されたのにあわせて実施された。そもそもハイアルディの開催は,1987年に北米バスク組織NABOの会合後にボイジー代表とバスク政府代表の間で交わされた会話が発端になっている。そしてバスク州政府は,ハイアルディ開催のためにバスク地方から人材や情報を今日まで提供し続けている。かつてバスク地方からのヒトの移動がバスク・ホテルを主体としたモダンなエスニック景観を生産したが,バスク地方でバスク州が自治権を得る頃にモダンな移動と景観は終焉し,それにかわり現在では政策や情報のポストモダンな移動が,ボイジーのバスク・ブロックにポストモダンなエスニック景観を生産,強化している。移民の故地と定住地を連動する研究にとっては大変興味深い現象である。

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