著者
石井 久生
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

バスク人は19世紀後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国に移住し,主にアメリカ西部において羊飼いに従事した。その多くは,数年間就業して蓄財を果たした後に故地バスク地方へ戻るという還流的移民であった。しかしその一部はアメリカ西部の主要都市に残り,牧羊業やホテル業に参入した。ホテル業はバスク系羊飼いを主たる顧客としたが,アメリカ西部においてはその需要が高かった。そのためバスク系移民が集中するアメリカ西部諸都市には,19世紀末以降バスク系移民を対象とする「バスク・ホテル」が開業するようになった。バスク・ホテルが集中する諸都市では,定住者によりバスク人の組織化が進行した。バスク人の同人会組織である「バスク人会」は,移民の定住が進んだアメリカ西部各都市に1930年代頃から組織されるようになった。当初同人会は,会合の場所としてバスク・ホテルやそれに併設されたレストランを活用していたが,1940年頃から同人会固有の建造物を所有するようになった。それが「バスク・センター」である。その当時バスク・センターはバスク人が集住するアメリカ西部諸都市に建設された。そこに集うバスク人は,同族組織の連帯を強化するための諸活動を展開したが,そのひとつが祝祭である。<br> バスク人が主催する祝祭行事は,「ピクニック」と「バスク・フェスティバル」の2つに大別できる(図1)。ピクニックは屋外でバスク風の食事会,ダンス,スポーツ競技などに興じるものであるが,バスク人が移住するようになった初期のころから,バスク系羊飼いの間で最もポピュラーな行事であったようである。ピクニックで実践される祝祭のスタイルを継承し拡張されたのが,都市部のバスク・センターで開催されるようになったバスク・フェスティバルである。ピクニックがバスク系住民内で閉じた行事であるのに対し,バスク・フェスティバルは地域に開放された祝祭であるため,開催にはある程度以上のバスク系住民の存在が前提となる。そのためアメリカ西部でもバスク系住民の多いアイダホ州,カリフォルニア州,ネヴァダ州の諸都市にほぼ限定される。その歴史は比較的新しく,最も古いカリフォルニア州ベーカーズフィールドのものでも1970年頃からである。ちょうどバスク地方からの移民の流入が収束する時期と一致している点が興味深い。&nbsp;<br> アイダホ州の州都ボイジーでは,1987年にJaialdiハイアルディと呼ばれる最初のバスク・フェスティバルが実施された。1990年以降は5年ごとに開催されており,現在では世界最大規模のバスク・フェスティバルとなっている。このメイン会場となる旧市街の一区画は,1980年代以降バスク関連施設が整備されるようになり,現在「バスク・ブロック」と呼ばれる。この祭典には故地バスク地方が深く関わっている点が興味深い。ちょうど1980年頃に自治を確立したバスク州は,海外在住のバスク人の支援を推進するようになったが,ボイジーのハイアルディに対しては舞踊家などの人材や文化的コンテンツを提供している。かつて羊飼いが移動することで形成されたトランスナショナルなネットワークは,ヒトの移動が途絶えた現在でもバスクに関わる情報が移動するネットワークとして残り,そのネットワークを介して双方の場所でバスクのナショナリティを強化する運動が進行している。ハイアルディが開催される場所は,バスクのトランスナショナリティが表象する貴重な社会空間であるともいえる。
著者
石井 久生
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>アメリカ西部のバスク系移民</b><br> バスク人は19世紀後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国西部に主に羊飼いとして入植した。その多くは短期労働査証で入国して故地バスク地方との間を頻繁に往来し,ある程度の蓄財の後にバスク地方に戻った。しかし,一部のアメリカ西部に残った者は,牧羊業やホテル業に参入した。2010年センサスで「バスク系」と回答しているのは全米でわずか約5万人である。数的に極めて少数であるうえ,出稼ぎ目的の還流者が多かったため,エスニック・エンクレイブのように彼らの存在が景観として可視化することはほとんどない。その反面,移民宿であるバスク・ホテルは彼らの重要な活動拠点になった。そのためアメリカ西部主要都市には,バスク・ホテルの集中する地区が形成された。バスク・ホテルは1970年代にバスク地方からの移民が激減するのにともない各地で姿を消し,集中地区も周囲の景観に吸収されていったが,その中で唯一アイダホ州の州都ボイジーではそれが保存・強化されている。<br><b>ボイジーのバスク・ブロック</b><br> ボイジーにバスク系移民がみられるようになったのは20世紀初頭であった。彼らはバスク・ホテルを活動拠点として,牧羊業をはじめ,建設業,鉱業などに就業した。ボイジーのバスク・ホテル集中地区は,鉄道駅の北東側数ブロックの狭い範囲に形成され,最盛期の1920年代から1940年代にかけては10以上のバスク・ホテルが立地した。その中の一区画であるグローヴ通り600番街は,現在「バスク・ブロックBasque Block」と呼ばれ,バスクのエスニックな景観が保存されている。<br> バスク・ブロックは,バスク関係諸施設が集中する世界的にも特異な空間である。このブロックには1940年代までにバスク・ホテルやバスク・センター(バスク人会が運営する集会場)が建設された。しかし1950年代頃から退廃化が進行し,1970年代に進行した再開発計画では,この付近にはショッピング・モールの建設が予定された。しかしバスク系の不動産所有者らからの要望により,1980年代半ば以降,個人と公的機関が協調しつつ既存景観を保全改修する方針に転換された。そして1985年にバスク博物館が開業したのを皮切りに,バスク人会による資金援助もあり,バル,マーケット,レストランなどの諸施設が開業した。<br><b>バスクのポストモダンなエスニック景観</b><br> バスク・ブロックは景観演出においてもバスク色が強調されている。図中⑥にはバスク地方とアメリカ西部のバスク人をモチーフにした巨大な壁画が掲げられている。グローヴ通りの路面には,バスク地方を象徴するラウブルLauburuのイメージが組み込まれている。これらの街路景観整備は, 5年に一度ボイジーで開催される世界最大規模の国際バスク・フェスティバルであるハイアルディJaialdiの会場としてバスク・ブロックが2000年に採用されたのにあわせて実施された。そもそもハイアルディの開催は,1987年に北米バスク組織NABOの会合後にボイジー代表とバスク政府代表の間で交わされた会話が発端になっている。そしてバスク州政府は,ハイアルディ開催のためにバスク地方から人材や情報を今日まで提供し続けている。かつてバスク地方からのヒトの移動がバスク・ホテルを主体としたモダンなエスニック景観を生産したが,バスク地方でバスク州が自治権を得る頃にモダンな移動と景観は終焉し,それにかわり現在では政策や情報のポストモダンな移動が,ボイジーのバスク・ブロックにポストモダンなエスニック景観を生産,強化している。移民の故地と定住地を連動する研究にとっては大変興味深い現象である。
著者
矢ケ崎 典隆 山下 清海 加賀美 雅弘 根田 克彦 山根 拓 石井 久生 浦部 浩之 大石 太郎
出版者
日本大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2011-04-01

多民族社会として知られるアメリカ合衆国では、移民集団はいつの時代にも異なる文化を持ち込み、それが蓄積されて基層(古いものが残存するアメリカ)を形成してきた。従来のアメリカ地誌は表層(新しいものを生み出すアメリカ)に注目した。しかし、1970年代以降、アメリカ社会が変化するにつれて、移民の文化を再認識し、保存し、再生し、発信する活動が各地で活発化している。多様な文化の残存、移民博物館、移民文化の観光資源化に焦点を当てることにより、現代のアメリカ地誌をグローバルな枠組みにおいて読み解き直すことができる。アメリカ合衆国はまさに「世界の博物館」である。