- 著者
-
中村 博司
- 出版者
- 公益財団法人 史学会
- 雑誌
- 史学雑誌
- 巻号頁・発行日
- vol.125, no.11, pp.40-64, 2016
本稿は、内田九州男が1988・89年に相次いで発表した、羽柴(豊臣)秀吉による「大坂遷都構想」をめぐる一連の論考を再検討することを通じて、羽柴政権と当該期朝廷との関係性、ひいては秀吉の政権構想を明らかにしようとするものである。天正11年(1583)4月の賤ヶ岳合戦に勝利して織田信長の後継者たる地位を獲得した秀吉は、間もなく大坂に新たな居城構築を始める(大坂築城工事)が、内田は一連の論文を通じて「秀吉はこれと並行して大坂遷都を断行し、そのうえで自らが将軍となって大坂に幕府を開くという構想を持っていた。しかし、朝廷の招致に失敗したために将軍任官も大坂幕府開設も頓挫し、止む無く秀吉は関白となって同14年に関白公邸としての聚楽第を京都に構築することになる」としたのである。この大坂遷都論は早くから注目され、現在でもなお多くの研究者が支持しているが、そこには自ら検証したうえでのものはない。その一方、羽柴政権と朝廷との関係性を取り扱った論文・著書等において、内田の論文は等閑視されるという状況も存在する。これは「大坂遷都構想」および将軍任官・大坂幕府開設というテーマが、羽柴政権と当該期朝廷との関係性について考察する上での最重要課題の一つであるのみならず、中近世移行期における天皇制の在り方にもかかわる論点であることを考えると誠に奇妙な状況と言わざるを得ない。しかもそれが今日まで四半世紀という長年の間、実証的な検証が行なわれることなく、いわば両論並立のような状況のままで推移してきたことは、長年このテーマに関心を抱いてきた者として誠に残念なことでもあった。そこで、改めて大坂遷都論にかかわる根拠史料の再吟味を通じて検討したところ、大坂遷都、将軍任官、大坂開幕のことごとくがなり立たず、「大坂遷都論」は総体として成立しないことが明らかとなった。その結果を踏まえ、大坂遷都論の評価の上に立って秀吉の関白政権樹立に至る構想を明らかにしてきた横田冬彦の仕事を俎上に乗せて検討したところ、秀吉が大坂遷都を断念した理由が必ずしも明確でないことに加え、断念の最大の理由とする小牧長久手合戦の敗戦についても、そうした評価は早計で、むしろ長引く小牧長久手の講和を探るなかで、秀吉の視野に新たな政権構想として公武の頂点に立つ関白職を獲得するという方針が入ってきたとし、そういう積極的な評価こそ妥当とした。そして、こうした一連の経過のなかに大坂遷都構想とその断念という事象を入れる歴史的必然性は無いものと結論付けた。