著者
望月 善次
出版者
一般社団法人 日本農村医学会
雑誌
日本農村医学会学術総会抄録集 (ISSN:18801749)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.2, 2010

先ず、伝統ある「第59回日本農村医学会学術総会」において、「特別講演」の場を与えられたことを感謝致します。<BR> 講演テーマに掲げた「<われらはいっしょにこれから何を論ずるか>」は、いうまでもなく宮澤賢治「農民芸術概論綱要」の「序論」冒頭の文言です。<BR> 「農民芸術概論綱要」は、この文言の後、「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい/われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった/近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」と続き、あの有名な一節「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」に至ることは御承知の通りであります。<BR> ところで、宮澤賢治は、通常の意味での「文学者」であったのではありません。「文学者でもあった生涯」だというのが私の考えです。〔望月善次「文学者でもあった生涯~ 「挫折からの甦り」が織り成す未完の人生 ~」、福島泰樹・立松和平責任編集『月光』第二号(勉誠出版、2010)pp.93~99.〕<BR> また、その生涯は決して順調なものではなく、「挫折と甦り」を繰り返した生涯でもありました。<BR> 典型的なものを列挙してみても次のようなものを挙げることができます。<BR> 現在的に言えば「落ちこぼれ」であった(旧制)中学校時代とその後の浪人時代〔明治42年~大正3年=13歳~18歳〕、盛岡高等農林学校を優秀な成績で得業(卒業)して、「研究生」として残ったのに、死因となった結核の徴候と考えられる体調の異変を感じ、花巻の家に帰り悶々とした頃〔大正7年=22歳〕、家出して上京し、宗教団体国柱会に賭けようとするが結局は故郷、花巻に帰った頃〔大正10年=25歳〕、「この四ケ年が/わたくしにとってどんなに楽しかったか」というほど充実していた「花巻(稗貫)農学校」の教師をやめ、「本統の百姓」になろうとしたのに〔★「農民芸術概論綱要」は、この時期に相当します。〕、農民と自分との間にある越えられない溝を徹底的に思い知らされる羅須地人協会時代〔大正15年=30歳〕、東北砕石工場技師としての再起と体調の異変〔昭和5年=35歳〕等々です。しかも最後の体調異変は、結局回復することなくこの世を去らなければならなかったのです。<BR> しかし、こうした賢治の生涯は、多くの人の心を揺さぶっています。それは、賢治が精一杯の生を生きたからでありましょう。<BR> 当日は、賢治の写真や作品なども紹介しながら、その生涯を辿り、その生涯の意味を共に考えることができればと考えております。<BR>

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