著者
西部 均
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.252, 2005

今日の急激な経済発展の道を驀進する巨大な中国社会を牽引する上海という場所は,世界中の資本主義諸国からますます熱い眼差しを注がれている。それは何も経済ばかりの話ではない。この上海という都市は,かつて世界でも特異な性格をもつ場所として世界史にその名を刻み,欧米人や日本人にとっても因縁深い係わりがあった。その記憶が今,発掘され整理されようとしている。1980年代以降,近代上海を題材とする文芸作品は急激にその数を増し,また近代上海史研究もさまざまな分野から貢献が相次ぐようになった。この近代上海ブームは中国や欧米でもますます加熱し,止まるところを知らない勢いだ。こうした近代上海史研究の中から,近代上海の世界的な特異性と魅力の一端が明かにされた。つまり,上海は他の場所では受容されがたい極端な異質性,つまり東洋と西洋,支配者と抵抗者,富者と貧者,生と死などが同時に包みこまれてしまう。ここでは,世界50国からまた中国各地からやってきた人々のアイデンティティが見事にすれ違い,それでいて彼らを一所に共在させる磁力が働いていた。彼らは,その磁力の赴くままに身を任せながら自らのアイデンティティを浮遊させ,近代上海の限りない可能性を謳歌した反面,無政府状態の闇社会の中に転落していった。しかし,これは都市を都市たらしめている要素であり,その要素の極端な表出の見られた近代上海は,都市を考えるうえで絶好の事例を用意してくれる。<BR>先行研究において,上海に作られた日本人社会は,常に流民と言える人々からエネルギーを送り続けられて成立した社会だったことが明らかにされている。零細貿易商や「からゆきさん」に代表される彼らは,日本社会で食い詰め,ろくな元でももたずに渡来し,上海で成功することに賭けた人たちである。彼らの存在は,忠孝の封建遺制的な倫理や家父長的規範に堅固に守られた本国社会になじめなかった人たちにとって,絶好のアジールを与える自由さを醸し出すことになった。しかし,先行研究において注目を集めてきたのは,こうした土着派居留民ではなく,上海に関する文芸作品をものし同時代の日本社会に上海の魅力を印象づけた芥川龍之介,村松梢風,横光利一のような,「遊滬派」の人たちである。彼らの表象分析において,「魔都」イメージのなかで日本人にとっての上海像がとらえられることが多かった。「魔都」イメージにおいてエログロナンセンスに酔う本国のモダニストたちに,西洋と東洋の混じり合う異国のエキセントリックな魅力は危険と隣り合わせで,虎穴に入らずんば…,という冒険心をかき立てる。しかし,これは近代上海に対する日本人の係わり方の片面でしかなく,いまだそのバランスの取れた日本人にとっての上海の認識像を描き出せてはいない。そこで,日本人の遺した各種表象の中から当時の日本人の上海への係わり方を探り出していく必要がある。<BR>近代期に日本人の書き残した上海の表象は,膨大な数に上るが,上海で刊行されたものなどの散逸が激しく,閲覧が容易でないものも多い。しかし,仮にこれらをジャンル分けすれば,以下のようなものが得られる。すなわち,日本国政府機関による調査報告,渡航者向けガイドブック,居留民のエッセイ・ルポルタージュ,作家の文芸作品,紀行文,郷土史などである。この中で,本研究の課題に最も有用なのはガイドブックである。ガイドブックは,上海ものの文芸作品と同じく,種類も多く,版を重ね続け,多くの日本人読者を得たことが分かる。そこで,1900-1930年代のガイドブックの内容を検討すると,以下のようなことが言える。すなわち,中国語の上海ガイドには上海で生活するためのプラグマチックな情報が満載されているのに対し,日本語のガイドには上海で事業をおこすための情報に偏りが見られる。さらに,日本語ガイドには上海の地政学的位置や行政機構について概説が充実している。上海での社交術の紹介もある中国語ガイドには,中国社会に張りめぐらされた人脈ネットワークを推測させるが,日本人にとっての上海はまず自分の足で立たなければならない異国の地であった。しかし,1920年代,1930年代に進むとともに,日本人社会の拡大,組織化が進み,日本人社会の紹介記事が幅を利かすようになる。また,上海自体の発展とともに,上海を楽しもうとするゆとりが示されるようになる。さらに,その他の表象のなかで紹介された中国人の習慣・風俗,中国人社会への関心の広がりが示されるようになった。上海の日本人にとって,中国人は優越感を感じる差別対象であるとともに,同時に欧米人に対して同じ劣等者であるという同種意識の対象でもあり得た。中国人との関係を遮断する傾向にあった欧米人に比べ,日本人の中国社会への関心の広がりは注目すべき事象である。また,ガイドブックと文芸作品との関係も検討すべき課題である。

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