著者
西部 均 平野 昌繁
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.75, no.7, pp.479-491, 2002-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
39

兵庫県南部地震による市街地被害の数量的評価のため,神戸市兵庫区・中央区の応急修正版住宅地図に基づいて震災被害率を計算した.家屋の被害には1950年の建築基準法施行が最も大きく影響していると考え,米軍空中写真を利用して市街地の戦災状況を判別し,震災被害と戦災状況を比較した.その結果,震災被害率は戦災の程度が大きいほど小さくなる関係にあることが確認された.その関係性を踏まえた上で,さらに1万分の1地形図を利用して震災被害率の空間分布の方位特性を分析した.その結果,戦災を免れた地区ばかりでなく,活断層に沿う部分でも被害が大きいことも判明した.このように空間的に市街地被害を評価することで,被害分布図のみでは判定しがたい家屋特性と活断層という被害要因の相乗効果を明確化することが可能となった.
著者
西部 均
出版者
地理科学学会
雑誌
地理科学 (ISSN:02864886)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.259-279, 1999-10-28 (Released:2017-04-20)
参考文献数
63
被引用文献数
3

本稿は,地理学における建造環境,言説,場所の議論に基づいて,流動する社会の空間と時間のなかで建造物がもつ位置と役割を地理学的に書きとめる試みである。それにはまず,人間を取り巻き人間に経験される環境として,建造物を捉え直すことが重要になる。中心事例は1920年代の大阪市における街路照明の設置活動である。また当時の科学雑誌や新聞記事の分析に際しては,街路照明にもたらされた言説と場所の作用を見定める。こうして街路照明に係わる空間と時間を復元した結果,以下のような近代都市社会のダイナミズムが再現された。すなわち,街路照明は,1920年代以降照明工学や都市行政の分野で研究が始められ,当時の都市社会が直面した交通問題,関東大震災後の治安悪化,深刻な不況の経験を反映した普遍的な価値を獲得していった。しかし,他方でそれは,実際に都市のなかに設置される過程で場所の多様性を備えていった。大阪市では,行政機構,住民社会,近代天皇制との関係から街路照明の価値が変質し,大阪市という場所の独自性が街路照明に付与された。以上のことから,街路照明が1920年代の都市の経験と絶妙な調和を見せていたことが明らかになった。
著者
西部 均
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.252, 2005

今日の急激な経済発展の道を驀進する巨大な中国社会を牽引する上海という場所は,世界中の資本主義諸国からますます熱い眼差しを注がれている。それは何も経済ばかりの話ではない。この上海という都市は,かつて世界でも特異な性格をもつ場所として世界史にその名を刻み,欧米人や日本人にとっても因縁深い係わりがあった。その記憶が今,発掘され整理されようとしている。1980年代以降,近代上海を題材とする文芸作品は急激にその数を増し,また近代上海史研究もさまざまな分野から貢献が相次ぐようになった。この近代上海ブームは中国や欧米でもますます加熱し,止まるところを知らない勢いだ。こうした近代上海史研究の中から,近代上海の世界的な特異性と魅力の一端が明かにされた。つまり,上海は他の場所では受容されがたい極端な異質性,つまり東洋と西洋,支配者と抵抗者,富者と貧者,生と死などが同時に包みこまれてしまう。ここでは,世界50国からまた中国各地からやってきた人々のアイデンティティが見事にすれ違い,それでいて彼らを一所に共在させる磁力が働いていた。彼らは,その磁力の赴くままに身を任せながら自らのアイデンティティを浮遊させ,近代上海の限りない可能性を謳歌した反面,無政府状態の闇社会の中に転落していった。しかし,これは都市を都市たらしめている要素であり,その要素の極端な表出の見られた近代上海は,都市を考えるうえで絶好の事例を用意してくれる。<BR>先行研究において,上海に作られた日本人社会は,常に流民と言える人々からエネルギーを送り続けられて成立した社会だったことが明らかにされている。零細貿易商や「からゆきさん」に代表される彼らは,日本社会で食い詰め,ろくな元でももたずに渡来し,上海で成功することに賭けた人たちである。彼らの存在は,忠孝の封建遺制的な倫理や家父長的規範に堅固に守られた本国社会になじめなかった人たちにとって,絶好のアジールを与える自由さを醸し出すことになった。しかし,先行研究において注目を集めてきたのは,こうした土着派居留民ではなく,上海に関する文芸作品をものし同時代の日本社会に上海の魅力を印象づけた芥川龍之介,村松梢風,横光利一のような,「遊滬派」の人たちである。彼らの表象分析において,「魔都」イメージのなかで日本人にとっての上海像がとらえられることが多かった。「魔都」イメージにおいてエログロナンセンスに酔う本国のモダニストたちに,西洋と東洋の混じり合う異国のエキセントリックな魅力は危険と隣り合わせで,虎穴に入らずんば…,という冒険心をかき立てる。しかし,これは近代上海に対する日本人の係わり方の片面でしかなく,いまだそのバランスの取れた日本人にとっての上海の認識像を描き出せてはいない。そこで,日本人の遺した各種表象の中から当時の日本人の上海への係わり方を探り出していく必要がある。<BR>近代期に日本人の書き残した上海の表象は,膨大な数に上るが,上海で刊行されたものなどの散逸が激しく,閲覧が容易でないものも多い。しかし,仮にこれらをジャンル分けすれば,以下のようなものが得られる。すなわち,日本国政府機関による調査報告,渡航者向けガイドブック,居留民のエッセイ・ルポルタージュ,作家の文芸作品,紀行文,郷土史などである。この中で,本研究の課題に最も有用なのはガイドブックである。ガイドブックは,上海ものの文芸作品と同じく,種類も多く,版を重ね続け,多くの日本人読者を得たことが分かる。そこで,1900-1930年代のガイドブックの内容を検討すると,以下のようなことが言える。すなわち,中国語の上海ガイドには上海で生活するためのプラグマチックな情報が満載されているのに対し,日本語のガイドには上海で事業をおこすための情報に偏りが見られる。さらに,日本語ガイドには上海の地政学的位置や行政機構について概説が充実している。上海での社交術の紹介もある中国語ガイドには,中国社会に張りめぐらされた人脈ネットワークを推測させるが,日本人にとっての上海はまず自分の足で立たなければならない異国の地であった。しかし,1920年代,1930年代に進むとともに,日本人社会の拡大,組織化が進み,日本人社会の紹介記事が幅を利かすようになる。また,上海自体の発展とともに,上海を楽しもうとするゆとりが示されるようになる。さらに,その他の表象のなかで紹介された中国人の習慣・風俗,中国人社会への関心の広がりが示されるようになった。上海の日本人にとって,中国人は優越感を感じる差別対象であるとともに,同時に欧米人に対して同じ劣等者であるという同種意識の対象でもあり得た。中国人との関係を遮断する傾向にあった欧米人に比べ,日本人の中国社会への関心の広がりは注目すべき事象である。また,ガイドブックと文芸作品との関係も検討すべき課題である。
著者
Pred Allan 西部 均
出版者
大阪市立大学大学院文学研究科地理学専修
雑誌
空間・社会・地理思想 (ISSN:13423282)
巻号頁・発行日
no.9, pp.148-167, 2004

本稿は, 従来とは異なるタイプの地域地理学あるいは場所中心の地理学のために, 理論的基礎を提示するものである。その枠組みは, 時間地理学と登場しつつある構造化理論を集約したものに基づいている。それはまた, 景観として眼に映るさまざまな特徴の組み合わせとしてだけでなく, 絶えず生成する人間の生産物としても, 場所を概念化することで構築される。場所はひとつの過程とみなされ, その過程を介して社会的・文化的諸形態の再生産, おのおのの個人誌の形成, 自然の変形がやむことなく相互生成し, 同時に時間-空間の種別的な諸活動や権力諸関係が絶え間なく相互生成する。さらに, こうした諸現象が場所や地域の生成過程に織り込まれるときには, 普遍的法則にしたがうのではなく, 歴史的状況に応じてさまざまなやり方があると強調される。その枠組みからおのずと浮かび上がる三つの経験的論点について, 手短に検討される。
著者
西部 均
出版者
The Human Geographical Society of Japan
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.369-386, 2001-08-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
102
被引用文献数
1 1

This paper focuses on town planning in Osaka City in the 1920s from a socio-spatial dialectical perspective. When I looked back on town planning at that time, I realized the significance of the relationships between the central urban districts and the peripheral rural districts, between residential suburbs and Osaka City and between the state and Osaka City. Thus, I applied geographical ideas, such as geographical imagination, space, place and scale to the various aspects of town planning history. Through this approach, I make clear the process of the use of politics among Osaka municipal bureaucrats, State bureaucrats and Osaka councilmen. This process is represented in the form of conflicts concerning spatial scales within their geographical imaginations.In Osaka City during World War I, citizens had encountered capitalistic industrialization primarily dependent upon heavy industry, a mass influx of laborers and serious urban problems such as a housing shortage. In order to cope with those problems, Osaka municipal bureaucrats imagined Osaka City as an organism, dependent on the discourse of the Garden City, and projected the reorganization of urban space.However, with the establishment of the town planning area, the bureaucrats in the Ministry ent of Interior proposed the Province as an organism, the larger urban range containing Osaka City and some middle central places like Sakai City together, and forced Osaka City to compete with such central places in order to aim at moderating its demands against the state. Thereby, they attempted to maintain Osaka City under their control. Meanwhile, Osaka councilmen strenuously resisted the incorporation of rural districts into Osaka City and tried to scale down the urban range. In this sense, the conflicts between the geographical imaginations of three agents came to surface as the politics of spatial scale.This politics materialized in the network of the rapid transit system. Osaka municipal bureaucrats regarded the network as a facility to organically link each district within Osaka City. However, bureaucrats in the Ministry of Railways insisted on cutting down the network on the periphery for the benefit of the railway corporations that run along the planned system. Meanwhile, Osaka councilmen wanted to reduce it in the rural districts in the area.As a consequence of this conflictual process, the geographical imagination of Osaka municipal bureaucrats institutionalized the spatial scale which could come to guarantee the reorganization of Osaka City as an organism, and it has been manifest that their geographical imagination has the capacity to resolve the housing problem, to prevent population spillage and to claim self-government in great cities against the state. The material facilities established in town planning such as the rapid transit system were initiated in the context of the politics of the geographical imagination such as the one which has been outlined above.