著者
荒又 美陽
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.66, 2006

1.はじめに<BR> 街区を保存すべきか、作り変えるべきかという判断は、既存の建造物の状態や固有の歴史性にしたがってなされているように見える。しかし、実際には、それは時代や社会情勢を反映しており、決して中立のものではない。同じ街区が、数年間のうちに、保存の対象となったかと思えば取り壊されることもある。<BR> パリのマレ地区は、1964年に歴史的街区として保護・修復の対象となった。根拠法である通称「マルロー法」(1962年成立)の審議の段階で、マレはすでに対象とみなされており、その歴史的価値が相当に認知されていたことを見て取ることができる。ところが、戦前には、マレ地区の南部は「不衛生街区」として取り壊しの対象となっていた。この転換の背後には何があったのだろうか。本報告では、パリ四区の住民を中心とする歴史協会が、現在のマレ地区にほぼ一致する領域を対象に研究し、1902年から39年まで発行していた『ラ・シテ』という機関誌を取り上げる。分析によって、地区の二つの表象が明らかになってくる。ここでは、それらと政策の関連について考察する。<BR>2.取り壊しに対抗する歴史<BR> フランスの都市計画は、19世紀中盤以降、入り組んだ街区を取り壊し、広い街路と設備の整った建造物を建設する方向で進められてきた。マレ地区の整備は遅れていたが、20世紀の初頭には、少しずつ取り壊しと再建が実施された。第四区の歴史協会は、地区の建造物やモニュメントについて、たくさんの研究を行った。詳しく見ていくと、それらは必ずしも美的・歴史的価値が見出されるにつれて増えたというわけではない。1902年の最初の論文から、対象となっているのは破壊されつつある建造物であった。また、歴史上重要な人物が地区でどのように生活していたかについても報告され、具体的な場に当てはめられた。『ラ・シテ』の歴史研究は、具体的な建造物や通りと関連させることによって地区の取り壊しに抗していたのである。<BR>3.排除すべき現状<BR> 他方、同じ『ラ・シテ』において、東方ユダヤ移民が批判すべき対象として現れていた。19世紀末から、ポーランドやロシアの弾圧を逃れて多くのユダヤ人がマレに住んでいたが、『ラ・シテ』では、言葉も通じず、好んで不衛生な状態にいる不可解な存在として描かれていた。行政に「不衛生街区」と指定されたマレ南部については、統計上移民が多いこととともに、19世紀のはじめにコレラの死者が多かったことも報告された。こうして、『ラ・シテ』では、街区の取り壊しにも理由を与える表象を提供していた。<BR>4.破壊から保存へ<BR> マレ南部の不衛生街区は、ヴィシー期に集中的な開発の対象となった。当初は取り壊しを目的としていたが、1942年に街区の歴史性を重視する方針に転換した。同じ時期にユダヤ人が強制移送の対象となり、地区の表象として歴史性のみが残っていたことと無関係とはいえない。戦後、不衛生街区事業を担当していた建築家がマレ地区保存のための調査にあたった。『ラ・シテ』に見られた保存と排除の思想は、60年代に引き継がれていくのである。<BR><BR>主要参考文献<BR>Fijalkow, Y. 1998. La Construction des &icirc;lots insalubres. Paris 1850-1945. L'Harmattan<BR>Gady, A. 1993. L'&Icirc;lot insalubre No 16: un exemple d'urbanisme arch&eacute;ologique. Paris et Ile de France m&eacute;moires publi&eacute;s par la f&eacute;d&eacute;ration des soci&eacute;t&eacute;s historiques et arch&eacute;ologiques de Paris et de l'Ile de France. Tome 44: 207-29

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"1942年に街区の歴史性を重視する方針に転換した。同じ時期にユダヤ人が強制移送の対象となり、地区の表象として歴史性のみが残っていたことと無関係とはいえない" →パリ・マレ地区。興味深し。

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